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お金を稼ぐ人は、お金を稼がない人より偉いのか

10日前、地団駄を踏んでわんわん泣いた。

自分でも、なぜこんなに涙がこみ上げてくるのか分からなかったし、溢れ出る感情を制御できなかった。こんなことは大人になってから初めてだった。いや、あったのかもしれないけれど、初めての子育てでしんどかったとか、それが理由で夫婦で喧嘩したとか、今までは何かしら分かりやすい理由があった気がする。

子育ては常に悩みの連続ではあるのだけれど、差し迫って大きな問題があったわけではない。毎日のご飯もおいしくたべていた。それなのに、自分でもよくわからない感情が溢れ出して止まらなくなった。


こどものように泣いた日

その日、私は大きな文章をを一つ書き終えて、達成感を味わっていた。1ヶ月、目標を定めて取り組んでいた文章だ。別にお金になるようなことではない。私がやりたくてやっただけ。

月はじめの家族会議でも、6月はその文章を仕上げることに専念することを宣言し、ロックダウン生活にもかかわらず、子供の相手は後回しにして(ヘルパーさんにお願いして)とにかく集中した。とはいえ、上の子の慣れないオンライン授業のサポートは根気強く頑張ったし、夕方5時から子どもが寝るまでは、夕食の準備や洗い物、脳性麻痺がある第三子の入浴介助や食事介助などをこなし、朝起きてから9時までは朝食の準備やチビ達のえさやりなどに追われた。いわば、9時17時体制でヘルパーさんに昼間入ってもらい、その間、上の子のオンライン授業のサポートもやりながら自分時間を確保したというわけ。当然集中して何かをやるには時間が足りず、しばしば睡眠時間を削って、そのまま夜明けから朝ごはんのためのパンを仕込んだりも。それでも、ある程度まとまって集中できる時間が取れるのは幸せだった。

1ヶ月集中して自分のための何かをやり続けるという経験は、重度心身障害児含め4人の子どもを育児中の私にとって、とてもとても貴重だ。今はインドに住んでいるお陰でヘルパーさんがいて、子どもたちが学校に通えなくなった状況でも、自分のために何かができる環境が整っている。今しかできない、という焦燥感もあった。コロナの影響で子どもたちの学校も休校になったりオンライン化したりして先行きが見えなくなり、「やばい、もしかしたらこのまま日本に帰国するかも」という焦りもあった。日本に帰国したら当然ながらヘルパーさんの助けはなく、一人で4人を見ていかなければならない。それこそ毎日極限まで睡眠時間を削れば別かもしれないけれど、基本的には家事と育児以外に割く時間などみじんもない。

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長男は元々学校が好きなタイプではなかったのだが、紆余曲折を経てようやく決めた新しい学校への転校が、コロナの休校でまた振り出しに戻った。オンライン授業になってからは、学校が嫌だという気持ちからなのかビッグブラザーの仕業かわからないけれど、なぜか長男だけオンライン環境が不安定。なかなか集中して出席することが難しく、5月以降私は彼につきっきりだった。長男の精神は不安定になるばかりで、「オンラインはいやだ」と言ってみたり「でも友達の顔はみたい」とか殊勝なことを言ってみたり、ローラーコースターのように彼の感情は日々揺れ動いた。

そこには、一人の人間として他者との関係性を作ろうと模索をはじめた長男がいて、異例の社会情勢にもがきながら、様々な感情が渦巻いているのが見え隠れしていた。

夫はコロナの影響で仕事に追われ、在宅勤務とはいえ、食事の時間以外はほとんど部屋からでてこない。仕事があるというのはコロナ感染が広がった今の社会状況から考えればありがたいことだけれど、日々精神を削り取られているようにも見えた。

長男と違う学校に通う長女は、「長い夏休みにどこにも行けないなんて嫌だから、絶対に勉強はしない」と言い放って毎日漫画と動画に入り浸り、しょっちゅう長男とぶつかった。

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そんな家族の混乱の最中、深夜の静かな時間以外にもゲリラ的に集中する時間をみつけて1ヶ月。なんとか自分に課していたタスクを仕上げることができた瞬間、私はとにかく達成感で満たされた。小さい頃からあまり褒められずに育ったけれど、今回ばかりは自分で自分を褒めてあげても良いんじゃないかと思った。そのぐらい真剣だった。

