太平記 現代語訳 39-7 春日大社の神木、奈良へ帰る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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斯波高経(しばたかつね)が京都から逃亡した後、越前国(えちぜんこく:福井県東部)の河口庄(かわぐちしょう:福井県・あわら市ー坂井市)は、興福寺(こうふくじ:奈良市)に返還された。そこで、衆徒たちはすぐに訴えを取り下げ、8月12日に、神木が奈良に帰る事になった。(注1)

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(訳者注1)神木が京都に持ち込まれたいきさつについては、39-5 を参照。
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神木・移動開始の時刻は午前6時、と定められていたが、夜明け頃から暴風雨となった。

「天の怒り、なおも幾分、残っているのであろうか」と、衆人、気をもんだが、その時刻が近づくにつれて、雨は晴れ、風も静まり、うららかな天気となった。

この天候変化の不思議に、人々には大いに、感ずる所があった。

いよいよ、移動開始のセレモニー。

まず、藤原大学・学長(注2)・万里小路嗣房(までのこうじつぎふさ)が、神木の前に参り、諸事を執行する。

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(訳者注2)原文では、「南曹弁」。「南曹」とは「勧学院」の事。「勧学院」とは、藤原氏の子弟が学ぶ学校。
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正午、左大臣・鷹司冬通(たかつかさふゆみち)はじめ、九条忠基(くじょうただもと)、一条房経(いちじょうふさつね)など、大納言(だいなごん)、中納言(ちゅうなごん)、首都圏長官(注3)以下、順次、参列。

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(訳者注3)原文では、「大理」。検非違使別当のことである。
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関白・二条良基(にじょうよしもと)着座の後、数人の僧侶以下全員、神木の前に座して礼を行う。良基は、藤原氏・氏の長者(うじのちょうじゃ)として、氏神である春日大社(かすがたいしゃ:奈良市)に対し、礼を尽くした。

いよいよ、神木の移動、開始。

数万人が立ち並ぶ中、興福寺衆徒中より一人の代表が前に進み出て、移動執行の開始を宣言。その音声は雲に響き、言葉は玉を連ねたかのようである。

宣言文の朗読終了の後、会場には雅楽の音が響き渡りだす。楽人(がくじん)斉唱の中に、布留(ふる)の神宝が取り出され、関白以下、公卿たちは、席から下り、全員ひざまづく。

次に、春日大社・神木の榊(さかき)、四社の御正体(みしょうだい)を、光明赫奕(かくやく)と揺すり出し、覆面をした数千の神官らが、神木を捧げ持つ。

神木移動の道中、左右の楽人たちは、還城楽(かんじょうらく)を奏して正始(せいし)を歌い、神人(じんにん)たちは、先払いの声を上げ、非常時に備えて警戒する。

赤衣(せきえ)の仕丁(じちょう)が、白杖(はくじょう)を持って神木の前に立ち歩み、黄衣(こうい)の神人たちは、神宝を捧げ持ちながら順次、歩み行く。

その他の神司(かんつかさ)たちも、束帯(そくたい)を着して列に連なる。白衣の神人、数千人の大和(やまと:奈良県)の国人たちが、その後に続く。

関白・二条良基は、柳の下重ねに糸を編んで作った履をはき、周囲を輝かさんばかりに歩み行く。先駆け4人が、その左右に従い、2人の殿上人(てんじょうびと)が、その裾を持つ。随身(ずいじん)10人は、あえて、先払いの声を出さない、これは神木をおそれつつしんでの事である。

その後に、左大臣・鷹司冬通、今出川公直(いまでがわきみなお)、花山院兼定(かざんいんかねさだ)、九条忠基(くじょうただもと)、一条房経(いちじょうふさつね)、坊城俊冬(ぼうじょうとしふゆ)、四条隆家(ひじょうたかいえ)、西園寺公永(さいおんじきんなが)、四条隆右(しじょうたかみぎ)、洞院公頼(とういんきみより)。

鷹司忠頼(たかつかさただより)、一条季村(いちじょうすえむら)、法性寺親忠(ほっしょうじちかただ)、万里小路嗣房(注4)、園基信(そののもとのぶ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、権右中弁・資康(すけやす)、蔵人・左中弁・仲光(なかみつ)、右少弁・宗顕(むねあき)、御子左為有(みこひだりためあり)、右少将・兼時(かねとき)らの殿上人たちも、装いを整え、威儀を正し、静かに列をなして進む。

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(訳者注4)万里小路嗣房は、左中弁でかつ、勧学院の学長を兼任。
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供奉(ぐぶ)の衆徒2万人が、各々ホラ貝を吹き連ね、前後30余町にわたって、この行列を守る。

今や、朝廷は安泰、わが国はよく治まっている・・・あの神代の昔、藤原氏の祖神・アメノコヤネノミコトが皇孫ニニギノミコトを助けて神事を司った時のように・・・関白・二条良基の至高の徳を仰ぎ見るに、タカムスビノミコトが下されたあの神勅、「アメノコヤネノミコトは、ニニギノミコトを、よろしく助けるべし」が、あらためて思い起される。

見物人A まことに、衆生を利益(りやく)せんがために、み仏は神に姿を変え、この世に現われたまいます。

見物人B ありとあらゆる衆生を仏縁に繋ぎとめんと、常に、慈悲の心を垂れたもうのでありますよ。

見物人C 善人に対しては、その善によって順(じゅん)なる仏縁(ぶつえん)を繋(つな)ぎ、

見物人D 悪事を犯す人に対しては、逆縁(ぎゃくえん)、すなわち、その悪事のもたらす因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり)をもって、そのような人をも、救わせたまうのです。

見物人E まさに、今回のこの神木の一件、斯波高経殿の、神仏をもおそれぬ悪事から発した事ではありますが、

見物人F その悪事の結果、わたいらは、今日このように、ありがたい神木のご還御(かんぎょ)に、立ち会わせていただく事ができたっちゅうことですわいな。

見物人G いやぁ、ほんにまぁ、神仏の徳とは、ありがたいもんどすぅ。

見物人一同 同感ですぅ。

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