太平記 現代語訳 30-6 足利義詮の対・吉野朝工作
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)の関東方面への出馬の後、京都守護の任を帯びて都に残された足利義詮(よしあきら)の心中には、日増しに不安の念が募っていった。
足利義詮 (内心)関東方面の形勢、いったいどうなってんだ? 未だに、何の情報も入ってこないじゃないか、いったいどうなってんだ?!
足利義詮 (内心)「京都を頼むぞ」って父上から言われたはいんだけど・・・よくよく調べてみたら、首都防衛に確保できる手持ちの兵力、意外と少ないんだよなぁ。
足利義詮 (内心)こんなんじゃぁ、いつなんどき、和田(わだ)や楠(くすのき)(注1)が攻め寄せてきて、ふがいなくも首都を攻め落されちゃい・・・ってな事に、なってしまうんじゃぁ? うーん・・・。
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(訳者注1)吉野朝側の軍事リーダーである、和田正武と楠正儀を指している。
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足利義詮 (内心)そうさなぁ・・・ここはひとまず、策略を駆使して時間をかせいでさ、京都の安全を確保しとくべきかもよぉ。
というわけで、義詮は、吉野朝廷(よしのちょうてい)へ使者を送り、和平の提案を行った。いわく、
「御治世の事、国衙(こくが)が所有する荘園(注2)、および、本家領家・年来進止の荘園(注3)、そういった事物に関しては今後、幕府からの介入は一切無しといたします。」
「ただし、以下に挙げる例外事項に関してだけは、今後とも引き続き、幕府にその処置・決定をおまかせ下さい。すなわち、
承久の乱(じょうきゅうのらん)以後に新たに補任された地頭たちの、荘園生産からの分け前取り分の割合(注4)
諸国の守護、地頭および御家人の所領と官職。」
「君臣和睦の恩恵を施されましたならば、幕府は、武力行使を全面的にストップ、一切の戦闘行為を直ちに停止、聖主の永遠の御治世を、仰ぎたてまつります。」
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(訳者注2)原文では、「国衙の郷保」。中央から任命されて地方に赴任してきた国司が詰めるオフィスの事を「国衙(こくが)」と言う。国衙の行政を遂行するためには財が必要となるから、国衙も荘園を所有していた。
(訳者注3)荒地の開墾や土地取り引き等々によって荘園を所有するに至った人々は、国司他様々の有力勢力からの干渉を避けるために、首都圏等に居住する有力者に、自らの荘園を「寄進」した。その結果、寄進を受けた側は、荘園の名目上の領主となって、その荘園の生産物中の何割かを自らのポケットに収め、寄進を行った側は、実質上の領主となってその荘園の生産物中の何割かをポケットに収める、という事になる。このように、荘園の支配に何らかのコミットメントを行い、そこの生産物の一部を自らのものにしてしまえる権利を「職(しき)」という。平安時代から室町時代にかけての荘園の所有・支配の実態は20世紀末から21世紀初における日本の土地所有のそれとは相当異なっており、この「職」がキィワードとなるのである。
太平記文中にある「領家」とは、「領家職」(「本所職」とも言う)すなわち「名目上の領主権」を持つ者の事である。
さらに、領家がその荘園を自分よりももっと有力な人あるいは団体(社寺等)に寄進して、自らの所有する「職」の安定度を増強する、というような事も行われていた。その結果、この寄進を受けた側もまた、その荘園に対して「職」を得るに至る。これを「本家職」と言う。このように、荘園の所有・支配(これを「進止」という)の関係は複雑な重層構造になっていた。(「本家職」と「本所職」とは別概念である)
鎌倉時代以降、荘園の「職」構造は、さらに複雑さを増していった。武士階級に所属する多くの人々が幕府によって「地頭」に任命され、「地頭職」という職を得るに至ったからである。
(訳者注4)原文では、「承久以後新補の律法」。[承久の乱]に勝利した鎌倉幕府は、多くの御家人を新たに地頭に任命し、敗者の側が支配していた荘園(西日本に多く分布していた)に送り込んだ。これを、[新補地頭]と言う。
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足利幕府からしきりに寄せられるこの和平の申し出に対して、吉野朝側は、慎重に検討を重ねた。
吉野朝閣僚A 足利家の連中らの言う事は、とにかく信じられへんわなぁ。ついこないだも、足利直義(あしかがただよし)が、「和平や」言うてきよったやろ、そやけど、その舌の根も乾かんうちに、態度豹変してしまいよったやん。
吉野朝閣僚B ほんにそうですわなぁ。今度のこれもきっと、偽りの和平交渉や、謀略やで。
吉野朝閣僚C うーん・・・そらまぁそうですけどな、敵の謀略を逆手に取るっちゅう方法も、無きにしもあらずだっせ。
吉野朝閣僚A それ、いったい、どういうこっちゃ?