もちろん放置して漫画と動画三昧だった長女や、ヘルパーさんと遊んでいてくれたベビズに多少の罪悪感がないでもなかったけれど、「これで明日から思いっきり遊んであげるからね!」という清々しい気持ちだった。

ところが、その日の夜、夫に言われたのは「頑張ったね」でも「お疲れ様」でもなかった。

「いやー、でもさ、俺たちだって頑張ったし。むしろ頑張ったのは俺たちだよね?」

夫はちょっと困惑したような表情で、でも笑いながら子どもたちに同意を求めた。別に大きな意味はなかったと思う。そして、事実だったと思う。実際、最後の3日間くらいは夫に校正を手伝ってもらったし、この1ヶ月は、お手伝いさんがいない土日にも、可能な範囲で私が集中できる時間を作ってくれた。自分の仕事が忙しい中で、夫が私の時間を尊重してくれたのはとても貴重なことだと思う。それは重々わかっていた。理解のある夫や、我慢して遊んでいてくれた子どもたち、ヘルパーさんの協力なくしては成し遂げることができなかった。感謝している。もちろん心から感謝している。

でも、理性に反して、私の心はみるみる硬直した。夫はまったくシリアスではなかったのに、思いがけず自分の中で黒い感情がみるみる湧き上がった。言葉を返すことができず、私は静かにその場を立ち去った。なんだかよくわからない苛立ちを抑えながら、明日の朝のためのパン生地を仕込み、洗濯機を回し、洗い物を始めた頃にはもう私の感情はあふれださんばかりで、気づいたら洗った食器を投げ捨てるようにガシャンガシャンと水切りカゴに放っていた。夫の言葉には「金にもならないのにそんなことに時間を使うな」「オレや子どもの負担を増やすな」という意味が透けて見えたような気がしたのだ。(そんなこと、夫はひとことも言っていないのだけど。)

がちゃがちゃと尋常じゃない音をたてて洗い物をする私に気が付いた夫が、険しい表情でキッチンに入ってきて言った。

「物に当たるのやめてくれる?言いたいことがあるなら言いなよ」

夫、明らかに怒っている。この時、夫は何に怒っていたのだろう。

私は何かを説明しようとした。なんだか自分でもよくわからない苛立ち、怒り、悲しみ、そして悔しさ。私はとにかく、悔しくて悔しくて悔しかった。

「私、そんなに負担をかけていたかなあ?書き始めたのはロックンダウンが緩和されてヘルパーさんが来れるようになってからだし、最低限ご飯を準備する、食べさせる、風呂に入れる、洗い物をしてパンを仕込むっていうのはやってたよね?長男にだってほとんど一ヶ月つきっきりで面倒見てたよ?先生にも何度もメールしたりオンラインで話し合いしたり、本人とも何度も話し合ったし、頑張ったつもり。それでもあなたに負担をかけたと言うのなら、じゃあ私はいったいどうすればよかったの?何もするなってこと?ただ家事と育児だけしてろってこと?」

私の抱えているこの何かよくわからない塊をなんとか説明しようと開いた口から、爆発するように感情が溢れ出た。

止まらなかった。

「ねえ、あなたが仕事しているときは、子どもたちも私達も音をたてないように邪魔しないように気を使っているよね。あなたが大きい仕事を終えたら、『お疲れ様』って私言うよね?『私のお陰だね』なんて言ったことある? ないよね?私は子どもが来れば相手をして、子どもたちの食べるものも準備して、洗い物をして、それでヘルパーさんに頼れる時間だけ自分のことをやっているのに、それでもまだ私は許されないの?その差はなんなの?仕事をしているあなたは偉くて、私がやりたいことをやるのはそんなにいけないこと?」

夫は少し驚いたような顔をして、何かを言おうとした。

「ごめん、僕がその気持についていけていなかった…」

私の耳にはそんな言葉は届かない。言い訳なんて聞きたくない。

「私がそんなに本気じゃないと思った?どうでもよかった?」

「いや、違うよ、そうじゃない…そうじゃなくて…」

「悔しいよ!悔しい、悔しい、悔しい!あ゛ーーーーーーー悔しい!!!」

洗ったお椀を投げつけ、私はその場に崩れ落ちた。涙が止まらなかったし、冷静になろうとすればするほど悔しさのようなものがこみ上げた。子供のように何度も叫び声を上げ、地団駄を踏んで、私は泣いた。

