京の白川の底から、お地蔵さん、でてきはったえ!
2024.7.28 presented in [note] ( //note.com/runningWater/]
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1 要約
ここでは、以下のような私の仮説を、述べている。
(1) 京都市内・[祇園]エリアの[白川]ぞいにある[なすあり地蔵](付近の川底から発掘された、という)は、その場所より上流のどこかに、建てられた石像であろう。
(2) その地蔵菩薩像は、[白川]の水害によって亡くなった方々を慰霊する目的で、その場所に建てられたのであろう。
(3) 地蔵菩薩像・建立の後、[白川]の流域に大量の降雨があった際に、[白川]は激流となり、その地蔵菩薩像は、流れの中に水没し、その激流によって、現在ある場所([なすあり橋]付近)にまで、移動してきたのであろう。
かつて、私は、京都市内の白川流域に、徒歩や自転車で行ける場所に住んでいたので、白川に関する様々な事について調べることができる状態にあったから、上記仮説を検証するための様々な調査を、手軽に行えた。しかし、その後、京都市を離れたので、そのような調査を続行することが、となった。
これを読まれた方々の中に、白川について関心を持たれる方がおられるならば、よろしければ、この仮説について、更に調べていただけるならば、幸いである。
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2 [なすあり地蔵]
京都市の[祇園]エリアの[白川]べりは、国内や海外からの多くの人々で、にぎわう場所である。特に、春のサクラ開花シーズンには、[巽橋](たつみばし)、[大和橋](やまとばし)のあたりには、おおぜいの方々がこられる。
そこから少し、白川の流れを遡って行った所に、[有済橋](なすありばし)という橋がある。下記写真にあるように、この上を歩きながら川の上に開いたサクラの花を見れる、という橋である。

この橋の近くに、[なすあり地蔵]という地蔵菩薩・像がまつられている。
1954年に、この付近で水道管敷設工事が行われた際に、この白川の川底から地蔵が発掘された、それが、この、[なすあり地蔵]なのだそうだ。
いったいなぜ、この、お地蔵様は、川の底におられたのだろうか?
地蔵の像を作った直後に、誰かがそれを川の底に埋めて、他の人々には見えなくしてしまう、というような事は、極めて想像しにくい。だから、この地蔵を白川のこの場所の川底に埋めたのは、人間以外のなにものかであろう。
いったい、どこのなにものが、どのようなわけで、この[なすあり地蔵]を、この場所、[有済橋]の近くに埋めたのだろう?
私は、以下のような仮説を考えてみた。
[どこのなにもの] = 白川
[どのようなわけで] = 大量の流水によって運び
すなわち、
(1) 過去のいつかの時 ([時T1]とこれを呼ぶ) に、白川ぞいのどこかの場所 ([場所P1]とこれを呼ぶ) に、一つの地蔵菩薩・石像([石像S]とこれを呼ぶ)が建立された。その建立の目的は、白川の水害によって亡くなった人々への慰霊のためであった。
(2) [石像S]が建立された後の、過去のいつかの時 ([時T2]とこれを呼ぶ) に、大量の降雨が発生し、その結果、大量の流水が白川を流れた。
(3) その流水は、
[石像S]を、
[場所P1]から、
[有済橋]の近くのある場所([場所P2])へ
移動させた。
それと時を同じくして、[石像S]の上に土砂が堆積したので、
[石像S]を、
人間の目が見ることは、
不可能、
と、いうことに、なってしまった。
(4) 1954年に行われた水道工事によって、
[石像S]の上に堆積していた土砂
が
除去され、
[石像S]は再び、
人間の目が見ることができる状態になった。
地域の人々は、この石像を、[なすあり地蔵]と名付け、[場所P2]において、まつることにした。
上記を説明するために、ここから以降、以下の順で述べていくことにする。
白川の流路を見ていくと、奇妙な場所が目につく
過去にあった白川の水害
石像は、どこから?
