太平記 現代語訳 38-3 斯波氏経、九州へ
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利幕府にとっては、九州の情勢もこれまた、極めて気がかりな事であった。
幕府リーダーA 九州はもう、大変な状態になってしまってますねぇ。
幕府リーダーB 小弐(しょうに)、大友(おおとも)はじめ、我が方の勢力はみな、菊池(きくち)に圧迫されてます。
幕府リーダーC このままでは、九州全域が、南方朝廷の勢力下に、スッポリ入ってしまいますよ。
足利義詮(あしかがよしあきら) だよなぁ・・・ここは一つ、誰かを派遣して、小弐、大友に力を合わせて、失地回復を図るしかあるまい?
幕府リーダー一同 ・・・(一斉にうなづく)
足利義詮 ・・・でぇ・・・さぁてと・・・誰を任命しちゃおうかなぁ。
幕府リーダーD 斯波氏経(しばうじつね)殿で、どうでしょう?
足利義詮 あ、それ、いいね、それで行こう。
というわけで、斯波高経(しばたかつね)の次男・氏経が、九州地方長官(注1)として、現地に派遣されることになった。
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(訳者注1)原文では、「九州の探題」
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斯波氏経は、まず兵庫(ひょうご:兵庫県・神戸市・兵庫区)に赴き、そこで、四国地方と中国地方の勢力を招集したが、応じて来る者は、ほとんどいなかった。
かといって、京都へ引き返すわけにもいかないので、わずか240~250騎ほどの軍勢でもって、九州へ向けて出帆した。
見れば、氏経が乗っている屋形船(やかたぶね)をはじめ、士卒を乗せた小船に到るまで、一船残らず、10人、20人と、キレイドコロ(注2)を乗せている。
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(訳者注2)原文では、「傾城」。
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海岸に立ち並んで、その出港の様を見物している者の中に、少々利口ぶった遁世者がいて、傍(かたわ)らの人々に向かっていわく、
遁世者 九州の大敵を亡ぼしに行くという遠征軍の、大将の任にある程の人がだよぉ、まぁ、これほどまでにも、物事の道理をわきまえてないとはねぇ・・・いやはやぁ・・・こんなんじゃぁ到底、大いなる戦功を立てる事は無理だろうなぁ。
見物の人E そらいったい、なんでまた?
遁世者 あのな、いいかい、大敵に対して陣を張り、戦を決しようという時にはだな、兵気(ひょうき)ってもんが、何よりも重要な要素になってくるんだよ。
見物の人F あのぉ・・・その「兵気」っちゅうのんは、いったいなんの事やぁ?
見物の人G 「兵士」らの「気」の事と、ちゃうんかい?
遁世者 そう、まさしく、兵士たちの「気」、「気」のエネルギーだよ。
遁世者 この兵気が、敵の上を覆って立つ時にはな、戦においては、必ず勝利を得る事ができるんだ。でもなぁ、陣中に女性が多く混じってると、兵気は絶対に立ち上らないんだよ。「陰の気」が「陽の気」を、消してしまうので。
見物の人E ほぉー、そないなもんでっか。
遁世者 兵気が立たなければ、たとえ大軍をもってしても、勝利は得られない。古代中国・前漢(ぜんかん)王朝時代の、こんな話があるよ・・・覇陵(はりょう)の李広(りこう)という大将がだな、敵国に赴いて陣を張り、兵士らの陣所を整えて、さぁ、いよいよこれから匈奴(きょうど)族の王を相手に、戦いを決しよう、という事になった。
(以下、遁世者が語った話)
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李広 (内心)敵は、わずかに3万余騎、我が方の兵力は、優にあの10倍はある。我が方の兵気、敵陣の上を覆いつくしておろうて。
李広は、まず高山の上に上り、両方の陣を見渡した。
李広 (内心)ムムム・・・いかん・・・さぞかし、わが方には兵気が高く立ち上っておると思ぅておったに・・・サッパリではないか! これはおそらく、陰の気が勝って、兵気の発生が阻害されておるのじゃ、そうとしか、考えられぬわい。
李広 (内心)それにしても、解せぬのぉ・・・いったいなぜ、我が陣中に、陰の気が?
李広 (内心)もしや・・・我が陣中に女が交わり、どこかに隠れ潜んでおるのでは? そうじゃ、きっとそうに違いない。兵気の立ち上らぬ原因、他には考えられぬ。
陣中をくまなく捜索してみると、果たせるかな、3,000余人もの女性が、あちらこちらに隠れ潜んでいた。
李広 やはり、そうであったか! これらがおるがゆえに、兵気が発生せんのじゃわい。
李広は、これらの女性を全員、捕え、あるいは水中に沈め、あるいは陣中から追放した。
そして、李広は再び高山に上り、自陣を見渡してみた。
李広 (内心)よぉし! 兵気がムラムラと、天高く立ち上っておる、敵陣の上を覆いつくしておるぞぉ。
李広 よし、行くぞ!
李広は兵を進め、匈奴軍と決戦、匈奴軍は四方に逃げ散り、李広は一気に勝利を得る事ができた。
その結果、彼は、「李将軍」と世間の人々から呼ばれ、その武功は天下に轟き渡った。
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(以上で、遁世者が語った話、終わり)
遁世者 智恵ある大将というのは、まさに、このようにあらねば、ならんのだよ。なのにだなぁ、大敵群がる九州に遠征に行こうってのにだ、兵気を二の次にして、まず女にうつつをぬかすだなんて、まったくもう、心得違いも、はなはだしいってぇもんだぞぉ。
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その後の九州地方の情勢は、彼の批判通りに展開していった。
斯波氏経は、九州に上陸してみたものの、その後程無く、高崎山城(たかさきやまじょう:大分県・大分市)をも保持する事もできなくなってしまい、ほうほうのていで、京都目指して逃げ帰らざるをえなくなった。
あまりにも面目無し、と思ったのか、氏経は、京都へ帰還の途中、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)で出家し、諸国流浪(しょこくるろう)の世捨て人になってしまった。(注3)
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(訳者注3)「諸国流浪」は、史実とは異なるかも。同時代に生きていた中原師守(なかはらもろもり)の日記(「師守記」)には、「遁世、居住嵯峨周辺云々」と記されているようだ。
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