「今私が言いたいのはそういうこと、言いたいことを言おうとすると爆発しそうで言えなかった。」

私はひとしきり地団駄を踏んで、あっけにとられる夫を置き去りにして寝室にこもった。

夫に「書くのをやめろ」と言われたような気がした。

私にとって、自分が書きたいと思うことを文章に書くということが、一体どういうことなのか、あまり自分ではよく分かっていない。何のために書くのか、と聞かれてもよくわからない。売れたいのか?と聞かれれば多分それは違う。売れるものを書くという発想がそもそもなかった。誰かのために書きたいのか、と言われたら、それもきっと違う。自分の書いたことが、どこかの誰かを救うなんて傲慢だ。

きっとたぶん、自分のため。自分が明らかにしたい何かを、言葉にすることで多少なりとも解明したい。究極的には、ただ書きたいから書くだけだ。それは息をしたり食事をしたり排泄したりするのと同じようなもので、それを奪われたら息苦しいと思うもの。認められたいのか?といえば、そりゃあ認められたい。でもたぶん、それは、「夫に」認められたいだけ。

わかっている。自分が書いた文章なんて、誰も興味が無いことなんて。
わかっている。自分には大した文才もなく、ただの趣味の延長にすぎないことなんて。
わかっている。夫が働いてくれるお陰で自分は生活できていることも。
わかっているのだ。私のしていることなんて、なんの対価にもつながらないいし、誰のためにもならないなんてことは。
全部わかっている。

それでも私は、自分のために、書いていたいのだ。書くなと言われれば、狂ってしまいそうになるほどに。
そして認められたいのだ、「夫に」。
私は夫と、肩を並べたいのだ。夫と肩を並べられていない自分が、悔しくてしかたがなかったのだ。

仕事とシゴト

私はこみ上げてくる悔しさをこらえてベッドにつっぷしながら、6年前のことを思い出していた。当時、一人の人間として社会の中で居場所を確保したかくてTEDxSakuを立ち上げたのだけれど、なんの利益にもつながらないボランティアのコミュニティ活動であるTEDxSakuを立ち上げてしばらくすると、夫は明らかに不機嫌になった。(そこにはいろいろ他の要素も絡んでいたのだけれど、今回は説明を省略する)

お金にならない何かをすることは、彼にとって、趣味の延長でしかなかった。お金を稼いでいない私が何かをすることは、彼にとってきっと、いまいましかったのだ。それでも当時、沢山の人を巻き込んだ活動に、多くの人が賛同してくれたし、賛否はあったと自覚しているけれど、少なくとも認めてくれる人はいたから、私はあまり動じなかった。私がやっていることは少なくとも私にとって意味があったし、私には仲間がいた。

夫は私のしていたことや求めていたものを理解しようとしてくれた。それまで完全に夫に生かしてもらっていた私が、彼の庇護から抜け出しそうとしていたことも受け入れる努力をしてくれた。自分を変えるのはいつもとてもエネルギーのいることだ。夫婦関係の変化を正面から受け止めるのは、夫にとってたぶんものすごいことだったと思う。

その時の経験を経て、私たち夫婦は一つ壁を超えたのだと思っていた。新しい関係性を構築しなおすことに成功し理解し合える夫婦として成長したのだと思っていた。

それだけに、6年たった今、再び夫の変わらない考えに触れたような気がして、私はとても残念で、悲しかった。口では「理解している」「応援している」と言っていても、結局腹の底ではまだ納得していなかったのだ。お金を稼がない私がする、家事と育児以外の「シゴト」に。

6年前TEDxSakuを私が立ち上げて不機嫌になった時も、そのもっと前、大学院を受験しようと考えた私に「お金をかけて家庭に負担をかけて今から勉強して成功しなかったらどうするんだ(やめたほうが良い)」と彼が言ったときも、数ヶ月前、不登校になった長男と旅に出ることにしたら、「遊びに行くようなもんじゃないか、そんなのやめればいいんだ」と言い放った時も、多分今も。彼の中のどこかで納得できない本音が出ていたのだ。

