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『史上最悪の加害者』

自身の不注意で物を壊した人間が、「こんな壊れやすい製品を作るメーカーが悪い」と憤慨する。

仕様書や説明書を読み飛ばして不利益を被った人間が、「説明が不親切だからだ」と逆上する。

安易な好奇心で機械を分解し、元に戻せなくなった途端、「こうなる前に誰かが止めるべきだった」と怒鳴り散らす。

なんとも滑稽な光景である。


しかし、当人たちの内面では、驚くほど精緻な整合性が取れているのだろう。


他人のせいにしてしまえば、自分の不注意や未熟さと向き合わずに済む。

自尊心は傷つかず、反省というコストも発生しない。

タイムパフォーマンスとコストパフォーマンスが至上命題となった現代社会において、これほど効率的な自己防衛は存在しないのだ。


失敗から学ぶより、失敗の責任を外部へ「輸出」した方が、遥かに安上がりなのである。


では、なぜこれほどまでに「当事者」であることを拒絶し、他者へ責任を押し付ける人間が増えたのか。


理由は単純である。

社会や組織における「褒賞と懲罰のシステム設計」が、致命的なバグを抱えているからだ。


問題が発生した現場を想像してほしい。

そこにある選択肢は、本質的に二つしかない。


率先して泥をかぶるか。

あるいは、一歩引いて様子を見るか。


前者を選んだ人間は、不確実性の渦中へ飛び込み、責任を引き受ける。

成功すれば事態は収束する。

日常は回復し、人々は安堵する。


だが、その成功は往々にして評価されない。

なぜなら、結果として「何も起きなかった状態」に戻っただけだからだ。


人は、失われるはずだった平穏の価値を数えない。

数えるのは、それが失われた時だけである。


一方で、失敗した時の結末は極めて明快だ。

問題の根本原因が何であれ、最後にバットを振った人間がすべての戦犯になる。


「お前の管理不足だ。」

「なぜ予見できなかった。」

「もっと良い方法があったはずだ。」


結果論という名の石が、四方八方から容赦なく降り注ぐ。

責任を引き受けた者は、成功しても忘れられ、失敗すれば吊し上げられる。


冷静に考えれば、あまりにも割に合わないデスゲームだ。


対照的に、傍観者の立場は圧倒的に有利である。

誰かが問題を解決してくれれば、ただ乗りすればいい。

もし失敗したなら、安全圏から痛烈な批判を浴びせればいい。


失うものは何もなく、背負う責任もゼロだ。

しかも、他人を断罪する行為は、脳内に歪んだ快楽をもたらす。

自分がさも優れた存在になったかのような、全能感を与えてくれるからだ。


そして周囲の観客もまた、その錯覚に引きずられていく。

打席に立って三振した者よりも、スタンドからフォームの欠点を饒舌に指摘する者の方が、なぜか賢く見えてしまう。

泥まみれで挑戦した人間より、それを冷笑的に批評する人間の方が、知的に映ってしまうのだ。


だから大衆は勘違いをする。

失敗した当事者は無能であり、批判している傍観者こそが優秀なのだ、と。


だが実際には、前者だけが自らの身を賭してリスクを引き受けていたのであり、後者は何も賭けていない。

ほとんどの人間は、その決定的な違いを見ない。

見るのは、切り取られた結果だけだ。


これでは、誰も当事者になろうとしないのも当然である。

問題の渦中に立つのではなく、その外側で「巻き込まれた悲劇の主人公」を演じる者が増えるわけだ。


被害者の座に就くことは、現代において最も安全な生存戦略である。

責任を問われず、失敗の代償を支払う必要もなく、それどころか「他人を合法的に裁く資格」まで手に入る。


現代社会において、「無垢な被害者」というポジションは、最も防御力が高く、同時に最も攻撃力の高い最凶の兵器なのだ。


むろん、本当に理不尽な被害を受けた人々は存在する。

災害、犯罪、不条理な格差。

本人に微塵の責任もない苦痛など、この世界にはいくらでもある。


だが、ここで問題にしているのは、そのような真正の弱者ではない。

「被害者であること」を、自らの怠慢と無責任を隠す免罪符として利用する人間たちのことだ。


自分は関与しない。

責任も負わない。

何かが起きても決して手を汚さない。

それでいて、結果だけを見て「なぜこうなった」と石を投げる。


その姿勢は一見、無害で大人しいものに見える。

しかし実際には、この静かな無関心こそが、社会のあらゆる場所から「当事者」を摩耗させ、絶滅させていく。


人間は学習する生き物だ。

責任を負えば損をする。

動けば叩かれる。

ならば、何もしないことこそが至高の合理性だ。


そう考える人間がマジョリティになった組織から、挑戦者は消え、問題解決能力は砂のように崩壊していく。


そして、この病理が迎える最も恐ろしい結末がある。

誰かが泥をすすり、傷だらけになりながら、ようやく問題を解決したその瞬間。

それまで気配を消していた「無垢な被害者」たちが、一斉に口を開くのだ。


解決の過程で生じた些細な綻び。

避けようのなかった微小な判断ミス。

後から振り返れば改善できたかもしれない瑕疵。


彼らは、その傷跡だけを顕微鏡で拡大し、命懸けで現場を支えた功労者を「新たな加害者」として烈しく糾弾する。


自らは何一つ背負わず。

何一つ賭けず。

何一つ失わず。

安全な場所から、正義という名の刃だけを振るう。


その姿は、弱者の仮面を被っているがゆえに、その凶悪さが見えにくい。


しかし、本質は真逆である。

本当に社会を内部から腐らせるのは、打席に立って失敗した当事者ではない。

責任を負うことなく、責任を負った者だけを消費し、裁き続ける傍観者である。


被害者であることと、無責任であることは、本来まったく別の概念だ。

だが、この二つが安易に結び付いた時、人は「最も安全な場所から、最も残酷な石を投げる怪物」へと変貌する。


そして、その石が絶え間なく飛び交う社会では、もう二度と、誰一人として進んで前へ出ようとはしなくなる。

それこそが、「無垢な被害者」という名の史上最悪の加害者たちが生み出す、底なしの悲劇なのである。

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