太平記 現代語訳 18-8 玄慧、熱弁をもって、延暦寺を廃絶の危機から救う

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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金崎城が攻め落とされ、諸国の後醍醐(ごだいご)派勢力は希望を失ってしまったのであろう、足利サイドに降参する者あり、本拠地から逃亡する者あり、という状態。かくして、吹く風が草木をなびかせるがごとく、日本国中が足利尊氏(あしかがたかうじ)の命に服することになった。

次なる問題は、延暦寺(えんりゃくじ)に対する処置である。足利尊氏、足利直義(ただよし)を中心に、高家(こうけ)メンバー、上杉家(うえすぎけ)メンバーらも加わっての会議が始まった。

会議参加メンバーA ついこないだまで、先帝派勢力が日本の方々に城を構えてうごめいていた間は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の動向を、とにかく気にする必要がありましたよ。あそこがいったいどのような態度に出てくるのか、いつもヒヤヒヤしながら見てなきゃなりませんでしたねぇ。

会議参加メンバーB あそこの山にいる連中らのご機嫌を損ねちゃぁいけねぇよと、まるで、腫れ物にでも触るような扱いで、その領地もずっと安堵してやってきました。でもね、情勢は一変したんだ! 今や日本国中、将軍さまの武威に服して静まりかえっておりますわ。こうなったらもう、延暦寺を恐れる必要など何もないわけでして・・・どうでしょう、ここらでガーンと方針を改めですねぇ、延暦寺を園城寺(おんじょうじ)の末寺にしちまうってのは?

会議参加メンバーC いやいや、そんなテヌルイことじゃ、とてもとてもぉ・・・。延暦寺が所有してるあの膨大な領地、あれっていったい何ですかねぇ! あんなにたくさんの領地、与えとく必要、ねぇでしょう。

会議参加メンバーD そうですよ! 延暦寺なんか、キレイサッパリ潰しちまやぁいいんだ。比叡山上の堂宇を全て破壊、衆徒は残らず追放、領地はすべて没収して、今回の軍功あった者らに分配、なんてぇの、どうですかねぇ?

このように議論している所へ、京都・北小路(きおこうじ)の玄慧法印(げんえほういん)がやってきた。

高師直(こうのもろなお) おやおや、こりゃぁイイ人がやってきたぞいね。あの人はチョウ(超)博学のメッチャ物知り先生でおられますけんのぉ、こういう事の処置に関しても、それなりの一家言がおありになるんじゃぁねえでしょうか。ちょっくら、ご意見をお聞きしてみたら、いかがざんしょ?

足利尊氏 なるほど・・・法印、どうぞこちらへ。

玄慧 はい。

玄慧は、いずまいを正し、尊氏に対して天下平定の祝賀を述べた。それから、様々の話題に及んだのであったが、

上杉重能(うえすぎしげよし) ところで、法印殿、ちょっとご意見をお聞かせ願えれば、と思う事があるのですが。

玄慧 いったいどないな事ですかいなぁ。

上杉重能 他でもない、あの延暦寺に対する処置の事なんですよ・・・。いやはやまったく、あそこの寺の連中ときたら、実に困ったもんでして・・・。過去に二度も先帝陛下の逃亡を受け入れ、将軍様に対して敵対の他余念なく、といったカンジでしてねぇ。でもまぁ、彼らの抵抗も空しく・・・ま、こう言っちゃなんだが、我等の運が天命に叶っていたという事でしょうかねぇ、朝廷の敵は一度に滅び、日本全国このように、太平の世となりました。

玄慧 ・・・。

上杉重能 そもそも延暦寺という寺、日本の国家にとっては、まことに大きな費(つい)えになっています。毎年の祭礼には京都中の人間が駆り出されるし、多くの衆徒を養うために日本国中に膨大な荘園を領有している。まさに、「日本国の金食い虫」。なのに、朝廷も鎌倉幕府も過去、これに全く手をつけようとしなかった。それはいったいなぜかといえば、ただひとえに、天下の静謐(せいひつ)を延暦寺に祈祷してもらうため。

玄慧 ・・・。

上杉重能 しかし、今や延暦寺は、ただ単に「金食い虫」と言うだけではとてもすまない存在になってしまった。彼らは将軍様に対して怨みを懐き、朝廷の敵らの為に祈りをささげているではないか! まさに足利家にとっては害虫、仏教にとっても弊害多き存在としか、言いようがない!

