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『シンボルを愛でる前に、足元の吸い殻を拾えるか』

国旗損壊罪をめぐる議論は、すでに語り尽くされた感がある。


だが、この問題が孕む「本質的な歪み」について、私たちは本当に向き合えているだろうか。


「悪意をもって国旗を損壊する行為は、人として踏み越えてはならない一線である。」


感情論として、この考えに強く反発する人は少ないだろう。

どのような政治的立場や思想を持っていようと、自国の象徴が意図的に傷つけられる光景を見て、心地よい感情を抱く人間は稀だ。


しかし、現代という時代において真に問うべきは、理念の美しさではない。

それがいかに運用され、いかに社会消費されるかという現実である。


かつてディストピア小説が描いた「相互監視社会」は、SNSという巨大な装置を得て、すでに私たちの日常へと溶け込んだ。

「イキり煽り運転オヤジ」「上級国民」「逆走チャリカスババア」「当て逃げモンキー」

これらの言葉が、瞬時にSNSを席巻した事実は記憶に新しい。

法の適正手続が踏まれるより早く、文脈を削ぎ落とされた十数秒の映像だけが独り歩きする。

切り取られた情報が大衆の怒りを集め、私刑が執り行われる「無法の法廷」は、もはや日常の風景となった。

だからこそ、問い直さなければならない。

もし、国旗損壊罪という新たな「正義の刃」が社会に授けられたとき、その刃を振り回すのは誰なのか。


たとえば、応急救護のために手元にあった日の丸を裂かなければならなかった者がいたとする。

法論理のうえでは、そこに「日本国を侮辱する目的」が存在しない以上、何らの犯罪も成立しない。

だが、ネット社会という法外の裁判所は、決して法律どおりには動かない。

前後の文脈を切り落とした動画がひとたび流布すれば、その人物は瞬く間に「国賊」と名指しされ、世論という名の暴力によって裁かれる。

制度設計の理念がどれほど高潔であれ、それを運用し、消費する社会の側が不寛容で攻撃的であるならば、法は正義を守る「盾」ではなく、他者を叩きのめすための「都合のいい棍棒」へと変質する。

もちろん、国旗というシンボルを誇りに思い、祖国を愛する気持ちそのものは尊い。

この罪の制定を支持する人々の心根にある愛国心まで、否定したいわけではないのだ。

だからこそ、一つの素朴な疑問が残る。

それほどまでに祖国を慈しむ人々が暮らす街で、なぜ吸い殻のポイ捨てはなくならず、ゴミ収集場は荒れ、不法投棄が繰り返されるのだろうか。

国家という「記号」の毀損には激昂してみせる一方で、目の前にある「泥臭い国土」が汚されることには無関心でいられる。


この不気味なねじれこそ、私たちがもっとも自覚的であるべき現代の病理ではないか。


本当に国を愛するとは、厳罰化によって相互監視の網をさらに狭めることなのか。

それとも、誰も見ていない道端で、足元に落ちた吸い殻を静かに一つ拾うことなのか。

私は、後者のほうがはるかに深く、誠実な愛国心だと思う。

運用する側の人間が幼さと傲慢さを抱えたままでは、どれほど高潔な法であっても猛毒になり得る。

ルールを増やす前に、私たちが向き合うべき現実は、もっと身近な足元に転がっているはずだ。

シンボルを守ることと、国を守ることは、決してイコールではない。


本当に守るべきものは、いつだって私たちの足元にある。

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