太平記 現代語訳 27-5 高兄弟の軍勢、足利尊氏邸を包囲
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞和(じょうわ)5年(1349)8月12日、京都中にわかに騒然となってきた。
街の声A 合戦や、合戦やで!
街の声B エーッ! 合戦て、いったい、誰と誰が合戦すんねん?
街の声C 足利直義(あしかがただよし)さまと、高(こう)兄弟やがな。
街の声D エェーッ!
宵頃から、数万の軍勢が京都中をあちらこちらへ馳せ違いだした。馬の足音、鎧の草ずりの触れ合う音の鳴り止むひまもない。
足利直義邸へ集結したメンバーは以下の通り。
吉良満義(きらみつよし)、吉良満貞(みつさだ)、石塔頼房(いしどうよりふさ)、石塔頼直(よりなお)、石橋和義(いしばしまさよし)、その子息・石橋宣義(のぶよし)、斯波高経(しばたかつね)、その子息・斯波氏経(うじつね)、その弟・斯波氏頼(うじより)、荒河詮頼(あらかわのりより)、細川頼春(ほそかわよりはる)、細川顕氏(あきうじ)、畠山直宗(はたけやまなおむね)、上杉重能(うえすぎしげよし)、上杉朝房(ともふさ)、上杉朝貞(ともさだ)、長井廣秀(ながいひろひで)、和田宣茂(わだのぶしげ)、高師秋(こうのもろあき)、千秋惟範(せんじゅこれのり)、大高重成(だいこうしげなり)、宍戸朝重(ししどともしげ)、二階堂行通(にかいどうゆきみち)、佐々木顕清(ささきあききよ)、里見義宗(さとみよしむね)、勝田助清(かつたすけきよ)、狩野三郎(かのさぶろう)、苑田美作守(そのだみまさかのかみ)、波多野下野守(はだのしもつけのかみ)、波多野因幡守(いなばのかみ)、禰津小次郎(ねづこじろう)、和久四郎左衛門尉(わくしろうさえもんのじょう)、斎藤利康(さいとうとしやす)、飯尾修理入道(いいおしゅりのにゅうどう)、須賀清秀(すがきよひで)、秋山朝政(あきやまともまさ)、島津四郎左衛門尉(しまづしろうさえもんのじょう)、これら主要メンバーの他、7,000余騎が軍門をかためて控える。
高師直(こうのもろなお)邸へ馳せ加わってきたメンバーは、以下の通りである。
山名時氏(やまなときうじ)、今川範国(いまがわのりくに)、今川頼貞(よりさだ)、吉良貞経(きらさだつね)、大嶋盛真(おおしまもりまさ)、仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟、仁木義長(よしなが)、仁木頼勝(よりかつ)、桃井義盛(もものいよしもり)、畠山国頼(はたけやまくにより)、細川清氏(ほそかわきようじ)、土岐頼康(ときよりやす)、土岐頼兼(よりかね)、土岐頼雄(よりたか)、佐々木秀綱(ささきひでつな)、佐々木秀定(ひでさだ)、佐々木氏綱(うじつな)、佐々木氏頼(うじより)、その弟・佐々木直綱(なおつな)、同じく佐々木定詮(さだのり)、同じく佐々木時親(ときちか)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、武田信氏(たけだのぶうじ)、小笠原政長(おがさわらまさなが)、逸見信茂(へんみのぶしげ)、大内民部大輔(おおちみんぶたいう)、結城小太郎(ゆうきこたろう)、梶原景広(かじわらかげひろ)、佐竹師義(さたけもろよし)、佐竹義長(よしなが)、三浦行連(みうらゆきつら)、三浦藤村(ふじむら)、大友頼時(おおともよりとき)、土肥高真(とひたかさね)、土屋範遠(つちやのりとお)、安保忠真(あふただざね)、小田伊賀守(おだいがのかみ)、田中下総三郎(たなかしもうささぶろう)、伴野長房(とものながふさ)、木村基綱(きむらもとつな)、小幡左衛門尉(おばたさえもんのじょう)、曽我左衛門尉(そがさえもんのじょう)、海老名季直(えびなすえなお)、大平義尚(おおひらよしなお)、粟飯原清胤(あいはらきよたね)、二階堂行元(にかいどうゆきもと)、中条秀長(なかじょうひでなが)、伊勢貞継(いせさだつぐ)、設楽五郎兵衛尉(しだらごろうひょうえのじょう)、宇佐美三河三郎(うさみみかわのさぶろう)、清久左衛門次郎(きよくさえもんじろう)、富永孫四郎(とみながまごしろう)、寺尾新蔵人(てらおしんくろうど)、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)、富樫介(とがしのすけ)を始め、多田院御家人(ただいんのごけにん)、常陸国(ひたちこく:茨城県)の平氏、甲斐国(かいこく:山梨県)の源氏、さらに、高家一族は言うまでもなく、首都圏とその近隣地帯の武士、志ある高家恩顧の者らが、我も我もと馳せよってきた。
程なく、高サイドの兵力は5万余に達した。一条大路(いちじょうおうじ)、今出川(いまでがわ)、転法輪(てんぽうりん:注1)、柳が辻(やなぎがつじ:注2)、出雲路河原(いずもじがわら:注3)に至るまで、隙間なく陣取っている。
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(訳者注1)一条大路の北側にある東西の通り。
(訳者注2)烏丸通りと上立売通りの交差点の付近。
(訳者注3)現在の出雲路橋の付近の、鴨川の河原。
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ただならぬ雲行きに驚いた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、足利直義のもとへ使いを送った。
使者 将軍様より、直義様に対して、次のように申し上げよと・・・「師直と師泰(もろやす)め、身の程知らずの奢侈(しゃし)をむさぼった末に、とうとう、主従の礼まで乱すようになってしまった。末世とはいえ、まったくもう、とんでもない事になってしまったものだ。もしかしたら、そちらに攻め寄せていくような事もあるやもしれぬ、急ぎ、こちらへ来られよ。兄弟一緒になって、今後の安否を見定めようではないか。」
直義はすぐに、自らのもとに馳せ集まってきた武士たちを連れて、近衛東洞院(このえひがしのとういん)の尊氏の館へ移動した。
この事態急変に、「これでは、とても勝ち目が無い」との思いが、直義陣営サイドに走ったのであろうか、5人、10人とボロボロと脱落者が続出、高サイドに寝返っていく。いつの間にか、直義の側にいるのは、主な一族と譜代の家臣、二心なく忠節を尽してきた者たちのみ、総計わずか1,000騎足らずになってしまった。
翌8月13日午前6時、高師直とその子息・武蔵五郎師夏(むさしごろうもろなつ)は、雲霞のごとき大軍を従え、法成寺河原(ほうじょうじがわら:現在の荒神橋付近)に打って出た。
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