上杉重能 聞くところによれば、延暦寺の草創(そうそう)は延暦年間、恒武天皇(かんむてんのう)の御世(みよ)の時とか。さて、それより以前の時代、すなわち延暦寺が存在しない時、日本の状況はいったいどうであったかといえば、聖主(せいしゅ:注1)国を治めること相続して50代。その間、外国からの侵略を受けたことは一度も無く、妖怪に悩まされた事も一切無し。代々の天皇は多大なる徳を施し、人民はみなその徳化に浴してきた。このように考えてみるならば、延暦寺が創れらた結果、日本はみちがえるように良くなった、という事でもなさそうだ。延暦寺の存在とは全く無関係に、日本にはずっと良い時代が続いてきたのであります。

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(訳者注1)天皇のこと。
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上杉重能 ようはですね、私が言いたいのは、延暦寺なんてのは、社会にとっては全く何の役にも立たない存在であるってことです。延暦寺の衆徒なんか一人もいなくっなったって、日本にとっては何ら、さしつかえないって事なんですよ。

上杉重能 玄慧殿、あなたはどう思われます? 延暦寺が日本にとって無くてはならない存在であるって事の根拠、何か示すことできます? 白河上皇(しらかわじょうこう)は、「自分の意のままにできないもの、その一はスグロクの目、その二は鴨川の水、そして三つめが比叡山延暦寺の連中ら」とおっしゃったそうだが・・・いったいどうしてそんなに延暦寺に遠慮されたのかなぁ、私にはさっぱり分からない。

玄慧 ・・・。

上杉重能 さぁ、あなたのご意見をどうぞ。後学の為に、ここはじっくりとお聞きしておきたいですねぇ。

玄慧 (内心)なんやて! 延暦寺を潰してしまう? まったくもう、なんちゅう事を・・・言語道断! もう何も言わんと、耳ふさいで帰ってしもたろか・・・。いや、待てよ、ここで私が一言弁じることによって、この人らの誤りをただすことができるかもしれんな。

玄慧は、重能に直接反論するのではなく、遠回しに長物語を始めた。

玄慧 ちょっと長い話になりますが・・・。

上杉重能 どうぞどうぞ。

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玄慧 我が日本国の始まりについては、各家に伝わってる話がいろいろとありまして、諸説紛紛(しょせつふんぷん)状態ではありますが・・・その中の一説に、こうあります。

会議参加メンバー一同 ・・・。

玄慧 天と地とが二つに分かれた後、想像もできひんほどの年月の経過の後、迦葉(かしょう)如来という仏様が西天に出現されました。その時、かの大聖釈尊(だいしょうしゃくそん)は、「遠い未来の世に、あなたは必ず仏となるであろう」との保証をその迦葉如来から頂かれたのですが、未だ人間界には現われず、都率(トソツ)天に住んでおられました。

玄慧 その時、釈尊は考えられました。

 「この先、私は人間界に生まれ、やがては悟りを開き、そして、涅槃(ねはん)に入るであろう。その後に、私が人間界に遺した教えを流布(るふ)させるべき地、それはいったいどこがよいだろうか? その地はいったいどこにある?」

玄慧 そこで釈尊は、シュミ山(せん)の南方の世界をあまねく飛行して、その地を探索しようとされました。

玄慧 すると、浪々たる大海の上に、変わった波音を立てる場所がありました。その波の音はまさしく、

 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) 如来常住無有変易(にょらいじょうじゅうむうへんやく)(注2)

