前編|「分かる」とは何か――受験数学と、私が引っかかり続けた違和感
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
ココナラで、私は一度、
「全国模試で1位を取った」という人に、数学の質問をしたことがあります。
いわゆるトップ層です。
解くのは速い。答案も美しい。
受験という制度の中では、疑いようのない成功者でした。
ただ、そのやり取りの中で、私は正直に言って、
ある種の物足りなさを感じてしまった。
強い言い方になるけれど、
「理解が甘いのではないか」と思ったのです。
(尖っていた頃、そのような印象を持ったという話ですので、今は話半分に受け流してください😅)
もちろん、これは能力の話ではありません。
むしろ逆で、彼は受験数学において最適化された理解をしていた。
ただ、それが私の求めていた「分かる」とは、
どうやら別物だった、というだけの話です。
定数を分離する、という「当たり前」
受験数学では、解の配置問題で、文字定数を分離せよという常套手段がありますね。
たとえば $${k}$$ を含む文字関数が出てきたら、
$${k}$$ を定数として分離する
新たな関数として式変形する
グラフを描き
$${y = k}$$ との交点や接点に注目する
——これはほとんど「定石」と言っていい流れです。
私自身も、この解法を知らなかったわけではありません。
問題は、その一歩手前でした。
なぜ「分離」と呼ぶのか
分離することで、関数の何が変わり、何が保たれているのか
そもそも、これは「一つの関数」ではなく、「関数の族」を扱っているのではないか
こうしたことが、どうしても気になってしまった。
でも、受験数学の世界では、
そこはほとんど問われません。
「こういうときは、こうする」
「この形なら、ここに注目する」
それで十分に点が取れるからです。
渡部由輝・和田秀樹が語る、受験数学の現実
この違和感は、後になって言語化されました。
渡部由輝が語っているように、
大学受験の数学では、
入試数学の問題がうまく解けるといっても、その問題の根本原理までじっくりと考えて解いているわけではまずない。
多くの場合、
問題とその解き方を意味はわからないままパターン的に覚えておき、それが当てはまるようなタイプの問題に出会ったとき、その方法を思い出して適用しているにすぎない。
これは、冷たい言い方かもしれませんが、
制度としては極めて合理的です。
和田秀樹も『数学は暗記だ』の中で、
「“厳密な理解"に、あまり深くこだわるな」(65頁)
という趣旨のことをはっきり述べています。
ここで大事なのは、
それが「間違っている」という話ではない、ということです。
むしろ、
そうでなければ受験という競技は成立しない。
私がやっていたのは、別の問いだった
ただ、私はどうしても、
そのルールにうまく乗れなかった。
なぜこの操作が許されるのか
なぜこの変形で見えるものが変わるのか
その背後にある構造は何なのか
「解けるかどうか」よりも、
「何が起きているのか」が気になってしまう。
今振り返れば、
私は受験数学というゲームではなく、
数学という思考体系そのものに、
首を突っ込んでいたのだと思います。
だから、全国模試1位の人と話しても、
話題がどこかで噛み合わなかった。
求めている理解の水準が、
そもそも同じ軸の上になかった。
この違和感は、どこへ向かったのか
この感覚は、やがて一つの問いに収束していきます。
自分は、
この制度の中で
数学と付き合っていけるのだろうか。
その答えは、
大学、研究、そして「ポスト」という現実に直面する中で、
徐々に、しかしはっきりと形を持っていくことになります。
なぜ研究者になれなかったのか。
なぜ「才能」という言葉に引っかかり続けているのか。
そして、なぜ今、私はこの場所(note)で書いているのか。
それは後編で、
もう少し踏み込んで書こうと思います。