吉野朝閣僚C 足利義詮が言うてきよった事を、まずはいったん、そのまま受け容(い)れとくんですわ。ほいでもって、「天皇陛下、京都御帰還の儀」を広く世間に公表する。さぁ、そないなったらもう、幕府はガタガタですがな。その後、近畿地方とその周辺の勢力をもって、直ちに義詮を退治する。
吉野朝閣僚D 尊氏の方はどないします? やつは、関東におりますよ。
吉野朝閣僚C 関東は関東で、打つ手がありますわいな。ほれほれ、あっちには、あの新田義貞(にったよしさだ)の子孫がおりますやん。彼らに、尊氏討伐を命じたらよろしぉす。
吉野朝閣僚一同 なぁるほど、そらえぇなぁ。
というわけで衆議一致、「和平提案を受け入れる」との返答を直ちに送った。
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両者互いにだましあいの虚偽の和平などと、誰が知るであろう・・・さっそく、ついこの間まで京都朝に忠誠を尽くしていた諸卿たちの、賀名生(あのう)詣でが始まった(注5)。そのメンバーを列挙すれば以下の通り。
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(訳者注5)当時、吉野朝廷は賀名生にあった。26-5 参照。
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現職閣僚は以下の通り。
関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)・二条良基(にじょうよしもと)、右大臣・近衛道嗣(このえみちつぐ)、内大臣(ないだいじん)・久我通相(くがみちすけ)
大納言メンバー:葉室長光(はむろながみつ)、鷹司冬通(たかつかさふゆみち)、洞院実夏(とういんさねなつ)、三条公忠(さんじょうきんただ)、三条実継(さんじょうさねつぐ)、松殿忠嗣(まつどのただつぐ)、今小路良冬(いまこうじよしふゆ)、西園寺実俊(さいおんじさねとし)、裏築地忠季(うらついじただすえ)
中納言メンバー:大炊御門家信(おおいのみかどいえのぶ)、四条隆持(しじょうたかもち)、菊亭公直(きくていきんなお)、二条師良(にじょうもろよし)、華山院兼定(かざんいんかねさだ)、葉室長顕(はむろながあき)、万里小路仲房(までのこうじなかふさ)、徳大寺実時(とくだいじさねとき)
参議メンバー:二条為明(にじょうためあきら)、勘解由小路兼綱(かげゆこうじかねつな)、堀河家賢(ほりかわいえかた)、三条公豊(さんじょうきんとよ)、坊城経方(ぼうじょうつねかた)、日野教光(ひののりみつ)、中御門宣明(なかみかどのぶあきら)
殿上人メンバー:日野時光(ひのときみつ)、四条隆家(しじょうたかいえ)、日野保光(ひのやすみつ)、平親顕(たいらのちかあき)、日野忠光(ひのただみつ)、安居院信兼(あぐいのぶかね)、安居院行知(あぐいゆきとも)、右兵衛助・嗣房(うひょうえのすけ・つぐふさ)
この他、前職の公卿、三位以上でまだ参議になっていないもの、太政官の弁官、五位、六位、さらには延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)や園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)の僧侶たち、三門跡寺院(さんもんぜきじいん:注6)のトップ、諸院家(しょいんけ:注7)の住職たち、禅宗や律宗の長老たち、寺社のトップ、神主に至るまで、我先にと続々、馳せ参じてきた。
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(訳者注6)梶井、青蓮院、妙法院。皇室から親王が門跡として入っていた。
(訳者注7)公家の子弟が住職として入っている寺院。
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昨日までは、人里離れた鄙(ひな)の地であった賀名生の山中は、急に花が咲いたかのよう、そこら中の辻堂、温室、風呂に至るまで、残らず、幔幕(まんまく)に引き飾られている。
「今回、こちらに馳せ参じてきた諸卿らの官位はすべて、持明院殿(じみょういんどの:注8)の方より下されたものであるから」との理由により、彼らのほとんどが、吉野朝廷によって一階級落とされてしまった。階級を落されずにすんだのはただ二人、大納言・中院通冬(なかのいんみちふゆ)と大納言・御子左為定(みこひだりためさだ)のみであった。もともと、吉野朝に気脈を通じていたのが幸いしたのである。
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(訳者注8)京都朝廷の事。
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このように、京都からやってきた公卿・殿上人らは、降参人あつかいされて官職を貶(おとし)められた一方、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に従って賀名生の山中でがんばり続けてきた者たちは、「長年の功労あり」という事で、破格の褒賞を頂く事となった。まさに、窮乏と栄達、たちまちその位地を変え、といった所である。