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(訳者注2) [大般涅槃経 獅子吼菩薩品]の中にある言葉。
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玄慧 これを聞いて、釈尊は考えられました、

 「この波が流れて行って最後に止まる所、やがてはそこに、一つの国家が誕生するであろう。その地こそは、私の教法(きょうぼう)が広く宣布(せんぷ)されるべき霊地である。」

玄慧 釈尊は、その波を追尾しながら、はるか10万里の大海原を飛行していかれました。

玄慧 やがて、波は、ある所で停滞しました。そこには、一葉の葦が海上に浮かんでおりました。

玄慧 長い長い年月の経過の後、はたせるかな、その葦の葉は、一つの島へと成長を遂げました。現在の比叡山の麓、大宮権現(おおみやごんげん)が鎮座まします波止土濃(はしどの)がそれなんですなぁ。そのようないわれがあるゆえに、そこの地名を、「波止土濃」、すなわち、「波止まって土濃(こまやか)」と書くんですわ。

玄慧 それからまたさらに、長い長い歳月が過ぎまして・・・ついに釈尊は、インド北部・カピラヴァストゥのŚuddhodana(シュッドーダナ)王の家中に、王子として誕生。そして、19才にして2月8日の夜半、王宮を出奔(しゅっぽん)。それからは、ヒマラヤ山中に身を投じて6年間の難行苦行(なんぎょうくぎょう)、さらには菩提樹(ぼだいじゅ)下に端座(たんざ)したまうこと6年間、12月8日の夜半、ついに悟りを開かれました。

玄慧 悟りを開かれてより後、 [華厳経](けごんきょう)を説かれること21日間、次に、[āgama](アーガマ)、すなわち、[阿含経](あごんきょう)を12年間、さらには方等経(ほうとうきょう)を30年、 Saddharma Puṇḍarīka Sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)、すなわち、[法華経](ほけきょう)を8年間。そしてついに、バッダイ河のほとり、シャラ双樹の下で、般涅槃(はつねはん)。

玄慧 しかしながら、仏とは、常住不変の存在にして、身体は滅したとて、その本体は依然として存在す。その昔、人間世界に遺した教えを流布せんとして定められた、あの葦の葉があった所に行ってみられました。

玄慧 その葦の葉はすでに、日本列島へと成長を遂げていた。その時に日本を治めていたのは、ウノハズノフキアワセノミコト、すなわち神武天皇のおん父君。その国の人々は、仏教の事など、一切何も聞いた事がない。しかし、この列島は大日如来(だいにちにょらい)の本国、仏教東伝の霊地。そのどこかに、衆生を教化救済(きょうげきゅうさい)する拠点を定めんとして、釈尊は、あちらこちらと遍歴なさいました。

玄慧 やがて釈尊は、比叡山の麓、志賀(しが)の浦(滋賀県・大津市)で、一人の釣りをする老人に出会われました。

玄慧 釈尊は老人に問われた、

 「ご老人よ、あなたはもしかして、この地の主か? もしそうであるならば、この山を私に、与えてはくださらぬか。ここを結界(けっかい:注3)して、仏法弘通(ぶっぽうこうつう)の根拠地としたいのだ」。

老人、それに答えていわく、

 「我は、遠い遠い過去の昔より、この地の主であった。この湖が一面の葦の原に変わるのを7度も見てきたのだよ。この地があなたによって結界されてしまったら、我はいったいどこで、釣りをすればよいのだ? 釈尊よ、速やかにここを立ち去られよ、どこか他所に、結界の場を求められよ。」

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(訳者注3)結界:Sīmābandha。諸魔の障難を払わんが為に、印明の法(一種の作法)によって制定する道場の界区をいう。これ密教において用いらるる法で、主として道場を護り浄むるをその趣意とする。(「仏教辞典」大文館書店刊より)
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玄慧 この老人の正体、実は、白髭明神(しらひげみょうじん)やったんですなぁ・・・。と、いうわけで仕方なく、釈尊は、寂光土(じゃっこうど)世界に帰ろうとされた。

