見出し画像

『言葉が人格を追い越す時』

私は長いあいだ、「コミュニケーションが苦手だ」という一つの側面に、深く縛られて生きてきた。


世間一般で言われるところの「コミュ障」の気質を、確かに私は持っている。



人と向き合って話すとき、胸の奥に張り詰めた緊張が走る。


それは日常の風景だ。



そしてこれは対面に限らない。


文章においても同じだ。


なぜ相手は、その言葉を選んだのか。


私の発した言葉の、どの部分が、どのように相手の感情を刺激してしまったのか。


その因果関係を解きほぐすことが、私にはどうしても難しい。



言語による情報処理に不自由を抱えている一方で、矛盾しているようだが、私は他者の感情や場の雰囲気を察知することに、異様なほど長けている。



いわゆる「空気を読む」力だ。



そして、その能力こそが、私をさらに追い詰める。



自分の意図とはまったく異なる意味で言葉が受け取られた瞬間、私はそれを即座に悟ってしまう。


「ああ、また間違えた」という自己嫌悪と同時に、相手の内側に生じた怒りや戸惑い、不快感が、濁流のように押し寄せてくる。



なぜ、この単純な言葉が、そんな解釈を生んでしまうのか。



その仕組みが理解できない以上、修正も対処もできない。


ただ、打ちのめされるしかない。



象徴的な出来事がある。


大学生の頃、母とスーパーで買い物をしていたとき、中学時代の知人と偶然再会した。


彼は相撲部屋に入門し、髷を結い、見違えるほど立派な体躯になっていた。



「おお、久しぶり。今、何してるの?」


そう声をかけられ、私は反射的に答えた。


「え、買い物だよ。」


彼は一瞬、言葉を失ったような表情を浮かべ、曖昧に頷くと、そのまま去っていった。



後になって知ったのは、彼の「今何してるの?」が、職業や進路、つまり社会的な立ち位置を問う言葉だったということだ。



彼はきっと、話の通じない人間だと思っただろう。


だがその場で私が受け取った意味は「今、この瞬間、何をしているのか」ただそれだけだった。



こうした特性は、しばしば発達上の個性という言葉で語られる。


だが私は、診断名や分類で自分を区切りたくはないと思っている。



ただ、言葉が拙いだけだ。


ただ、吃音があるだけだ。


ただ、少しだけ人と話すのが苦手なだけだ。



それは人格の全てを規定するものではない。



私には、忘れられない言葉がある。


イギリスのオーディション番組で一躍有名になった歌手、スーザン・ボイルの言葉だ。



年齢を尋ねられ、「47歳」と答えた彼女に向けて、会場が微妙な沈黙に包まれたその瞬間、彼女はこう言い放った。



「それは、私の一つの側面に過ぎない。」



まさにその通りだと思う。


彼女の年齢は、彼女を構成する要素の一断面でしかない。



私も同じだ。


「コミュ障」という側面だけで、私のすべてを語られたくはない。


「吃音」や「言葉の拙さ」は、私という人間の一部にすぎない。



私は、そういう個性を持った人間なのだ。



これまで私は、noteに多くの文章を書き連ねてきた。


ありがたいことに、スキやコメント、DMをいただくことも増えた。


その一つひとつが、確かな喜びとして胸に残っている。



だが、心苦しいことに、私はすぐに返事を書くことができない。


返信しなければ、という思いは強くある。


それでもスマホのキーボードを前にすると、緊張が先に立ち、指が震えてしまう。



それでも、私は書き続ける。



文章という表現手段だけは、私を縛る「一つの側面」から解放してくれる、唯一の場所なのだから。

いいなと思ったら応援しよう!