『遅刻は有能の証』
先日、あるネット記事が目に留まった。
「遅刻を叱る人は仕事ができない。既に遅刻しているのに、さらに叱っている時間がもったいない。」
「優秀な人ほど予定が詰まっている。分刻みで動いていれば、多少の遅刻は当然だ。」
おそらく筆者は、すべてを理解した上で書いている。
遅刻が社会的に歓迎される行為でないことなど、百も承知だろう。
その上で、あえて逆張りの旗を掲げる。
なぜなら、その方が「インプレッション」という名の果実を効率よく収穫できるからだ。
「そんなわけがない」と憤る人々は、反論しながら拡散に加担する。
文章の構造ではなく、単語だけに反応した怒りが、アルゴリズムの燃料になる。
そして何より、慢性的に遅刻を繰り返してきた者たちが、自分を肯定してくれる“免罪符”として、その言説に群がる。
実に現代的な、そして空虚な循環である。
私は、ほとんど遅刻をしない。
理由は単純だ。
「急ぎたくない」からである。
走れば間に合う電車には乗らない。
一本早く出て、余裕を持って移動する。
渋滞が予見されるなら、ラッシュが始まる前に現地へ着き、喫茶店で時間を潰す。
目的地の周囲を意味もなく歩き、公園のベンチでぼんやりする。
効率至上主義の観点から見れば、これは無駄な時間なのかもしれない。
だが私は、この「フラフラする余白」を気に入っている。
この時間は、誰にも侵されない私の領土だ。
仕事でも、私生活でも、私はこの領土を守るために時間を支払う。
だからこそ、遅刻を繰り返す人間の感覚が、どうしても実感として入ってこない。
もちろん、不可抗力の遅れは存在する。
事故、災害、交通障害、あるいは複数案件の連続による物理的な破綻。
それらまで人格論に回収するつもりはない。
だが、世に蔓延する大半の遅刻は、もっと日常的で、もっと曖昧だ。
「少しくらいなら。」
「まだ間に合う。」
「たぶん大丈夫。」
そうした根拠の薄い楽観の積み重ねが、静かに、しかし確実に他人の時刻表を破壊していく。
遅刻する側は、しばしば「自分の時間を大切にしている」と嘯く。
だが、その論理を裏返せば、待たされる側の人生を軽視しているということだ。
本当に時間を尊重する人間は、定刻ギリギリという「博打」を打たない。
余裕を持って到着し、相手の予定を乱さない形で自分の時間を使う。
遅刻とは、時間を大切にしている証ではなく、自己管理の放擲に過ぎない。
だからこそ、遅刻常習者ほど、「叱る方が非効率だ」という甘い毒に救いを求める。
確かに、叱責そのものは生産的ではない。
数分間の説教から直接的な利益は生まれない。
しかし、それだけを切り取って「叱る側が無能だ」と断じるのは、あまりにも視野が狭い。
もし、完全なジョブ型雇用であれば話は別だろう。
成果物と納期だけが評価対象であるなら、定刻出社の重要性は相対的に下がる。
極端な話、締切さえ守れば、深夜に働こうが昼過ぎに起きようが構わない。
だが、日本社会の多くはいまだ「メンバーシップ型」で動いている。
そこでは、「決められた時間に、決められた場所で働く」という行為自体が、組織参加の最低条件であり、契約の第一条だ。
上司が非効率を承知で叱るのは、感情的快楽のためではない。
規律を教え、組織のリズムを維持するための「教育コスト」を支払っているのだ。
まだ完成していない人間を雇い、訓練し、共同体の一員として機能させる。
その「余白」こそが、メンバーシップ型雇用の本質的な恩恵でもある。
叱責とは、その余白を削って行われる、組織側の「投資」なのだ。
それを「仕事ができない」と切り捨てるのは、差し出された手を噛むような、厚顔無恥な振る舞いと言わざるを得ない。
もちろん、「有能な人ほど予定が詰まっている」という側面はあるだろう。
以前、ある芸人が語っていた。
東京、大阪、東京と劇場を同日に往復する過密日程。
もはや個人の努力で吸収できる範囲を超え、物理法則そのものが敵になっているようなスケジュールだ。
こうした遅延は、個人の怠慢というより、構造側の不備に属する。
だが、我々が日々遭遇する遅刻は、そこまで壮大なものではない。
朝の出社。
始業直後の会議。
昼休み後の打ち合わせ。
その直前にあるのは、多くの場合、自己の裁量が及ぶ「私生活の時間」だ。
「ワーク・ライフ・バランス」という言葉が定着して久しい。
しかし時折、それが「仕事側だけが譲歩するための権利」のように履き違えられている。
本来、バランスとは均衡を指す。
私生活を大切にすることと、社会的責任を果たすこと。
その両方を成立させるための概念だったはずなのに、いつしか「自分の快適さを守るための盾」に成り下がってはいないか。
仕事とは、文字通り「仕える事」である。
誰かの依頼を受け、時間を預かり、責任を果たす行為だ。
その構造に参加する以上、最低限の時間規律は避けて通れない。
自由だけを享受し、責任だけを外部化することはできないのだ。
「遅刻は有能の証」という心地よい言説に、踊らされる必要はない。
最後に、ひとつだけ問いたい。
あなたにとって、「許される遅刻」は何分なのだろうか。
五分か。
十分か。
あるいは一時間か。
その境界線の外側には、これまであなたが少しずつ失い続けてきた「何か」がある。
遅刻によって失われるのは、数分の時間ではない。
「この人は、こちらの時間を軽く扱う。」
――その静かな、しかし修復不能な信頼の剥落である。