玄慧 するとそこに、東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)の主・薬師如来(やくしにょらい)が忽然と現れてました。

釈尊は、大いに歓喜し、老人から言われた事を、薬師如来に告げた。すると、薬師如来は、

 「この地を、仏法弘通の根拠地に? それは良い。どうぞ、この地に、仏法を広めなさい。」
 
 「私は、あの老人よりもずっと前から、この地の主であった。あの老人が、私のことを知らないだけなのだ。私がこの山を惜しむはずがあろうか、喜んで、この地をあなたに進呈しましょう。」

 「やがて、仏教がインドから東方の世界に伝えられる時が来る。その時、釈尊、あなたは、仏教を世界に広める大師(だいし)となって、この山に寺を建てなさい。私はこの山の王となり、末法(まっぽう)の世の末までも、仏教を守るでありましょう。」
 
このように、薬師如来は釈尊に誓約され、その後、二仏は東西に帰っていかれました。

玄慧 はたしてそれから1800年の後、釈尊は、伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)として、再びこの世に生を受けられました。

玄慧 延暦23年、伝教大師は仏法を求めるために、中国へ渡航、たちどころに、顕教・密教の全てを修め、ありとあらゆる律(りつ)、経(きょう)、論(ろん)を究めた後、延暦24年に帰国。そして、恒武天皇(かんむてんのう)の後援のもとに、比叡山延暦寺を開創されました。

玄慧 天皇の命を受けて、大師が根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建てようと、敷地にナワを引いておられたところ、なんと、炎のように真っ赤な人間の舌が一つ、地中で法華経を読み続けているではないか。

玄慧 大師は、問われた、

 「おまえはいったい、何もの?」
 
すると、舌は答えた、

 「我は、過去にこの山に住し、法華経6万回読誦(どくじゅ)せり。寿命には限りがあるゆえに、身体はすでに滅びてしまったが、舌だけはなおも残って、法華経を読み続けておる。」

玄慧 根本中堂の建立を終え、そこにおまつりする本尊を大師が自ら彫っておられた際には、一度斧を下して、「像法転時 利益衆生 故号薬師 瑠璃光仏」と唱えて礼拝されると、木造の薬師如来像が大師に向かって深くうなづかれた、という話も伝わっております。

玄慧 その後、大師は、小比叡(こひえい)の峯に杉の庵を建て、しばらくそこに一人でこもられました。

玄慧 ある日、次のような歌を詠まれました。

 日の本の 小比叡(こひえ)の杉の 独居(ひとりい)は 嵐も寒し 問う人もなし

 (原文)波母山(はもやま)や 小比叡の杉の 独居は 嵐も寒し 問う人もなし

それから大師は、深い深い精神集中に入っていかれました・・・。

すると、光輝く3つの火の玉が、天からそこに降りてきた。それぞれの光の中に、釈迦、薬師、阿弥陀の三如来が並び立っておられる。やがて、その三尊は、あるいは僧形(そうぎょう)に変化(へんげ)し、あるいは俗人の姿に変化していった。そして、大師を礼してのたまわく、

 「十方世界の大菩薩である貴方は、衆生をあわれむがゆえに道を行じられる。我ら、恭しく貴方を敬いたてまつるものなり。貴方こそは我等の大師である」。
 
大師は、大いに礼敬(らいきょう)し、

 「どうか、諸尊方の御名を、お教えくださいませ。」

三尊、答えていわく

 「タテの3点にヨコの1点を加え、ヨコの3点にタテの1点を添える。内には天台宗の教法を護らんがため、外には衆生済度(しゅじょうさいど)の方便を助けんがため、我等はこの山に降り立った。」
 
その光が天まで照らすこと、あたかも磨き上げた鏡のごとくでありました。

玄慧 大師はさっそく、三尊から発せられたその言葉を、文字に書いてみられました。

 「タテの3点にヨコの1点を加え」・・・"|||" + "_" = "山"

