太平記 現代語訳 30-3 足利直義、越前から撤退し、鎌倉へ移動

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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8月18日、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)源二位大納言(みなもとにいだいなごん)足利尊氏(あしかがたかうじ)は、足利直義(あしかがただよし)追討の命令書を朝廷から拝受(はいじゅ)し、近江国(おうみこく:滋賀県)へ出陣、鏡宿(かがみじゅく:滋賀県・蒲生郡・竜王町)に陣を取った。

京都を出た時は、その兵力はわずか300騎にも満たなかったが、佐々木道誉(ささきどうよ)とその子息・秀綱(ひでつな)が、近江勢3,000余騎を率いて馳せ参じてきた。

さらに、仁木義長(にっきよしなが)は、伊賀国(いがこく:三重県西部)と伊勢国(いせこく:三重県中部)の勢力4,000余騎を率い、土岐頼康(ときよりやす)は、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の勢力2,000余騎を率いて馳せ参じてきたので、尊氏軍は、あっという間に総勢1万騎超となった。いかなる大軍と戦う事になろうとも、兵力面での不足はまず考えられない。

これに対して、足利直義は、石塔義房(いしどうよしふさ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)、桃井直常(もものいなおつね)3人を大将に任命、各々に2万余騎ずつ割り当てて、9月7日、近江へ送り出した。

彼らは、八相山(はっそうやま:滋賀県・長浜市)に陣を取った。

両軍、かたく守りをかため、にらみあいのまま、なかなか戦端を開こうとしない。

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その日、一大異変の報が、京都朝廷に伝えられた。

下鴨神社(しもがもじんじゃ:注1)よりの使者 エライこってすわいな! 今日の14時頃からな、糺森(ただすのもり:注2)の中にある当社の神殿が、鳴動しはじめましてな、長いこと鳴動し続けてたか思ぉたらな、突然、2本の鏑矢(かぶらや)が、そっから飛び出しましてな、北東方向の空めがけて、飛んで行きよりましたんやでぇ!

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(訳者注1)左京区・下鴨にある神社。

(訳者注2)下鴨神社の境内一帯は森のような状態になっており、それを「糺森」と呼ぶ。
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閣僚A そらまた、一大事やがな!

閣僚B こらまたいったい、なんの徴(しるし)でっしゃろかいなぁ?

閣僚C おそらくは、足利兄弟の合戦における、双方の吉凶を示す怪異なんと、ちゃいますやろか。

閣僚一同 うーん・・・。

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はたして、翌日の12時頃、近江の戦場で思いもかけない事が起った。

足利直義側に所属の多賀将監(たがのしょうげん)と秋山光政(あきやまみつまさ)が、拙劣(せつれつ)な戦をしてしまい、秋山光政が佐々木道誉の部下に討たれてしまったのである。

桃井直常は大いに怒り、「断固、速やかに雪辱戦を行うべぇし!」と主張。しかし、他のリーダーたちがこれに反対して作戦会議は紛糾。ついに、全軍、兵をまとめて越前に引き上げざるをえなくなってしまった。

さらに、直義にとって、形勢は不利に展開していった。

どうしたことか、畠山国清がにわかに、声高(こわだか)に和平を提唱し始めたのである。

畠山国清 直義さま、このようにご兄弟どうし、骨肉の争いを続けていかれるのは、いかがなものでしょうか。そろそろ兄弟、仲直りされてですね、政権を義詮(よしあきら)様に、お譲りなされては?

しかし、直義はこの言葉を聞き入れようとはしない。

激怒した畠山国清は、自分の手勢700余騎を率いて、尊氏サイドへ走ってしまった。

これを皮切りに、直義サイドからは脱落者続出、様々な人脈を頼っては、5人、10人と連れだって、尊氏サイドに寝返っていく。

桃井直常 えぇいもう、毎日のように、ボロボロボロボロ、脱落していきやがる! こんな状態じゃ、越前にいちゃ危ないですよ、直義様!

しきりに訴える直常の言葉に、直義はついに、越前からの撤退を決意、北陸道(ほくりくどう)経由で鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ移動した。

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