三位局(さんみのつぼね)、すなわち廉子(れんし)は、吉野朝・今上陛下たる後村上天皇の母であるがゆえに、新たに院号を頂き、人々から、「新待賢門院様(しんたいけんもんいんさま)」と呼ばれる身分になった。
北畠親房(きたばたけちかふさ)は、准后(じゅこう:注9)の宣旨(せんじ)を賜り、花を着けた童子に随行され、輿に乗ったまま宮中に出入りする身分となった。その華やかな姿は、天下の耳目を驚かせた。
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(訳者注9)三皇(太皇太后、皇太后、皇后)に准ずる待遇。
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この人は、今は亡き奥州国司(おうしゅうこくし)・北畠顕家(あきいえ)卿の父にして、現在の皇后の父でもある。従って、武功の面からも家柄の面からも、准后となるについて、不都合な点など一切無いといえば無い。しかしながら、皇族と五摂家(ごせっけ:注10)の他からは、准皇の宣旨を得た人は、いまだかつてその例が殆ど無いのである。
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(訳者注10)摂政・関白となれる家柄。藤原北家の血筋に連なる、近衛(このえ)、鷹司(たかつかさ)、九条(くじょう)、二条(にじょう)、一条(いちじょう)の五家に限定されていた。
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その数少ない例はといえば、かの平清盛(たいらのきよもり)、彼は出家した後に、准后の宣旨を賜った。清盛が、異例ともいうべきそのような高い地位に就けたのには、やはりそれなりのわけがある。清盛は、「単なる皇后の父」であったというには止まらず、他ならぬ天皇(安徳)の外祖父であったのだ(注11)。さらに、表向きは平忠盛(ただもり)の子という事になっていたが、その実は、白河上皇(しらかわじょうこう)の子であったのだ。(注12)
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(訳者注11)[自分の娘が天皇の后になれた人]の集合を[娘が后な人・集合]とし、[天皇の祖父(母方の)になれた人]の集合を[外祖父・集合]とすると、以下の関係が成立する。
[外祖父・集合] は [娘が后な人・集合] に包含される
and
[娘が后な人・集合] に所属はするが、[外祖父集合]には所属しない、という人が、実際に存在する。
[娘が后な人・集合]に所属できたということは、考えてみれば、[極めてラッキー]な事であろう。しかし、その娘(后)の生んだ子が天皇になれた(ということは、[外祖父・集合]にも所属できたということ)ともなれば、それは、[超極ラッキー]な事と言えよう。
(訳者注12)これも、史実かどうか、分からない。
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従って、平清盛の華麗なる生涯と栄達の事実を例に引き、「だから、北畠親房だって准后になってもよいではないか」などというような事は、決して言えないのである。
日野護持院(ひののこじいん)の僧正・頼意(らいい)は、東寺長者(とうじのちょうじゃ)・兼・醍醐寺座主(だいごじざす)に任ぜられた上に、仁和寺(にんなじ)所属の諸々の院家のトップ職をも兼任することになった。
大塔(おおとう)の僧正・忠雲(ちゅううん)は、梨本(なしもと)と大塔の両門跡寺院のトップを兼任する事になり、さらに鎌倉(神奈川県・鎌倉市)の勝長寿院(しょうちょうじゅいん)と天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)のトップにも補任された。
その他、長年山中で吉野朝廷に忠節を尽くしてきた全ての人々の運命が、この時突然、花開いた。名家(めいけ)は清華家(せいがけ)を超え(注13)、庶子は嫡子を越えて、というように、この時の官職の与えられ方は、極めてデタラメであった。
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(訳者注13)一口に公家といっても、その中にも様々なランクがある。生まれた「家」の格に応じて、生涯中に到達できる最高限界の職が事実上定まっていた。その中でも最高は、前述の「五摂家」である。「名家」は「清華家」の直下のランクである。
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もしも、今のような状態のままに天下の形勢が固まってしまうならば、嘆く者の数は多く、喜ぶ者の数は少ないであろう。あの元弘(げんこう)年間、打倒・鎌倉幕府成就の後の世相を思いおこしてみるがよい。あの時の数多くの人々の不満が引き金となって、政権は再び、武士階級の手中に落ちたのではなかったか?
