ファンタジーで〝差別〟と〝共生〟を描く
現在、note × Tales創作大賞2025に参加しています。
この賞のために書いているのが『魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち』です。
Talesオープンにあたって、「エンタメ原作のつくりかた」というイベントがありました。
イベントのなかで、作品作りの考え方が語られていましたが、とても勉強になりました。
勉強になったことをふまえて、自分の作品を深堀り、テーマをしっかりと言語化したことについて、この記事ではまとめたいと思います。
▼エンタメ原作の作り方
魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち

物語の概要
今後の構想を踏まえて、記事公開時点の作品のあらすじは記している通りです。
わずか12歳にして、魔導大学府を卒業した天才シェイラ。
修養期間を経て18になったシェイラが、師から命じられたのは、魔法学校の相談役。だがしかし、学校の相談とは、気になるクラスの、気になる子どもたちについての相談だった。
落ち着かない行動で魔法を暴発させる名門一族の男の子。
呪文必須の闇魔術使いなのに喋らない女の子。
空気が読めなくて精霊と交流できない御曹司。
挙げ句の果てに、魔法が使えない王子さまをどうにかしろ、なんて師匠からは聞いていない!
……でも、このお仕事ちょっと楽しいかもしれないです。 だって、ほんとうに困っているのは魔法が使えない子どもたちなんですから。
魔導の〈霧〉あふれる大陸で、自らも魔法が使えない天才魔導師と、魔法を使いこなせない子どもたちの物語は、やがてサージェシア大陸の国々を巻き込む事件へと発展していく。
作品のテーマ
なぜこの物語を構想したのかは、仕事柄あまり多くを語れません。語りたいものもいっぱいありますが、今の自分だからこそ描けるものを詰め込んだ作品となっています。
では、この物語のなかでなにを伝えたいのか。
〝差別〟と〝共生〟
魔法社会が抱える歪みからの人間同士の葛藤。そこから発生する差別。
差別の先に起こることと、共生することは可能なのかという問い。
問いに対する答えを物語全体を通して、答えていきたいと考えています。
シェイラという主人公
シェイラは、魔法が使えないという体でいますが、登場時から彼女だけの魔導を使えるという矛盾した人物です。
はたから見れば、なにも困っていない、むしろ〈導師〉というステータスを持っている天才です。
彼女がそのステータスを持つまでに至る過程や過去を、物語のなかで描くことで、魔法社会が引き起こしていることや、〝差別〟の行く末を暗示させていく人物となります。
当たり前の魔法が使えない子どもたちと、
彼らと関わる教師たちとの出会い
シェイラの住まうサージェシアという大陸は、魔法が行き届き、だれもが当たり前に魔法を使い、新たな魔法を生むための教育機関が構築されている世界です。
魔法使いや、魔術師、魔導師のたまごや雛を育てる教育機関という枠組みのなかで、シェイラはクラスになじめない気になる子たちと、その子たちを教える先生たちと出会って、時には話を聴き、時には寄り添い、時には〈導師〉という立場で助言をしていきます。
魔法が使えないことで除けものにされやすい子どもたちの傷や、教師たちの教える立場としての葛藤や悩みを聞いていくなかで、シェイラ自身が抱いた葛藤、傷、そして選び取っていた道を思い起こしながら、彼女もまた成長をして……するはず(予定)です。
できそこないと呼ばれる王子と、
かつての婚約者である王太子との関係性
子どもたちや教師たちと成長をしていきながら、シェイラはできそこないの王子と新しく出会います(本編では本格登場までいっていません)。
できそこないの王子の存在は、魔法社会の歪みの結果として凝集され、のちに再会予定のかつての婚約者は、現在の魔法社会の成功そのものとして、シェイラとの関係性を描いていきたいと考えています。
シェイラは己の願いと努力によって社会の排除から逃れた異端であり、
元婚約者である王太子は現在の立場に葛藤を抱き、
排除されてきた、できそこないの王子は王子で苦痛を抱えている。
そんな三人の関係性を描き切ることができたら、物語の成功かなと思って、日々綴っています。