慰霊と地蔵
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3 白川の流路を見ていくと、奇妙な場所が目につく
この章では、下記のコンテンツをもとに、説明する。
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[コンテンツ 3-1] [京都大学埋蔵文化財調査報告 第2章 北白川追分町遺跡の堆積環境の変遷 石田 志朗, 竹村 恵二]
[北白川追分町遺跡の堆積環境の変遷]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 3-2] [祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疎水の役割に関する史的研究 田中 尚人, 川崎 雅史 土木学会論文集 No.681/IV-52 2001年7月,77-86]
[祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疎水の役割に関する史的研究]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 3-3] [近代京都オーバーレイマップ]
これは、[立命館大学 アートリサーチセンター]のサイトの中にある。 [立命館大学 アートリサーチセンター 近代京都オーバーレイマップ]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 3-4] [花洛名勝図会 元治元年 平塚瓢齋 著]
[国際日本文化研究センター]のサイトの中に、[花洛名勝図会]の画像が掲載されている。
[国際日本文化研究センター 花洛名勝図会]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることがアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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まず、現在の白川の流路はどのようになっているのか、を見てみよう。
[地理院地図]で、[京都市 左京区 北白川仕伏町]と入力して検索すると、[北白川仕伏町]付近の場所が表示されるだろう。白川は、その付近を流れている。
そのあたりが、比叡山と京都盆地との境目にあたる場所であり、地形的に見ると、扇状地になっている。
[コンテンツ 3-1] 中には、以下のようにある。
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1 白川扇状地の形成
「白川扇状地は 北白川仕伏町の市バス終点付近を扇頂 とし,北白川,田中,吉田,岡崎, 聖護院一帯にひろがる ( 図 112) 。 」
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[京都市 左京区 北白川仕伏町]の付近から、[地理院地図]、あるいは、ネット地図を使用して、白川の流路を下流方向にたどっていくと、下記にあるように、流路が奇妙な変わり方をしている場所が数か所、目につくだろう。
第1ポイント 北白川仕伏町
その上流からの流れに自然に従ったならば、白川は、そこから西方向へ流れていくものと思われるのだが、なぜか、ここで、南西方向に流路が変わっている。川の水が流れていく先は、鹿ケ谷、これは、東山と吉田山との間にある谷である。
第2ポイント 京都市動物園
鹿ケ谷を経由して、岡崎エリアに到達した後、京都市動物園の付近で、白川の流路は、西方向へと激変する、そこから先は、西方へまっすぐ。明らかに、人工の流路である。
第3ポイント 京都国立近代美術館
白川の流路は、この付近でいきなり、真南へと変わる。
第4ポイント 京都華頂大学
白川の流路は、この付近でいきなり、南西から西へと変わる。
第5ポイント 西之町
白川の流路は、この付近でいきなり、西から南へと変わる。
[なすあり地蔵]があるのは、このあたりである。
第6ポイント 元吉町
白川の流路は、この付近でいきなり、南から西南西へと変わる。
このあたりが、観光名所の[巽橋]がある場所だ。ネット地図で[京都市 東山区 元吉町]で表示してみたら、それを確認できるかもしれない。
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上記のうち、
第4ポイント 京都華頂大学
第5ポイント 西之町
第6ポイント 元吉町
での、流路のいきなりの変化に関して、[コンテンツ 3-2]においては、
