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カンパリ・シェカラートを飲んだら、強く生きることを思い出した

――カンパリ・シェカラート
このカクテルの名前を知ったのは、とあるホームページに掲載されたエッセイだった。
カンパリとは、数十種類の薬草が入っているリキュールタイプのイタリアのお酒。透き通った真っ赤な色が特徴的だ。
昔、一度だけ飲んだことがある。
「にがっ!」
今までに飲んだことのない味。原料の薬草の成分だろうか。舌を刺す苦みが口の中に広がった。ちなみにカンパリの原材料は60種類とも言われるが公表されていない。作り方も秘密なのだとか。薬か毒か……? このミステリアスなところに、怖いもの見たさの魅力があり、連綿と秘密の製法を守ってきたという畏怖の念を抱く。
とにかくこの不思議な味のお酒は、オレンジジュースで割っても、ソーダで薄めても、苦いものが苦手な自分には到底受け入れられなかった。カンパリの入ったカクテルには手を出さない。それが、私のお酒にまつわるルールとなって久しかった。

エッセイによると、カンパリを氷と短時間で強くシェークすることによって、苦みが丸くなり、飲みやすくなるという。その上、「宝石箱みたいに美しい」のだそうだ。果たして、そんな魔法みたいなことがあるだろうか。興味をそそられ、飲んでみたくなった。
彼女の唯一のアドバイスは「プロのバーテンダーに作ってもらったほうがよい」だった。

私の住む県の歓楽街に、古き良き伝統を守ったバーがある。営むのは女性のバーテンダーさん。カクテルコンテストの世界大会で優勝するほどの腕の持ち主で、飾らない人柄と笑顔がとても印象的な人。彼女の作るカクテルはどれもとてもおいしい。彼女が作ったのなら間違いない。

ちょうど、数日後に職場の飲み会が計画されていた。職場の飲み会のあと、一人でバーに行こう。
そして、飲み会当日。
運よく、一次会が予想より早く終了した。よし、このまま、バーへ直行だ。
小声で「じゃ、私はこれで……」と、飲み屋の店先で二次会の相談をするグループからそっと離れ、気配を消して、バーのほうに向かって歩き出した。
3分ほど歩くとバーの前に到着した。
重いダークブラウンのドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに、あの腕のいい女性のバーテンダーさんがいた。
「どうぞ」とカウンター席に促され、入り口寄りの一番端の席に座る。バーテンダーさんがおしぼりを手渡すのも待てず、カウンターに身を乗り出さんばかりの勢いで、
「今日は、どうしても飲みたいものがあるんです。作ってもらっていいですか?」
と切り出した。一次会でのワイン2杯とチューハイの酔いも相まって、生まれて初めてこんなふうにカクテルを注文をすることに興奮していた。
「はい。いいですよ」
バーテンダーさんに驚いた様子はなく、にっこりと笑ってくれた。
「カンパリ・シェカラートが飲みたいんです」
「ああ、カンパリですね。かしこまりました」
ひとまず注文できてほっとした。

一度立ち上がって、椅子に座り直す。店内をゆっくりと見渡す。
客は、私と、カウンターの椅子をいくつか挟んだ向こうに一人、中年の男性がいた。アロハシャツのような派手な柄のシャツと短パン姿。カウンターの中のスタッフをおしゃべりで笑わせている。
店内は、落ち着いたダークブラウンで統一されており、バーカウンターは重そうな一枚板でよく磨かれ、木の肌触りと厚みが気持ちよかった。正当派のバーの雰囲気に加え、どこかかわいらしさも漂う。とても居心地が良い。