今のこの世相、あの時のそれに何と相似していることであろう。吉野朝廷の人々は、過去の歴史から学ぶという事を、全く知らないのであろうか、実にもって愚かなる政策であるとしか、言いようがない。
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かくして、憂いの年(吉野朝年号・正平6年(1351))は過ぎ去り、あらたまの新春の到来と共に、吉野朝廷(よしのちょうてい)の上に突如、光がさし始めた。
しかしながら、依然として皇居は賀名生(あのお)の山中、白馬踏歌(あおむまとうか)の儀を行うべくもなく、元日午前4時の天地四方拝(てんちしほうはい)、1月3日の月奏(げっそう)のみが、かろうじて行われた。7日間の御修法(みすほ)は、文観僧正(もんかんそうじょう)が承り、賀名生(あのう)から京都に出向き、御所の中の真言院(しんごんいん)で執行した。
1月15日過ぎに、足利幕府からの贈り物が、吉野朝廷にもたらされた。まずは、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に馬10匹、砂金3,000両。さらに、皇后や公卿たちにもれなく、馬30匹、巻絹300疋(ひき)、砂金500両。
2月26日、ついに、後村上天皇が賀名生を去る日がやってきた。
天皇が乗った輿(こし)は、まず東条(とうじょう:大阪府・富田林市)へ向かう。三種神器(さんしゅのじんぎ)の守り役のみが衣冠正してそれに供奉(ぐぶ)する。その他の公卿や諸官僚らは、全員甲冑(かっちゅう)を帯して、天皇の前後に従った。
東条に一泊した翌朝、一行は直ちに、住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)へ向かった。和田正武(わだまさたけ)、楠正儀(くすのきまさのり)以下、真木定観(まきじょうかん)、三輪西阿(みわせいあ)、湯浅宗藤(ゆあさむねふじ)、山本判官(やまもとほうがん)、熊野(くまの:和歌山県・熊野地方)八庄司(はちしょうじ)武士団、吉野十八郷(よしのじゅうはちごう:奈良県・吉野郡)の武士ら、総勢7,000余騎が、その道中を警護した。
住吉神社の神主・津守国夏(つもりのくになつ)は、自分の館を急遽、皇居に改造して、後村上天皇一行を迎え入れた。彼はその功で、直ちに従三位(じゅさんみ)に昇格となった。このような高位への昇進は、津守家にとっては未だかつて先例の無い事であり、まことにもって面目躍如(めんもくやくじょ)である。
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住吉での逗留(とうりゅう)が始まって3日目、不可思議な現象が起った。
天皇の勅使(ちょくし)が、馬を神社に奉納して幣(へい)を捧げ奉った時、風も無いのに、たま垣の前に立つ松の大木が、幹の途中からポッキリ折れてしまい、南向けに倒れてしまったのである。
驚いた勅使は、すぐにその詳細を朝廷に報告したが、伝奏(てんそう:注14)役担当の吉田宗房(よしだむねふさ)は、さほど驚いた様子もなく、ただ一言、
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(訳者注14)様々な事柄を、天皇へ伝える役。
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吉田宗房 妖(よう)は、徳(とく)に勝たずや、そんなん、気にする事ないわいな。(注15)
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(訳者注15)「いくら、妖しい力が蠢(うごめ)いてみたところで、わが天皇の輝かしい徳力の前には無力である」、と言いたいのであろう。
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警護詰め所に控えていた伊達優雅(だてのゆうが:注16)が、これを聞いていわく、
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(訳者注16)1-7 に登場。
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伊達優雅 あの人、なにアホな事、言うてはりまんねん・・・こらぁどうも、陛下の今回のの京都ご帰還、実現しませんなぁ。
吉野朝メンバーE そらいったい、なんでぇなぁ?
伊達優雅 あんな、昔の中国、殷王朝(いんおうちょう)の時代にな、大戊(たいぼう)っちゅう王様がいたんや。ちょうどその頃、殷王朝の命運が傾きかけてた兆候やったんやろな、王宮の庭にな、突然、桑の木が生えてきよったんや。それがまた、たった一夜のうちに、20余丈もの高さに伸びてしまいよってなぁ。
吉野朝メンバーE ふーん!