17世紀後半以降の、白川沿いの地域の開発において、このように流路が設定されたであろう
と、している。
[コンテンツ 3-2] 79P には、以下のようにある。
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「この都市内水路網と不自然に屈曲した白川のネットワーク化により、生活や防災に必要不可欠な水を通常の河川下流部より長く滞留させることが可能になったと考えられる。」
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第2ポイント 京都市動物園
第3ポイント 京都国立近代美術館
この場所での流路の変化の原因は、明治時代の[琵琶湖疎水]の開削によるものであり、[コンテンツ 3-2] 80P ~ 81P の
3. 近代の都市形成と琵琶湖疎水の役割
(1)琵琶湖疎水建設と白川の治水
b) 白川の流路変更
に詳しく述べられている。
[コンテンツ 3-3] の中の
[明治25年(仮製図)[1892]]
を選択すると、琵琶湖疎水が建設されるよりも前の段階での、白川の流路を見ることができる。
(このコンテンツは、スライダーを調整することにより、現代の地図と古地図とを重ね合わせてみることができる、とても優れたものであると、思う。)
上記の地図によれば、当時の白川は、[無鄰菴]の北側から西南西方向に流れていたようである。
なお、この時代の白川の流路の痕跡かもしれないような、細い水路が現在も存在することが、現代の地図との重ね合わせにより分かる。[無鄰菴]付近から瓢亭の前を通る道を歩いていくと、その痕跡らしきものを見ることができるだろう。
なお、この地図でみると、この時代、岡崎エリアは、田園地帯であったようだ。平安神宮は未だ存在していない。
[京都市 上下水道局 琵琶湖疏水のご紹介] には、
琵琶湖疎水の着工は、明治18(1885)年
完成は、明治23(1890)年
とあるのだが、上記の[明治25年(仮製図)[1892]]には、なぜか、琵琶湖疎水が書き込まれていない。
[コンテンツ 3-4] 図絵 中の、[東山之部 二]の中に、江戸時代末期の段階での、[南禅寺]の付近の様子が描かれている絵がある。
(年号[元治]を西暦に変換すると、1864年~1865年。[大政奉還]があったのは、1867年。)
以上で、「流路が奇妙な変わり方をしている場所」6か所のうち、5か所までの説明を終えた。残る1か所、すなわち、[第1ポイント 北白川仕伏町]については、次章で述べる。
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4 過去にあった白川の水害
この章では、下記のコンテンツをもとに、説明する。
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[コンテンツ 4-1] [京都白川の弥生時代前期末の土石流 冨井 眞 京都大学構内遺跡調査研究年報 The Annual Report of the Center for Archaeological Operations (2005), 2000: 225-262]
[京都白川の弥生時代前期末の土石流]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 4-2] [祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疎水の役割に関する史的研究 田中 尚人, 川崎 雅史 土木学会論文集 No.681/IV-52 2001年7月,77-86]
[祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疎水の役割に関する史的研究]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 4-3] [明治以前日本水害史年表 高木 勇夫 慶應義塾大学学術情報リポジトリ]
[明治以前日本水害史年表 慶應義塾大学]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 4-4] [立命館地理学 第25号(2013)47-65 白河法皇の怒りと歎き―歴史地理学から「天下三不如意」の深層に迫る 片平 博文]
[白河法皇の怒りと歎き 立命館地理学]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 4-5] [京都歴史災害年表 赤石 直美, 塚本 章宏, 麻生 将, 荒木 まみ, 飯田 将悟, 大塚 夏子, 小畑 貴博, 北 利史, 柴山 礼子, 福島 康之, 藤野 真挙, 森田 美晴, 片平 博文, 吉越 昭久 京都歴史災害研究第6号]