バーテンダーさんが、シェーカーとカンパリの瓶、よく冷やしたカクテルグラスを取り出して、私の前に置いた。いよいよだ。
果たして、エッセイのとおりにおいしいのだろうか。
カンパリが違う味になるとはまだ信じられない。口に合わなくて飲めなかったらどうしよう。「やっぱりまずくて飲めません」なんて大人が集うバーで言うなんて野暮なことはしたくない。
ホームページの記事には、味がまろやかになると書いてあったし、作るのは世界一の腕の持ち主。信じよう。
無駄のない優美な手つきで、カンパリをメジャーで計り、シェーカーに入れる。氷を入れ、蓋をして、すっと持ち上げた。
シャカ、シャカ、シャカ。
さきほどの優しい手つきとは打って変わり、目にもとまらぬ速さで、力強くかつ美しくシェーカーを振る。小柄な女性が生み出す音とは思えないパワフルな音。これが世界一の技なんだ……。
シェーカーの中でカンパリと氷が混ざる。氷が砕け、小さな粒がコップの中で弾ける。
バーテンダーさんの動きが止まった。シェーカーの蓋を開け、カクテルグラスの足に手をかける。シェーカーから液体が注がれる。
透明で真っ赤だったカンパリが、秋の夕暮れ、空が紺色に塗り替わる直前のような、濃いオレンジ色になって現れた。グラスの中が濃いオレンジ色に満ちていく。綺麗……
「瓶に入っているときみたいに、透明じゃないんですね」
「シェークして空気が混ざっているので、透明ではなくなるんです」
小さな気泡の粒が透明度を消しているのか。その証拠に、グラスに注がれたカンパリの表面は、小さな空気の粒で真っ白に泡立っていた。その白い空気の粒の中に、砕けた氷の微粒子が浮かんでおり、天井のスポットライトに照らされてキラキラ光っていた。エッセイでは「宝石箱」と表現されていた。そのとおりの美しい姿が、ここにあった。
「どうぞ」
カクテルグラスが、すっとテーブルを滑って、私の前に差し出された。
「いただきます」
そっとグラスを持ち上げて口に近づける。薄いグラスは金属みたいにキンと冷えていた。おそるおそるカンパリを口に流し込み、こくんと飲み込んだ。
───苦くない。
いや、苦味がなくなったわけではない。ほろ苦さはある。でも、あの舌を刺すような強烈な苦味は全く感じない。代わりに言いようのない深い甘みがあった。カンパリの奥にこんな甘みが隠されていたとは……
「おいしい」
なんておいしい夕暮れ色の飲み物だろう。あのカンパリが、こんなにおいしくなるなんて、想像してなかった。
甘さにつられ、一気に飲み干したい欲望にかられる。そこをぐっと我慢して、いったん、グラスを置いた。

グラスに入ったカンパリ・シェカラートを眺めながら、さっきの一次会のことを思い出した。
おしゃべりの中で、少し前に仕事で私のしでかした失敗のことが話題にあがった。私のツメの甘さと不運が重なって、ふだんなら発生しない事態になったときのこと。みんなが語って笑う。私も一緒になって笑った。けれど、本当のところ、ネタにされて、相当へこんでいた。
どうして、あの時、もう少しちゃんと確認しておかなかったのだろう。もう少し冷静に考えれば気づいたはずなのに、どうしてできなかったのだろう。いい加減な仕事をする自分に腹がたっている。後悔している。それを平気なふりをして、笑って、みんなにも笑われるままにされている、自分が悲しく、情けなかった。もっと素直に落ち込めばいいのに、全然気にしてないよという顔をしているのは、滑稽で、辛い。
周りの人は、私のミスが引き起こした事態をただの笑い話だと思っていてくれたのかもしれない。私も気にすることではなかったのかもしれない。でも後悔と自己嫌悪が心の中で重石のようになって、なかなか気分が浮上できずに、このバーまで来た。
後悔や自己嫌悪は、カンパリの苦さに似ている。苦くて、まずくて、心を刺す、吐き出したくなる。感じなくてすむものなら、そうしたい。でも、生きていれば、いいことも悪いことも、思いもよらない出来事に出くわす。そして、いろんな感情に振り回される。
シェーカーの中は私たちが生きている社会のようだ。恋人や友人と仲良くなったり、ケンカしたり、仕事で成功したり、失敗したり、家族とうまくいったり、いかなかったり。誰かと出会ったり、別れたり。私たちも、社会というシェーカーの中で感情を揺さぶられ、振り回されているうちに、シェークされたカンパリのように苦味の角がとれ、まろやかになって、甘みのある人間になれるかもしれない。そうなら、失敗したり、落ち込んだりするのも悪くない。
失敗を次にどう生かすのか、自分を過大評価していなかったか、傲慢になっていなかったか。私の失敗を許し、笑いとばしてくれる周りの人への感謝。一つ角の取れた人間になること。
グラスに残っていたカンパリ・シェカラートをぐっと飲み干す。最後の一滴までおいしかった。
カンパリと氷をシェークしただけのカクテル、カンパリシェカラート。
それはまるで、社会の荒波に揉まれてながら、ひたむきに強く優しく生き抜く人の生き様のようだ。
「ごちそうさまでした」
重いドア開けて、店の外に出ると、深夜だというのに残暑の湿気と熱気がまとわりついてきた。
けれど、口も心も苦いあのカンパリでできた、魔法のようなカクテルのおかげで爽やかだった。

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