 「ヨコの3点にタテの1点を添える」・・・"三" + "|" = "王"

「山」は、高大にして不動。「王」は、天と地と人との働きを縦横に繋ぎ合わせる徳を象徴。

ゆえに、大師は、その三尊を、「山王(さんのう)」と呼んで崇めたつまることにされました。

玄慧 この「山王」の他にも、比叡山延暦寺には、様々な神々がおまつりされてましてな、

まずは、大宮権現(おおみやごんげん)。これは、遠い過去に成仏された仏さまの化身であるところのアマテラスオオミカミのそのまた化身にして、天台宗を護り続けながら久しく比叡山に鎮座まします。ゆえに、「法宿大菩薩(ほっしゅくだいぼさつ)」とも申し上げる。ようは、釈迦如来の化身であらせられます。

次に、聖真子(しょうしんじ)。これは極楽浄土の主にして八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の化身。四明嶽(しめいだけ)の麓に武威の光やわらげ、大宮、二宮(にのみや)とともに三身を顕わしたもう。十悪を犯した極悪人さえをも、容易に仏法の中へ導かれること、あたかも疾風が雲霧(うんむ)を払うがごとし。衆生のたった一念に対しても感応されるその様は、まさに大海に露を入れるがごとし。人間に結縁して我等の世界に交わり、生死の苦しみより我等を離脱せしめて、菩提を得さしめたまいます。

二宮(にのみや)こそは、かの大聖釈尊と誓約をなしたる東方浄瑠璃世界の薬師如来の化身にして、わが日本列島・秋津島(あきつしま)の地主。いずこにあろうとも、人の願いをかなえてくださる。現世の安穏を望む人間の願い、死後の西方浄土へ至らんとの望み、ありとあらゆる願望をかなえて下さり、後生菩提(ごしょうぼだい)の指南(しなん)をしてくださる。

八王子(はちおうじ)は、千手観音(せんじゅかんのん)の分身。けがれなき精神集中の力をもって、地獄の業苦をも救いたもう。仏から教えを授けられ、仏弟子となった王子の生まれ変わった姿ゆえに、大八王子と呼ぶ。その本体は極楽浄土に住するも、その影のごとき分身は、比叡山麓の社に鎮座まします。その境内はまさしく、仏や菩薩の住する浄土を表徴、大海中の観音宮殿にもたとえられるべきか。

客人宮(きゃくじんのみや)は、十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)の化身。これはもともと、白山(はくさん:石川県と岐阜県の県境)に住まう霊神であったが、山王の働きを助けんがため、北陸の峯を出でて、日吉山王神社にやって来られたもの。ゆえに、客人と呼ぶ。現世においては十種類の利益を与え、臨終の際には、その人を極楽浄土へと導きたもう。

十禅宮(じゅうぜんのみや)は、仏無き世界の救主・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身。地蔵菩薩さまは、釈尊に後を託されて忉利天(とうりてん)におわします。釈尊入滅後、弥勒(みろく)仏誕生までの仏無き世界において、人々を救済へと導かれる。まさに、釈尊、弥勒仏、そして地蔵菩薩、三身協力のお働き。十禅宮のたまわく、「延暦寺の衆徒らを養って我が子となし、法華経を守って我が命となす」。たとえわずかな結縁であろうとも、その利益は莫大なり。

三宮(さんのみや)は、普賢延命菩薩(ふげんえんめいぼさつ)の化身にして、法華経の本質。法華経を読む者の窓辺に来たりて、彼を哀み受けいれたもう。まさに慙愧懺悔(ざんぎざんげ)の聖主。六根(ろっこん)の罪業を持つ我ら、これを仰ぎたてまつらずにはおらりょうか。

