太平記 現代語訳 1-1 はじめに 私・太平記作者は、何のために、この太平記を著したのか
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、虚(フィクション)実(史実)混ざっています。太平記に書かれていることを、検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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我々が生きているこの社会というものは、常に、安定と混乱の間を、行ったり来たりしている。そして、この変化は、決して止まることがない。
いったいなぜ、このように、社会は変化し続けるのであろうか?
私、すなわち、この[太平記]の作者は、その原因を突き止めてみようと思い、日本の歴史上に起こった古今(ここん)の様々な出来事をもとにして、深く考えをめぐらしてみた。
その結果、社会変化の二つの重要な要素が浮上してきた。
その第一が、[君主]である。
全ての民が仰ぎみる存在である[君主]が、いったいどのような政治姿勢でもって、その社会を治めているのか、これが極めて重要なポイントなのである。
地上のすべてを覆い尽くす[天]は、実に広大な徳を持っているといえよう。
「自らもまた、あの天のようにありたいものである!」
名君というものは、常にこのように、高い理想をいだいてやまない、その結果、社会に安定がもたらされていくのである。
そして、第二に、[臣下]である。
[君主]の下にあってそれを支えていく[臣下]の姿、これもまた、重要な要素なのである。
[天]を支える[大地]・・・[大地]は、全ての存在を自らの上に載(の)せ、一物(いちぶつ)たりとも捨てる事がない。
その大地の姿に倣(なら)い、国家を万全に守りゆく、良き臣下・・・まさに、社会にとっては、「無くてはならない存在」であるといえよう。
[君主]の地位にあろうとも、徳に欠けているならば、その権力を保持していく事は不可能である。
ゆえに、古代中国・夏(か)王朝の暴君・桀(けつ)王(注1)は、南巣(なんそう)の地に逃走して滅び、殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王(注2)は、牧野(ぼくや)において敗北し、滅んだのである。
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(訳者注1)夏王朝の最後の王、とされている。暴君としての知名度が高いが、[史記]には、その行為(暴君性の)の詳細が記されていない。従来、夏王朝は実在しないと考えられてきたのだが、最近、実在するとの考えも出てきているようだ。
(訳者注2)桀と戦って勝利した湯が、新たに、殷王朝を開いた、とされている。紂は、その殷王朝の最後の王であり、桀と共に、暴君として並び称されてきた人である。「酒池肉林」、「炮烙の刑」等の逸話が、古来より語り伝えられてきた。
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[臣下]の地位にあろうとも、道(みち)を違えているならば、いかなる威勢を持っていようとも、それは、決して長続きするものではない。
ゆえに、古代中国・秦(しん)王朝の権臣・趙高(ちょうこう)(注3)は、咸陽(かんよう)において処刑され、唐(とう)王朝の臣・安祿山(あんろくざん)(注4)は、鳳翔(ほうしょう)において、滅んだのである。
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(訳者注3)趙高は、秦の始皇帝(戦国時代を終結させて中国全土を統一した)に寵愛された臣下である。始皇帝の死後、末子の胡亥を皇帝に擁立し、実権を掌握した。その政策の結果、人々のうらみの念が高まり、[陳勝・呉広の乱]が契機となって、中国全土に反乱軍が起こり、秦帝国は混乱状態になった。そして、趙高は、子嬰(秦の最後の君主)に殺害された。
(訳者注4)安祿山は、戦功によって玄宗皇帝に認められ、節度使(地方の軍司令官)にまでなったが、楊国忠(楊貴妃の親族)を討つとの名目で、反乱を起こした。(安史の乱)。その後、安祿山は、安慶緒(安祿山の次男)に暗殺された。
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このような、数々の歴史的教訓を踏まえた上で、昔(いにしえ)の聖人たちはつつしんで、人が守るべき道を、将来の世代のために、説き残してくれたのである。
後世に生きる我々は、彼らが残してくれたその戒めをよくよく思慮しつつ、過去の歴史の教訓を、この現代に、より良く生かしていくようにと、心すべきであろう。
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