伊達優雅 大戊王は不安にかられて、大臣の伊陟(いちょく)に問うた、「あれはいったい、どういう事なんやろう?」。伊陟は答えた、「「妖は徳に勝たず」っちゅう言葉がありまっしゃろ? 陛下の政治に何かまずいとこがありますよってに、天がこのような兆(きざ)しを下さはったんでございますわいな。そやから、早いとこ、徳をもっての政治を修めるようにしはりませんと」」。
吉野朝メンバーF で、どないなった?
伊達優雅 王様も偉いわな、伊陟の諌(いさ)めに従うて、政治を正し、民をいつくしみ、賢人を臣下に招き、心ねじけた輩を退けていったんや。すると不思議な事には、その問題の桑の木、たった一夜の中に枯れてしまい、霜露(そうろ)のごとく、消滅してしもぉたというわけや。
吉野朝メンバーG ふーん!
伊達優雅 こないな風にな、聖徳をもってしたら、妖しき力を除く事も可能なんやわ。そやけどやな、今の世のご政道の、いったいどこに「徳」がある?
吉野朝メンバーE うーん・・・。
伊達優雅 (眉をひそめながら)「妖は徳に勝たず」やて? まぁヌケヌケとよぉ言うわなぁ、あの伝奏役の人。きっとな、その言葉の語源を知らんとからに、テキトーなこと言うてんねんやろ・・・まったくもう、信じがたいほどの無学やでぇ。
その夜、いったいどこの不心得者のしわざであろうか、この松の幹を削って、一首のかえ歌が落書された。
君が代の 短い事を 示すため 前もって折れた 住吉の松
(原文)君が代の 短(みじか)かるべき ためしには 兼(かね)てぞ折(おれ)し 住吉の松
元歌は、
君が代の 久しかるべき ためしにや 神も植えけむ 住吉の松
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住吉に18日間逗留の後、天皇一行は、うるう2月15日に天王寺(てんのうじ:大阪市天王寺区)へ移動。この日、伊勢(いせ)国司・北畠顕能(きたばたけあきよし:注17)が、伊賀(いが:三重県中西部)と伊勢(いせ:三重県中部)の勢力3,000余騎を率いて馳せ参じてきた。
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(訳者注17)親房の子、顕家の弟。
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19日、八幡(やわた:京都府・八幡市)へ到着。法印(ほういん)・田中定清(たなかさだきよ)の房を、皇居とした。
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「吉野朝側、赤井(あかい:伏見区)と大渡(おおわたり:位置不明)に関所を設置、兵は男山(おとこやま:京都府・八幡市)の上下に充満、ひたすら合戦の準備に余念なし」との情報に、京都中、不安におののく。
足利義詮(あしかがよしあきら)は、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の円観(えんかん)を、吉野朝への使者に立てた。
円観 おそれながら申し上げます、足利義詮殿は、以下のように言うておられます。
「過日、私めは、陛下に背きたてまつった過去の罪を謝罪し、勅免の議をお願い申しあげました。それに対して、もったいなくも、陛下よりお情けを頂戴いたしまして、朝廷と幕府との和平の義、既に事定まりましてございます。かくなる上は、もはや何ら、ご警戒なされる必要もございませんでしょう。しかるに、和田、楠以下の者らは、ひたすら合戦の準備に余念無しとか。これはいったいどういう事でありましょうか?」
後村上天皇は直接、円観に対面して、
後村上天皇 日本国中の民人(たみびと)は未だに、いったいこの先、世の中どないなるものやらと、恐れおののいておる。今後どないな非常事態が発生するとも限らん。そやからな、私の方も止むを得ず、かように皆を武装させとるのや。
円観 はい。
後村上天皇 けどな、安心するがえぇぞ。君臣すでに和平にこぎつけたからには、この上いったい何の異変が起ころうか。そらなぁ、世間にはなんやかやと、グチャグチャ言いよるモン(者)もいよるやろ。そやけど、そないなモンの言葉に心惑わされる必要は、全くないのや、なぁ、円観よ。
円観 ハハァ!
