太平記 現代語訳 19-5 国内各所において、御醍醐天皇サイド勢力、次々と蜂起
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「天皇、比叡山延暦寺から京都へ帰還、天皇サイド残党は全員、金崎にて戦死」との発表があった時には、「これから先、武士から朝廷に再び政権が戻る、などということは、ありえない」というのが、大方の見解であった。
ところが、「天皇、三種神器を持って吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)へ潜伏。新田義貞(にったよしさだ)、数万騎の軍勢を率いて越前(えちぜん)を制圧。」との情報に、またまた、様々な動きが出はじめた。
まず、いったんは足利サイドに降伏した大館氏明(おおたちうじあきら)。彼は、伊予国(いよこく:愛媛県)へ逃亡し、土居(どい)、得能(とくのう)の子弟らと合流し、四国全域を、反足利勢力一色に染めようとした。
さらに、江田行義(えだゆきよし)。彼も、京都を脱出し、丹波国(たんばこく:京都府西部+兵庫県東部)へ走り、足立(あだち)、本庄(ほんじょう)らをかたらって、高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)に、反足利の旗を翻した。
金谷経氏(かなやつねうじ)は、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の東条(とうじょう:兵庫県・加東市)で兵を挙げ、吉川(きっかわ)、高田(たかだ)を味方に引き込み、丹生(にう:神戸市・兵庫区)の山陰(やまかげ)に城郭を構え、山陰道の中道を押さえてしまった。
遠江国(とうとうみこく:静岡県西部)の井伊(いい)は、宗良親王(むねよししんのう)を奉じて、奥の山にたてこもった。
宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は、紀清両党500余騎を率いて、吉野へ馳せ参じた。以前の忠誠の志を忘れない公綱のこの行動に、後醍醐天皇は大いに喜び、すぐに彼を還俗させて、四位・少将に任命した。
この他にも、四方八方ここかしこで、諸々の武士らが反足利に決起、との情報に、後醍醐天皇のかつての功臣たちや新田義貞恩顧の勢力は、みな大喜びである。
後醍醐天皇サイドの人A (内心)いやいやぁ、最近、グイグイ風向き変わってきたやんかぁ。えぇニュースが、次から次へと、飛び込んでくるわい。
後醍醐天皇サイドの人B (内心)病んでいた雀が、花を食べて力を回復し、飛揚の翼を伸べる、とはまさに、この事かなぁ。
後醍醐天皇サイドの人C (内心)轍(わだち)の跡にできた水たまりにいる魚が、雨を得て唇を潤す、といった気分やねぇ、いや、ほんま。
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