太平記 現代語訳 17-10 後醍醐天皇、花山院に幽閉される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)らが法勝寺(ほっしょうじ:京都市・左京区)のあたりまでやってきた時、足利直義(あしかがただよし)が、500余騎を率いてやってきた。

足利直義 まずは、三種神器を、今上(きんじょう)天皇陛下(注1)に、お渡しください。

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(訳者注1)足利尊氏が擁立した持明院統の天皇の事である。
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後醍醐天皇は、前もって用意しておいたニセの三種神器を、持明院統側の内侍(ないし)に渡した。

その後、足利側は、後醍醐天皇を花山院(かざんいん:現・京都御苑・敷地内)へ押し込めてしまった。四方の門を閉じて警護を固め、幽閉同然の扱いである。

降参した後醍醐天皇側に所属の武士たちは各々、足利側の主要メンバーのもとへ預けられ、そこで囚人としての扱いを受ける事になってしまった。

後醍醐天皇サイド・武士A (内心)あぁ、こんな事になると分かっていたら、

後醍醐天皇サイド・武士B (内心)新田殿について、北陸へ行ったんけどなぁ。

後醍醐天皇サイド・武士C (内心)その方が、今のこの状態に比べりゃ、まだなんとかなったろうに。

後醍醐天皇サイド・武士D (内心)こうなってしまってからじゃ、いくら後悔しても、どうしようもねぇよぉ・・・。

10数日後、菊池武重(きくちたけしげ)は、警護のスキをついて拘束先を脱出し、本拠地の肥後(ひご:熊本県)へ逃げ帰った。

宇都宮公綱(うつのみやきんつな)だけは、囚人とは言っても特別扱い、一室に禁固されているだけで、獄舎に繋がれているわけではない。脱出しようと思えばいくらでも、その機会はあったはず。しかし、公綱は出家の体(てい)になり、じっとこもっている。

この態度を良しとしなかった何者かが、落書きしたのであろう、その館の門戸に山雀(やまがら)の絵が描かれ、その下に一首、

 ヤマガラは 左右往復 打(う)つのみや 籠の外には 一歩も出んわい

 (原文)山(ヤマ)ガラが さのみもど(戻)りを うつのみや 都に入(いり)て 出(いで)もやらぬは

本間孫四郎(ほんままごしろう)は、もともとは足利家の家来すじの者であったのだが、去る1月16日の合戦以後、新田陣営に走り、兵庫ビーチ戦においては、遠矢を射て満場の喝采を浴び、比叡山・雲母(キララ)坂の戦においては、扇を射当ててその弓術の程を披露した。「たび重なるその振る舞い、けしからん!」ということで、六条河原へ引き出されて、首を刎ねられてしまった。

延暦寺の道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)は、もとは、法勝寺に属する律宗(りっしゅう)僧侶であった。後醍醐天皇が船上山(せんじょうさん)において倒幕の旗揚げをした時に、祐覚は、律宗僧の衣を脱ぎ捨てて延暦寺衆徒集団に身を投じ、武闘の道に入った。その後、天皇の信任を得て、一気に栄華の階段を駆け上がっていったのであった。

足利サイド・リーダーE 天皇の二度もの延暦寺への動座も、ひとえに、祐覚の軍事面からの支援があったからこそ可能になったんだ。

足利サイド・リーダーF そうそう。彼こそは、延暦寺を我々に敵対するように仕向けた張本人だ!

かくして、祐覚は12月29日、東山の阿弥陀峰で斬首されることになった。その時、彼から法勝寺の上人に送られた歌一首、

 大方(おおかた)の 年の暮(くれ)ぞと 思いしに 我(わが)身のは(果)ても 今夜(こよい)成(なり)けり (原文のまま)

延暦寺から天皇のお供をして降伏してきた公家たちも、死罪一等を減じられてかろうじて命だけは繋がったものの、官職からは解任され、もはや、この世から消滅してしまったも同然の境遇となった。

後醍醐天皇派・公家G (内心)今や栄華の光彩に包まれるようになった人のとこに行っては、その前に平伏し、わが面(おもて)を、泥や砂の上に垂れ、

後醍醐天皇派・公家H (内心)「輝やいていた昔のあの日よ、もう一度」とばかりに、逆賊の輩の足元に、はいつくばり、

後醍醐天皇派・公家I (内心)ようやく我が家に帰りついてみれば、庭には秋の草が深く繁り、小径(こみち)には露深く。

後醍醐天皇派・公家J (内心)寝室に入ってみれば、そこには、夜の月がしんしんとさし込んでいるばかり。

後醍醐天皇派・公家K (内心)室に積もった塵を払う人も無く。

後醍醐天皇派・公家A (内心)顔回(がんかい)は、日々わずか1椀の食と1杯の酒しか得られへん境遇にあっても、心清く、道を求めて生きていったと言うが、

後醍醐天皇派・公家G (内心)そうは言うても、この今のわしの情けない状態、これはいったいなんやねん。司馬相如(しばそうじょ)の伝記に出てくるあの、「家の四方に壁があるだけ、中には家具などまるでなし」の、極貧状態そのものやないか。

後醍醐天皇派・公家H (内心)「天人五衰(てんにんのごすい)」とは、よぉ言うたもんやなぁ・・・エエメの絶頂を味わぉた後は、人間、どこまでも、落ちていくしかないんやわぁ。

後醍醐天皇派・公家I (内心)あーあ、「天界」にいた時はほんま、黄金の日々やったぁ・・・あれも楽しかった、これも楽しかった・・・。それにひきかえ、今のあれやこれやを思うと、涙止まらんでぇ。(涙)

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