後村上天皇 お互いの間に、決して敵対心を醸成(じょうせい)せぇへんこと、これこそが、天下太平確立(てんかたいへいかくりゅう)の基礎と言うべきやろうて、そうやないかぁ、なぁ、円観よ。
円観 ハハァ!(平伏)
これを聞いた義詮は、
足利義詮 陛下がそこまでおっしゃるのなら、大丈夫だろう。なんせ、天皇陛下のお言葉なんだもんなぁ・・・まさか、嘘偽りは無いだろうよ。
義詮側近H でもねぇ・・・やっぱし、あれやこれやと、疑惑の念を訴えてる者もおりますよぉ。
足利義詮 ハァー(溜息)やれやれ、いつの世にもいるんだよなぁ、心配性(しんぱいしょう)の人間ってぇのが・・・ま、いいじゃないの、言わせておけばぁ? ハハハハ・・・。
そのうち、出し抜かれる事になろうとは夢にも思わず、義詮も京都防衛軍メンバーたちも、すっかり油断してしまっていた。
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27日午前5時頃、北畠顕能が、3,000余騎の軍勢を率いて、鳥羽(とば:伏見区)方面から京都攻撃を開始。東寺(とうじ:南区)の南、羅城門(らじょうもん)の東西に、軍旗をはためかせる。
丹波(たんば)方面からは、千種顕経(ちくさあきつね:注18)が、500余騎を率いて攻め寄せた。唐櫃(からうと)越えルート経由で京都盆地に下り、西七条(にししちじょう:下京区)一帯に火を放つ。
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(訳者注18)千種忠顕の子。
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和田、楠、三輪、越智(おち)、真木、神宮寺(じゅんぐうじ)ら総勢5,000余騎は、宵の中に桂川(かつらがわ:右京区&西京区)を渡り、夜明け前に七条大宮(しちじょうおおみや:下京区)付近に到達。南北7、8町に展開の後、トキの声を上げた。
東寺、大宮で上がるトキの声、丹波口(たんばぐち:下京区)付近から立ち上る煙を見て、
京都の人々一同 えらいこっちゃ、えらいこっちゃ! 楠が攻めてきよったで!
京都中、大パニック状態になってしまった。
千本通り(せんぼんどおり:注19)付近に館があった細川顕氏(ほそかわあきうじ)は、はるかかなた西七条方面に煙が立ち上るのを見て、
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(訳者注19)京都を南北に走る通りの一つ。平安京の中軸・朱雀大路にほぼ一致している。現在の市街地でいえば、堀川通と西大路通の中間。
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細川顕氏 しまった、やられたぞ! まずは東寺へ!
顕氏は、わずか140、50騎を率いて、千本通を南へ馬を走らせた。しかし、七条大宮に布陣していた楠軍に包囲され、甥の八郎が討たれてしまった。
主従たった8騎だけになってしまった顕氏は、止むを得ず撤退、若狭(わかさ:福井県西南部)目指して京都を脱出。
侍所(さむらいどころ)担当であった細川頼春(ほそかわよりはる)もまた、東寺付近へ駆けつけて味方の軍勢を集めようと思い、手勢300騎のみを率いて、大宮通りを南下した。
六条付近に、吉野朝側の旗がはためいているのを見て、
細川頼春 こうなったら、軍勢をかき集めたり勢揃いしてるヒマなんか無ぇよ。とにかく、目の前のこの敵をイッパツけ散らさん事にゃぁ。他の場所は、それからだ!
頼春は、和田・楠軍3,000余騎に、立ち向かっていった。
楠たちは、前もって作戦を練っており、一枚盾の裏のさんを密度高く打ち、盾を梯子がわりにも使えるようにしていた。弓の使い手300人ほどが周辺の民家の垣根にその盾を打掛け、さんを伝って家の屋根に上り、そこからビュンビュン、矢を射放つ。
頭上から矢を浴びせかけられては、細川軍も面を向ける事もできず、ついに身動きが取れなくなってしまった。
そこをすかさず、和田・楠軍500余騎が、馬のくつばみを並べて一斉突撃。
細川軍500余騎は、相手側の中央突破を許し、左右へサッとかけ隔てられてしまった。
陣を立て直そうとしていたまさにその時、頼春の乗馬は相手の太刀に驚き、弓3本分もの高さまで飛び上がった。
空中で鞍から離れてしまった頼春の身体は、真っ逆さまにドドッと地上に墜落。
落下と同時に、楠軍の武士3人が、頼春に襲いかかってきた。
頼春は、倒れながらも相手二人の膝を切り、すぐさま起き上がろうとした。
そこに駆け寄ってきた和田正武の中間(ちゅうげん)が、槍の柄を伸ばして頼春を一突き、喉を付かれて頼春は倒れた。そして、彼は、正武に首を取られた。
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