夫にとって「仕事」は、お金を稼ぐことが大前提。「お金を稼いでいる仕事」の前には、他のいかなるシゴトも、価値が低いか、極端に言えば価値が無いものとみなされているようだ。もしかしたら大多数の人にとってそうなのかもしれない。

当然といえば当然だ。生きていくためにはお金を使うのだから。それでも私は、お金を稼ぐ夫がやっていることのほうがお金の稼いでいない私がやっていることより価値があるという考えに、やっぱりどこかで納得できずにいる。今回の出来事は、夫の中にある本音と、私の中にある納得できない感情が、対立してちゃんと存在していることを改めて突きつけられたような出来事だった。

なんだ、全然理解し合えてなんていなかったんだ、私達は。

私が生きるためにやりたいと思うことは、それに対価がつけられなければ、意味がないのだろうか。お金を稼いでいる彼は、そんなに私より偉いのだろうか。いや確かに現実問題、おまんまを食わせてもらっているというのは分かるけど、私が自分の最低限の仕事(家事・育児)をクリアしてもなお、生きるためのシゴトを許されないというのは納得がいかない。私の悔しさは、いつもここに由来している。

だったらお金がもらえる「仕事」にすればいいのか。対価を貰えればいいのか。そう思って「仕事」に手を伸ばそうとするけれど、そのための努力すら否定される。「かかるお金や家族への負担」という理由で、スタートラインに立つことすら許されない。

じゃあ私はいったいどうしたらいいんだ、という叫び。自分が驚くほどに溢れ出た、私の心からの叫びの理由の一つは、それだったのだろう。私はこの理不尽な状況に怒っていた。

シゴトの価値

お互いに謝らなかった。もういい大人だし、子供の世話もしなくちゃいけないし、翌朝普通に起きて、私はご飯の支度をして、夫はコーヒーを淹れた。私は子供のように泣いた理由を探り、夫は夫でたぶん、私が泣いた理由、夫が感じた不満の理由を考えていたのだと思う。しばらくその話題に触れないまま、1週間が過ぎた。

七夕の夕暮れ、夫は「月初めの家族会議で『1文字1ルピー』と約束した通り、10万字書いたるいは、10万ルピー使っていい」というチケット(?)をプレゼントしてくれた。そう、本来この大きなタスクは、家族みんなで書き上げよう、と言っていたのだ。結局真剣に書きあげたのは私一人だったのだけれど。10万ルピーを素直に喜べば可愛気があるのだけれど、でも私はあんまり嬉しくなかった。だってそれは、彼の本音をうやむやにするものだと思ったから。私は夫から価値をつけてもたいたいわけではなくて、夫と肩を並べたかったのだから。

その日の夜、私達は晩酌をしながら話し合った。なぜ、私は狂ったように泣いたのか。なぜ、夫は不満に思ったのか。純粋に腹を割って話をしたかった。お互いがお互いにもうどうしたって夫婦として必要なことはちゃんと分かっていたけれど、その上で、考え方の相違を大人同志として話したかったのだ。

「仕事の価値って何で決まるのかな」

私が聞くと、夫はすかさず答えた。

「それはやっぱり、お金を稼ぐことでしょう」

「じゃあ、あなたにとって、家で子育てや家事をするシゴトと、あなたが外で、今ならWHOで働く仕事だったら、お金を稼げるWHOの仕事の方が価値が上だ思う?」

「そうだね、そう思う。だって僕がやっている仕事は、国や地域の政策に影響を与える責任の大きさが伴っていて、それに対価をもらっているわけだから。家の中の仕事と比べたら、やっぱり影響力も責任も価値も大きいと思う。それに僕は、お金を稼ぐ仕事をしたうえで、家でも出来る限り子供の面倒をみたり、出来る家事をやったりしているでしょ。だから、僕がお金を稼ぐためにする仕事の時間を尊重してほしいと思うのは当然でしょう。」

なんだか後半、話がすり替わっているような気がするけれど、まあお金を稼げる仕事の方が価値が高いと思っているというのはわかった。

じゃあこれはどうだろう。

「たとえば、公園のトイレ掃除を毎日する仕事があるとするでしょう。あなたはWHOで働いている。この2つの仕事の価値に差はあると思う?」

「それは、やっぱりWHOの仕事の方が価値が大きいと思う。さっきも言ったけど、今の仕事は、国や地域レベルでの影響力がある仕事だから。それに比べたら、トイレ掃除はそういう責任は伴わないでしょ。だからトイレ掃除よりWHOの仕事の方が価値が大きいと思う」

