『「助けて」という名のバリアフリー』
人という生き物は、どうしてこうも、無駄なプライドという重荷を捨てられないのだろう。
「助けて」
たったこの一言が言えるだけで、世界はもう少し優しく、もう少し風通しの良い場所になるというのに。
夏本番を迎え、容赦のない暑さが続いている。
夕暮れになってもアスファルトは熱を抱え込み、街全体が巨大な蓄熱材のようだ。気温の上昇とともに、熱中症をはじめとした体調不良者のニュースも珍しくなくなった。
道を歩いていると、建物がつくるわずかな日陰に、うずくまるように座り込んでいる人を見かけることがある。
もし、その場にあなたが居合わせたら、ためらわずに声をかけられるだろうか。
「大丈夫ですか?」
「何かお手伝いしましょうか?」
おそらく、多くの人は通り過ぎる。
それが今の社会では、ごく普通の風景になってしまった。
相手がどんな人か分からない。
もし怒鳴られたら。
もし暴力を振るわれたら。
もし逆に「襲われる」と騒がれたら。
私たちは一瞬でリスクを計算し、関わらないという選択をする。
それは冷酷だからではない。自己防衛という、ごく自然な本能だ。
他人との距離が限界まで広がった現代では、かつて美徳だった「おせっかい」は、ときに命取りにさえなりうる。
先日、小谷涼氏のエッセイを読んだ。
時間貸し駐輪場で、自転車が両隣の大型カゴ付き自転車と干渉し、どうしても取り出せなくなってしまったという。
困り果てた彼は、通行人に向かって「助けてください」と声を上げた。
しかし、人々は一瞥するだけで通り過ぎていく。
老人が明確にSOSを発しているにもかかわらず、誰も立ち止まらない。
個性を尊重する社会と言えば聞こえはいい。
しかし、人との距離を広げ続けた先に待っていたのは、この「無関心」という副作用なのかもしれない。
それでも最後には、一人の若い男性が足を止め、手を貸してくれたそうだ。
もし彼がプライドに縛られ、「助けて」の一言を飲み込み、一人で格闘し続けていたなら、その出会いさえ生まれなかっただろう。
だから私は思う。
私たちは普段から、「助けて」と言う練習をしておくべきなのだ。
自分の力で解決することは尊い。
しかし限界は、ある日突然やってくる。
年齢も体力も関係ない。
昨日まで普通にできていたことが、今日はできなくなる。
それが人間だ。
先日、妻が腎炎を患ったとき、その現実を目の当たりにした。
本来なら、スマートフォンを手に取り、救急安心センターへ電話をかければ済む。
たったそれだけのことだ。
しかし激痛と朦朧とした意識の前では、その単純な操作すらできなくなっていた。
脳のシステムそのものが停止してしまうのである。
「迷惑をかけたくない」
その気持ちはよく分かる。
だが、「助けて」という言葉は、いざ命の危機を迎えた瞬間に自然と出てくるものではない。
だからこそ、日常の些細な場面から口に慣らしておく必要がある。
人間は決して根本から冷たい生き物ではない。
ただ、自分から踏み出すリスクを恐れているだけだ。
もちろん、そのリスクを顧みず飛び込めるヒーローのような人もいる。
だが、自分の命の灯火が消えかけている間、そのヒーローが偶然通りかかるのを待ち続けられるほど、人は強くない。
だからこちらからSOSを発信する。
「私は怪しい者ではありません。助けを必要としている人間です」
その一言は、自分のためだけではない。
相手が安心して手を差し伸べられるようにするための言葉でもある。
「助けて」は、相手の優しさを引き出す合言葉なのだ。
……と、ここまで考えて、ふと自分を客観視してみた。
もし真夏の道端で私が熱中症になったとする。
まるで野武士のような、お世辞にも清潔とは言えない中年男が、アスファルトの上でうずくまり、通行人を見上げて、「ふ、ふへへ……た、助けてください……」などと濁った声で懇願していたらどうだろう。
遠くから見た私は、おそらく駆け寄らない。
静かに踵を返し、「すみません、不審者がいます」と警察へ通報する側に回る気がする。
ああ。
私はなんと悲しく、そして現金な人間なのだろう。
それでも私は思う。
助けを求めることは、弱さではない。
人と人とのあいだにある見えない段差を取り払い、誰もが手を差し伸べやすい社会をつくる、小さなバリアフリーなのだ。
だから明日、不審者と間違えられる危険を少しだけ背負いながら、私は今日も「助けて」の素振りを繰り返すのである。