ファンタジーだからこそ描ける
ファンタジーである必然性と必要性
〝差別〟と〝共生〟というテーマは、必ずファンタジーでなければ描けないのか? と言われると、そうではないと思います。
おそらくそういったテーマに対して、別の切り口やジャンルで描いている物書きの方も多いのではないかと思います。
また、そういった課題に対して、真摯に向き合っている研究者の方々も多くいらっしゃるのではないかと思います。
じゃあ、異世界ファンタジーでわざわざ描かなくてもいいのでは? という話なのですが、リアルから離れて別の世界に没入するからこそ感じられることこそが、ファンタジーで描けるものではないかと思います。
現実を描くといろんな感情がぶつかり合ってしまう
たとえば、目の前に自分と異なる行動をあきらかに取る人や考える人がいた時、日本社会で生きていると、ふつうどう思うのでしょうか。
なるべく近寄らないでおこう。
見ないようにしよう。
なんだあいつ。
大丈夫かな。
人によって抱く感情や考えはちがうと思います。ひとつの感情や考えで頭が100%になる人もいれば、葛藤する人もいるのではないでしょうか。
そういうものをリアルとして物語を描くのもひとつですが、自分に近しいできごとであればあるほど、抉られるように苦しく感じる人もいれば、許せなくなるほど怒りたくなる人もいるのではないかと思います。
それを物語として読むなかで、なにかを得る人もいて、それがリアルを描く良さかもしれません。
ただ、あまりにもリアルすぎると、感情だけが残ってしまうということもあるのではないかと、自分の物語体験のなかで感じることがあります。
ファンタジーは、あくまでファンタジー
ファンタジーはどうなの? 感情で終わることもあるのではないの? と聞かれれば、それはそうです。そういうこともあります。
とにかく圧倒された! 最高にハッピーエンドだった!
そういうこともあるなあと思います。
ただ、ファンタジーは、あくまでファンタジーです。現実ではないこと。だからこそ、没入しながらも今や明日を生きるのに得られるヒントは、とても得やすいのではないかと思います。
上橋菜穂子先生の作品にはヒントがいっぱい
大好きで心から尊敬し、サイン会にも参加させていただいた作家の上橋菜穂子先生の作品は、そういったヒントが散りばめられています。
10年くらい前の、あるサイン会での対談では、上橋菜穂子先生と、先生の作品を翻訳する翻訳家の方が、言語の壁というのは難しいという話をしていました。
たしかに日本語から英語にするにあたって、日本語だからこそ感じ得るものを英語では表現しづらく、どう表現すると伝わるのかというのは翻訳家の方だからこそ抱くものではないかと思います。
ただ、上橋先生は「同じ日本語を使っていても、なにかを共有することは難しい。むしろ、同じであるからこそ難しい」そうおっしゃっていて、これはすごく自分のなかに残っています。上橋先生の守り人シリーズの描かれ方や、『獣の奏者』の真王領民と大公領民の描かれ方は、まさにそういうものが描かれているように思います。
上橋先生の作品のなかには、〝悪〟が出てきません。主人公サイドとたとえ対立があったとしても、対立があるからには彼らにも彼らの理由と生き様があっての対立となっています。
そういう対立は、リアルで描くのは難しい。特に自分に近しいできごとでればあるほど難しく、自分にとって〝悪〟であるはずのことを、距離を取って〝悪〟ではないと思うことはとても難しいです。
だから、それをファンタジーで描くことに意味があるように思います。
自分とは切り離された先の世界で描かれることで、見て、感じて、気づくものがある。
上橋先生の作品や、他のファンタジー作品から私が得ているものです。
おわりに
自分の作品のテーマや、今の作品づくりに対する思いや考えをだらだらと書きつづけましたが、とはいえ技量が追いつくのか、そこが一番の問題です笑
創作大賞の期日まで推敲しながら、走り抜けていきますが、ぜひとも応援いただければ幸いです。
実はもう一個、作品あげています。
これを執筆した経緯は、前の記事をご覧ください。
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