『無自覚な石片』
「弱い者いじめは、いけないことだ。」
そう言われて首を横に振る者はいない。
学校の道徳でも、子ども向けの絵本でも、それは疑う余地のない悪徳として語られる。
心身に障がいを抱える人、経済的に困窮する人、不条理な環境のなかで生きざるを得ない人。
そうした「かわいそうな人々」に対して、私たちは同情し、保護し、救済の必要性を語る。
現代社会は、そのための制度を少しずつ整えてきた。
そこでの私たちは、おおむね善良だ。
だが、その綺麗事の幕を一枚めくった足元で、私たちは本当に「弱い者いじめ」をしていないと言い切れるだろうか。
現実を凝視すると、そこにはもう一つの弱者の群れが見えてくる。
良好な友人関係を築けない者。
恋愛という市場からあらかじめ排除された者。
まともな職に就けず、社会の周縁を漂う者。
彼らもまた、紛れもなく弱者である。
しかし私たちは、彼らに対して驚くほど冷淡だ。
いや、冷淡なだけではない。平然と石を投げる。
「自業自得だ。」
「努力が足りない。」
「コミュニケーション能力がないからだ。」
「自己責任だ。」
そうした言葉を、まるで正論であるかのように握りしめながら。
もちろん、人生のあらゆる不幸を環境のせいにすることはできない。
努力によって状況を変えられる場面もある。
だが同時に、この世界には個人の努力だけではどうにもならない傾斜が存在することもまた事実だ。
そして私たちは、その傾斜をあまりにも過小評価している。
この世には、一つの冷酷な原則がある。
――「求められる者ほど、さらに求められる」という原則だ。
仕事の現場を見ればわかりやすい。
能力の高い人間の元には、限界を超えていても次々に仕事が集まる。
上司は重要な案件を、信頼できる人間へ任せる。
わざわざ成果の期待できない相手へ配分しようとはしない。
それは合理的な判断だ。
しかし、その合理性は人間関係や恋愛、市場原理のほぼすべてに浸透している。
友人に求められるのは、すでに友人が多い人間だ。
恋人に求められるのは、他者から求められ慣れている人間だ。
企業が欲しがるのは、他社も欲しがる人材だ。
反対に、誰からも選ばれなかった人間は、ますます選ばれなくなっていく。
需要は需要を呼び、欠乏は欠乏を呼ぶ。
世界は驚くほど均等ではない。
そして私たちは、その構造そのものよりも、そこから零れ落ちた人々を責めることに慣れすぎている。
「なぜ友人がいないのか」「なぜ恋人ができないのか」「なぜ安定した仕事に就けないのか」と問い詰めるとき、多くの場合、私たちは原因を本人の内部にだけ求める。
努力不足、性格の問題、能力不足。
確かにそれも一因ではあるだろう。
だが、その言葉の裏側には、「自分は選ばれる側にいる」という無意識の優越感が潜んでいる。
もし自分が同じ環境に生まれていたら、同じ家庭で育っていたら、同じ失敗を重ねていたら。
本当に、彼とは違う人生を歩めていたと言い切れるだろうか。
この国は形式上、平等である。
試験で高得点を取れば官僚にも大企業社員にもなれるし、法律の上では身分制度も存在しない。
だが現実には、見えない傾斜が至るところに横たわっている。
片親世帯と両親世帯の教育機会の差。
家庭の経済力による進路選択の差。
親の学歴や人的ネットワークがもたらす情報格差。
生まれた時点で与えられる環境の違いは、想像以上に大きい。
私は「親ガチャ」という言葉が好きではない。
あまりにも俗悪で、あまりにも思考停止だからだ。
しかし、その言葉が生まれた背景にある現実まで否定することはできない。
人生のスタートラインが完全に平等でないことは、もはや疑いようのない事実だからだ。
それにもかかわらず、「努力が足りない」「自己責任だ」という免罪符を掲げながら、私たちは選ばれなかった人々へ石を投げ続ける。
もちろん、企業が人材を選ぶこと自体は悪ではない。
恋愛で好みの相手を選ぶことも悪ではない。
誰かが誰かを選ぶという行為そのものは、人間社会の避けられない構造である。
問題は、その結果として生まれた敗者や孤独な者たちを、さらに見下し、嘲笑し、人格まで断罪することだ。
選ばないことと、石を投げることは違う。
だが私たちは、その境界線をしばしば見失う。
そして、自分が石を投げていることにすら気づかない。
ならば、どうすればいいのか。
ホームレスに金を配ればいいのだろうか。
孤独な人間に友人を斡旋すればいいのだろうか。
国家が恋人を配給すれば問題は解決するのだろうか。
そんなことはできない。
現代社会という巨大なシステムは、誰かが選ばれ、誰かが選ばれないことを前提として動いている。
救済の範囲を広げれば、その境界線のすぐ外側に新たな犠牲者が生まれる。
すべてを救う仕組みなど存在しない。
私たちは聖人にはなれないし、神にもなれない。
だからこそ、せめて忘れてはならないことがある。
私は誰かより恵まれていたかもしれない。
私は誰かを押しのけ、その機会を得たのかもしれない。
私は選ばれる側に立てた偶然によって、今の生活を営んでいるのかもしれない。
その事実を、完全には忘れないことだ。
すべての弱者を救うことはできない。
だが、自分が常に正しい側にいるという傲慢からは距離を置ける。
その静かな自覚だけが、他者へ向かって振り上げられた手を止める。
その小さな躊躇だけが、無自覚に握りしめていた石片を、そっと地面へ落とさせるのだと思う。
