太平記 現代語訳 26-9 足利直冬、政治の表舞台に登場
太平記 現代語訳 インデックス 13 へ
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----
「中国地方をも完全に制圧し、反足利幕府勢力の動きを封じ込めてしまおう」という事で、足利尊氏(あしかがたかうじ)の次男・直冬(ただふゆ)が、備前国(びぜんこく:岡山県東部)に派遣されることになった。
尊氏は若かりし頃、人目を忍んでたった一夜だけ、ある女性のもとに通ったことがあった。彼女の名は越前局(えちぜんのつぼね)。その人が、直冬の母である。
直冬は始め、武蔵国(むさしこく)の東勝寺(とうしょうじ:神奈川県・鎌倉市)に少年僧として入っていたのだが、元服の後、京都へやってきた。
直冬を父・尊氏にひきあわせてやろうと思い、内々に様々な斡旋活動を行った人がいた。しかし、尊氏は、直冬に会おうとはしなかった。そこで、玄恵(げんえ)が彼を預かる事になった。
直冬は玄恵のもとで勉学しながら、世間の注目を集める事もなく、わびずまいを続けるだけの毎日を送ることとなった。
玄恵 (内心)もったいないわなぁ、直冬殿・・・。才能においても人品においても、優れた人やのになぁ。幕府もな、こういう将来有望な若い人を、どんどん活用していくべきやでぇ。
玄恵 (内心)うーん・・・なんとかして、直冬殿を、世に出してさしあげたいもんやなぁ・・・。
玄恵 (内心)そうやなぁ・・・一回、直義(ただよし)殿に、相談してみよかいなぁ。
玄恵は機会を見て、足利直義に直冬を推薦してみた。
足利直義 そうですかぁ・・・。そんなに優秀なんだったら、一度会ってみようかなぁ。
玄恵 ぜひとも、そうしてくださいませ!
足利直義 わかりました。まずは、彼を私の所へ連れてきてくださいませんか。どのようなパーソナリティを持った人物なのか、自分の目で、よくよく確かめてみますよ。その上でね、「見どころあり」と思ったら、兄上の方に、私から推薦してみましょう。
というわけで、直冬は玄恵に連れられて、直義邸を訪問した。直冬にとっては、これが親族との初めての対面であった。
しかし、その後1年たち2年たっても、依然として、尊氏は直冬に面会しようとはしなかった。
-----
紀伊国(きいこく:和歌山県)において、吉野朝(よしのちょう)側勢力が蜂起した際に、尊氏はようやく重い腰を上げ、直冬を、正式に我が子として認知した(注1)。
直冬は、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に補任され、吉野朝勢力征討軍の大将として、戦場に派遣された。
-----
(訳者注1)原文には、「将軍始めて父子の号を許され」。
-----
やがて、紀伊国が平定され、直冬は京都へ凱旋。彼もようやく、足利家中の重要人物として、人々に認められるようになってきた。
尊氏のもとに出仕する機会も、次第に増えてはきた。しかし、その際の座席たるや、仁木(にっき)家や細川(ほそかわ)家の人々と同列扱いにしか過ぎず、尊氏から重んじられているとは、到底言い難いものがあった。
しかしながら、人生の運・不運というものは、本当に分からないものである。政治の中心・京都を離れ、中国地方に赴任する事により、かえって、直冬の人生には、陽光が差し込み始めたのである。
「あの人は、他ならぬ足利直義様の計らいにより、中国地方統括局長(注2)に任命されてやってきた人なのだ」ともなれば、現地の人々の受け止め方は、格別のものがある。いつしか、皆が彼に帰服するようになり、多くの人々が、「佐殿(すけどの:注3)を盛り立てるパーティ(党:party)」に参入するようになってきた。
-----
(訳者注2)原文では「西国の探題」。
(訳者注3)「右兵衛佐」の地位にあったので、直冬に対してこのような愛称を設定してみた。
-----
直冬はやがて、備後(びんご:広島県東部)の鞆(とも:福山市)に居を定め、中国地方の政治全般を統括するようになっていった。彼の善政の下、忠功ある者は望まずとも恩賞を賜り、罪ある者は罰せざるともその地を去っていった。
さぁこうなると、長年にわたり自らの非を隠し、上を犯したてまつってきた、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の悪行が、ますますクローズアップされてきてしまうのである。
善が輝きを増せば増すほど、悪もその鮮烈さを増していく。
-----
太平記 現代語訳 インデックス 13 へ