適当に私を丸め込むのではなく、夫が本音で喋ってくれたことを私は嬉しく思った。でも一方で、やっぱり納得はできなかった。職業がトイレ掃除なら、責任が伴わないかといったら、そんなわけはないだろう。どんな仕事であれ、責任と誇りはあるだろう。

毎日公園のトイレを掃除をする人がいるから、公園を訪れた親子はいつも、安心して公園で遊ぶことが出来る。地道に毎日トイレを掃除することで、そのトイレ掃除の人は、一生のうちにきっと数えきれないほどの人たちの安心を支えるだろう。国や地域レベルで影響を与える仕事もあれば、ひとりひとりの安心を地道に支えている人がいる。その仕事に上下はないのではないかと、私は思う。

さらに言えば私は、お金をもらってする仕事も、お金をもらわずにする家事や育児も、同じように価値があると思っている。そして、公園のトイレ掃除も、WHOの仕事も、あるいはたとえば絵かきも銀行マンも陶芸家も農家も、全部同じくらい重みがあると思っている。

だってそれは全て、一人の人間が一生を捧げて、あるいはその時の全力を捧げて取り組むものだから。すべてのシゴトは、そういう意味で、同じ価値があると思っている。だからその意味で、例えお金につながらなくても、一生を捧げてする何かや、全身全霊を込めてする何かは、同じように尊重されるべきではないのか。ボランティアの活動だろうが、絵を描くことだろうが、あるいは私のように、息をするのと同じレベルで文章を書くことも。

だって、我が家の第三子・ハルは脳性麻痺で、きっと一生お金を稼ぐ事につながるようなシゴトはしないまま人生を終えると思うのだけれど、そうじゃないと彼女は価値のあるシゴトをすることができないということになってしまうじゃないか。彼女が一生を捧げて残す生き様は、それだけで価値のあるシゴトだと私は思いたい。

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数ヶ月前、学校に行きたくないと言った長男を、行きたくないなら行かなくてもいいかと思い、「学校に通っている人は、通っていない人より偉いのだろうか」という疑問をもった。結果的に、そんなことはないだろうと私は思った。学校に通っていきいきとする長女とおなじくらい、学校に行かずに旅をしながら自分の道を探る長男は輝いていたと思う。

それと同じレベルで、あの時から頭の中にあった疑問がある。

「お金を稼ぐ人は、お金を稼がない人より偉いのか。」

こんなことを言うと、ビジネスや経済をきちんと勉強しているひとからしたら、鼻で笑われてしまうのだろうか。私の考え方は、てんでおかしいものなのかもしれない。それはちょっと自分ではわからない。一つ言えるのは、形としてわかりやすい対価をもらわない主婦業は、とても苦しいということだ。だってわかるんだ、お金が必要だということも、生活を支えてくれる職業人の存在の大きさも、そして家事育児を担う自分の立ち位置も。だからこそ、なんとも説明し難い苦しさをいつも抱えている。

そして、感覚として、お金で価値判断をされてしまう世界は、お金を稼げない、あるいは稼がない人の価値が低いと言われているようで、なんとなくちょっと寂しい。特に、お金を稼ぐ能力のない、趣味の書きものばかりが生きがいの私としては。

シゴトって、なんなんだろう。そして、シゴトの価値とは。

少なくとも私は、今回の悔しさを、どこかの時点で解消しなければ、きっとまたいつか夫とぶつかる日がくるのだろう。答えの出ない「シゴトの価値」については考え続けながら、とりあえず私は夫と肩を並べるために、出来ることをしてみる。

学校に行かなくなった長男のこと、その長男と旅に出たこと、対価を得られる仕事がきっと一生できないであろうハルのこと。「対価を得られる仕事」ではないもの、言い換えれば、「お金の価値につながらないシゴト」について書くことで、夫と肩をならべられたら本望だ。

結局私は、私のために今日も書く。そして、悔しさと怒りを沈めるために、書いたものを外にだす。そしていつか夫と肩を並べて、そうしたら満を持してもう一度言ってみたい。「トイレ掃除も、子育ても、WHOも物書きも、全部同じくらい価値がある」って。




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