太平記 現代語訳 27-7 足利義詮、鎌倉より上洛し、政権の中枢へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利直義(あしかがただよし)が政治権力の頂点から去った後も、高師直(こうのもろなお)と高師泰(こうのもろやす)の、直義に対する怒りはなおも深く、ついに、直義は、政治の場から完全に疎外されてしまった。

足利尊氏(あしかがたかうじ) 考えてみればだ・・・もともと、政務のすべてを、私は直義に譲ってたんだよな・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 なのに、こんな事になってしまうだなんて・・・まったくもう・・・いやはや・・・困ったもんだ・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・いやいや、こんな事、グジャグジャ言ってても、仕方が無いな・・・。速やかに・・・直義の後任を決定しなきゃいかん・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・よし・・・こうしよう・・・。関東から急ぎ、義詮(よしあきら)を上洛させるんだ・・・。

幕府リーダー一同 (ビクッ)・・・。

足利尊氏 ・・・義詮にな・・・直義に代って、政務を取らせよう・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・義詮の補佐役は・・・師直に・・・政務全般に渡り、義詮に進言・・・実務面を執行・・・。

幕府リーダー一同 (互いに目を見合わせる)・・・。

かくして、以下のようなメッセージが、足利幕府から出された。

「今回、政権の中枢に座する事となられた足利義詮様、その幼名は千壽王丸(せんじゅおうまる)様である。年久しく関東の重鎮として、かの地に駐在されていたのであるが、年齢を重ねられ、政治家としての経験も順調に積まれ、いよいよ国家統治の中心たるべき器もおできになられた。よってこのたび、政治の最高権力を把握されるべく、御上洛とあいなり・・・」

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10月4日、足利義詮は、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)を出発、同月22日に、京都へ到着。

「これは、すごいミモノ(見物)やでぇ」ということで、粟田口(あわたぐち:左京区)、四宮河原(しのみやがわら:山科区)あたりまで、桟敷を立てて車を並べ、貴賎を問わず、「義詮様御入洛」見物の席を争った。(注1)

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(訳者注1)現在の「三条通り」ルートぞい。東海道(昔の)をやってきた人馬は、山科盆地から東山を超え、粟田口へ降りる。そこから三条大橋へは近い。
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高師直以下の在京の有力武士たちは、ことごとく、瀬田(せた:滋賀県・大津市)まで赴いて、義詮を迎えた。

関東からは、川越(かわごえ)、高坂(こうさか)を始め、有力武士のほとんどが、「義詮様のお見送りを」ということで、義詮に随行してきている。その乗馬や鎧の美麗さに、見物人一同、声も出ない。

東方からやってきた人々の、美を尽くし、善を尽くしたその姿もさることながら、行列中心を進む馬上の人は、他ならぬ、天下の将軍・足利尊氏の長男、今や、足利直義に代って国家の最高権力の地位に就任しようとしている人である。誰しも、興奮を覚えぬわけにはいかぬ。

その夜、義詮は、将軍・尊氏の館に到着。上皇からは、大納言・勧修寺経顕(かんしゅうじつねあき)を勅使として、「典厩(てんきゅう)上洛祝賀(注2)」のメッセージが、届けられた。

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(訳者注2)「典厩」は左右馬寮の中国風の役名称。足利義詮は当時、京都朝廷より「左馬頭(さまのかみ)」の役職を与えられていた。
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10月26日、義詮は、三条坊門高倉(さんじょうぼうもんたかくら:中京区)にある足利直義邸に移り、それから程なく、政務の執行を開始した。まことにめでたい事である。

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