『沈黙のプロパガンダ 』
ジャーナリズムという聖域は、いまや過去の遺物と化した。
かつて私たちは、報道を「正義の鉄槌」のごとく信奉していた。
権力の横暴を暴き、巨大資本の不正を糾弾し、公僕の失態を白日の下にさらす。
ニュースという舞台の上では、ペンは剣よりも強く、真実は守られるべき至高の価値であると信じて疑わなかった。
だが、それはあまりに無垢で、甘い幻想に過ぎなかった。
現代において、報道という営みには莫大な「資本」が必要となる。
想像してみてほしい。
自らの喉元を握るスポンサーが隠し通したい不都合な真実を、果たして誰が白日の下に晒せるだろうか。
株主である巨大資本の利益を損なう言論を、平然と公共の電波に乗せられる組織がこの世に存在するだろうか。
答えは、明白だ。
そんなことはできようはずがない。
報道はすでに、巨大資本という名の「見えない鎖」に繋がれている。
それはもはや「偏向」という言葉では生ぬるい。
報道の構造そのものが、資本の論理に支配されているのだ。
現代の報道は、あからさまな嘘をつく必要すらない。
ただ「触れない」こと。
それだけで、厳然たる事実をこの世界から跡形もなく消し去ることができる。
この静かな隠蔽こそが、現代のメディアが手にした最も巧妙で、最も冷酷な欺瞞である。
以前、ある興味深い話を耳にした。
テレビが政治家の顔を映し出すとき、満面の笑みのカットを使うか、あるいは不機嫌そうな表情を使うか。
その一瞬の選択に、報道機関の「意志」が宿るのだという。
事実は同じでも、受け取る印象は180度変わる。
これを偏向と呼ばずして、一体何と呼ぶべきだろうか。
私たちはなぜか、報道を無意識のうちに「中立」なものとして受け入れてしまう。
だが、考えてもみてほしい。
財力と権力を手中に収めた者たちが、これほど強大なプロパガンダ装置を、無防備なまま放置しておくはずがないのだ。
露骨な操作は大衆に見破られる。
だからこそ、彼らは「印象操作」という名の技術を極限まで磨き上げた。
私たちの心理を、ゆっくりと、確実に、彼らが望む方向へと誘導するために。
本来、こうした資本の論理から距離を置くために結成されたNHKでさえ、いまやこの潮流から逃れられてはいない。
もし国民がその受信料という支えを放棄すれば、国民放送もまた、権力者の広報局へと無残に変貌していくだろう。
一方で、若い世代の中には「インターネットこそが中立な情報の避難所だ」と信じる者も多い。
だが、これほど御しやすい場所も他にない。
テレビや新聞は、少なくとも自らの発言を会社やグループという形で「担保」している。
そこには発信者の実在と、最低限の責任が存在している。
しかし、ネットの海に漂う言葉を、一体誰が保証してくれるというのか。
例えば、今ここで私が綴っているこの文章も同じだ。
その信憑性を、プラットフォームが肩代わりしてくれるわけではない。
顔も名前も持たない「誰か」の言葉が、真実と嘘の境界を曖昧にし、溶かしていく。
たとえそれが煌びやかなインフルエンサーであっても、構造は変わらない。
彼らの背後には、必ずと言っていいほどスポンサーが控えている。
再生数が止まり、資金が途絶えた瞬間に、彼らの生活は崩壊する。
その恐怖を抱えながら、飼い主の喉元に噛み付ける者がどれほどいるだろうか。
もはや、この国に純粋なジャーナリズムなど存在しないのかもしれない。
私たちが目にする情報はすべて、金と権力のフィルターを通り、誰かにとって都合のいい形へと整形された「成れの果て」だ。
それを時代の必然として受け入れるか。
それとも、欺瞞として唾棄するか。
その選択だけが、いまも私たちに残された、最後の自由なのかもしれない。
そして私は今日も、誰かに整形された真実を「世界」と呼んで生き続けている。