玄慧 さらには、中七社(なかのななしゃ)。ここに祭られる神々もまた、様々な仏や護法神の化身ですぞ。牛の御子(うしのみこ)は大威徳明王(だいいとくみょうおう)、大行事(だいぎょうじ)は毘沙門(びしゃもん)すなわち、多聞天(たもんてん)、早尾社(はやおしゃ)は不動明王(ふどうみょうおう)、気比社(けひしゃ)は聖観音(しょうかんのん)、下八王子社は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、王子の宮は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、聖女(しょうにょ)社は如意輪観音(にょいりんかんのん)。

玄慧 次に下七社。小禅師(しょうぜんじ)は弥勒菩薩、悪王子(あくおうじ)は愛染明王(あいぜんみょうおう)、新行事(しんぎょうじ)は吉祥天(きっしょうてん)、岩瀧(いわたき)は弁才天(べざいてん)、山末(やまずえ)は摩利支天(まりしてん)、剣宮(つるぎのみや)は不動明王、大宮の竈(おおみやのへっつい)殿は大日如来(だいにちにょらい)、聖真子竈(しょうしんじのへっつい)殿は金剛界(こんごうかい)の大日如来、二宮竈(にもみやのへっつい)殿は、日光(にっこう)・月光(がっこう)の二菩薩が衆生の苦しみを救わんと、大悲(だいひ)の門を出で、衆生利益の道に赴きたもうたもの。

玄慧 このように、伝教大師の衆生救済の活動を助けるために、十方から菩薩がやってこられて、八王子、客人、十禅師、三宮の4か所に居を定められ、さらには霊神もやってこられて、日吉山王、上、中、下の合計21社がその周囲をかためておられるのです。それぞれの神々の救いを現されるその様、百千ゴウの長い時間をもって長広舌をもってしても、とても語り尽くせるものではありません。

玄慧 このような数多くの神仏の守護したもう世界の中に、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学を象徴して三つの塔が立ち、多くの衆徒が修行に励んでおるのです。

玄慧 比叡山上からは、十二の願をかけられた薬師如来が、世界をじっと観察しておられます。わが日本の国家が治まるも乱れるも、この如来の感応次第。さらには、日吉山王七社に鎮座まします多くの神々、国家の吉兆はすべて、これらの神々のお心一つ。そやからこそ、朝廷に事ある時には、これを祈って災いを除き、福を招かんとする。そのような延暦寺を大事と思うからこそ、あちらから何か訴えてきた時には、朝廷は、無理な要求をも道理として、受け入れてこられたのです。

玄慧 たしかに過去2度にもわたって、延暦寺が先帝陛下を迎え入れた事、それは、衆徒たちの心得違いといえましょう。しかしながら、「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入る時には、狩人(かりうど)もこれを哀れみて殺さず」。ましてや、他ならぬ天皇陛下が頼ってこられるとあっては、誰がそれを拒絶することがありましょうか。

玄慧 先帝陛下に志を同じくした者らが、未だに延暦寺に残っておって、依然として、ご当家に対して敵愾心を燃やしているとしても、ご当家におかれましては、恨みを捨てて彼らに厚く恩を施し、徳を施していかれたならば、やがては、衆徒たちの気持ちも変わってくるのではないでしょうか。

玄慧 ご当家の敵対勢力の盛運を祈る祈りは、やがては、ご当家の命運、どうか盛大となりますように、との祈りへと変わり、朝敵をひいきする心も、いつかは失せていくことでしょう。そしてご当家に対して、二心なき忠節を尽くすようになっていくことでしょう。

このように、仏教や仏教以外の諸説を根拠にして明快に論じる玄慧の熱弁に、足利尊氏、足利直義、高、上杉、頭人(とうにん:注4)、評定衆(ひょうじょうしゅう:注5)に至るまで、「やはり延暦寺なくしては、天下は治まるまい」と納得、すぐに領地安堵の決定を下した上に、さらに多くの領地を延暦寺に寄進した。

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(訳者注4)引付頭人(ひきつけとうにん)の略。引付衆主席。「引付」とは記録を指し、「引付衆」は訴訟の審理や記録を司った。

(訳者注5)幕府の様々な会議に参加し、議決に加わる役。
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