これは、[立命館大学 歴史都市防災研究所]のサイトの中にある。 [立命館大学 歴史都市防災研究所 京都歴史災害年表]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[コンテンツ 4-1]によれば、
京都大学の吉田キャンパスには、先史時代に堆積した黄褐色の厚い砂層がある。それは、白川の流域(京都大学よりも上流の方の)から、土石流によって運ばれてきた、と考えられている。
その砂層のすぐ下に、 弥生時代前期末の水田が見つかった。
のだそうだ。
これが、白川の流域で起こった、現在、我々が知りうる限りでの最古の水害・土砂災害の痕跡、といえるのだろう。
(もしかしたら、これは、日本列島中の、日本史上最古の水害・土砂災害の痕跡なのかも)。
この「白川土石流」によって、白川の流路が、[第1ポイント・北白川仕伏町] において、西から南へ変わった、という事も考えうるであろう。
一方、我々が生きている今の時代に最も近い過去に起こった、白川の流域での水害・土砂災害はというと、1935年の[鴨川大洪水]、ということになるようだ。
この時には、鴨川流域だけではなく、白川流域にも、水害被害があったという。
[コンテンツ 4-2] 83p の
現代に至る白川・琵琶湖疎水の役割
(1) 鴨川大洪水概要
b)鴨川運河・白川流域の被害
図-15
によれば、前記 3章に設定した、白川の流路上の6個の地点のうち、
第4ポイント・京都華頂大学
第5ポイント・西之町
第6ポイント・元吉町
の付近では、流域の被害なし
第1ポイント・北白川仕伏町 と 第2ポイント・京都市動物園 の間においては、「被害多数」とある。
弥生時代に土石流が起こって以降、1935年の鴨川大水害に至るまでの間、白川流域においては、多くの水害被害があったようである。
[コンテンツ 4-2] 77P - 86P には、それまでは、白川の支流であった「小川」が本流になる、というような事があったと記されている。
[コンテンツ 4-3] 中の、1807 ( 文化4 ) の項には、
「京都白川筋悲田院辺より切込ミ二条ニては白川加茂川ひとつニ成」
とある。
(河原町御池下がる 河原町通りの西面の一角に、この地が悲田院跡であることを記す説明が設置されている。)
[コンテンツ 4-4] 中の(49P)、[第1表 おおよその浸水地域が把握できる洪水(10 ~ 14 世紀)]には、
「延長七 七月二十六日左京と左岸の白河辺」
とある。
[コンテンツ 4-5] にも、白川流域での水害を示す記述が以下のようにある。
929年 「白河ノ人民多以溺死」
1578年 「浄土寺之者於山中路流死、白川在家廿間計流損」
1583年 「悉皆自白川其沙汰了」
1615年 「白川ノ水見物、京宿坊ノ門前道人渡カネタル時也」
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5 石像は、どこから?
上記に見たように、弥生時代以降、[白川]の流域においては、水害が多く起こっていた。よって、白川沿岸の[場所P1]に建立された[石像S]が、水害時の激流によって、[場所P2]にまで流された、という事は、十分、考えうるのである。
以下に、私の仮説を述べる。
(1) 過去のいつかの時 ([時T1]とこれを呼ぶ) に、
[白川]ぞいの、どこかの場所 ([場所P1]とこれを呼ぶ) に、
一つの[地蔵菩薩]・石像([石像S]とこれを呼ぶ)
が、建立された。
その建立の目的は、
[白川]の水害によって亡くなった人々への慰霊
のためであった。
(2) その石像が建立された後の、
過去のいつかの時 ([時T2]とこれを呼ぶ) に、
大量の降雨が発生し、
その結果、
大量の流水が、[白川]を流れた。
(3) その流水は、
[石像S]を、
[場所P1]
から
[有済橋]の近くのある場所([場所P2])
へ移動させた。
それと時を同じくして、
[石像S]の上に
土砂が堆積した
ので、
[石像S]を、
人間の目が見ることは
不可能になってしまった。
(4)1954年に行われた水道工事によって、[石像S]の上に堆積していた土砂が除去され、[石像S]が再び、人間の目が見ることができる状態になった。
地域の人々は、この石像を、[なすあり地蔵]と名付け、[場所P2]でまつることにした。
では、[石像S]がもとあった場所、すなわち、[場所P1]は、どこなのか?
川の流れと逆方向に移動する、ということは、極めて考えにくい。
膨大な水が[鴨川]を流れることにより、[鴨川]と[白川]の合流地点から水流が逆流して、[白川]を遡り、という事も、想定できないでもないのだが、そのような事態は、極めて想定しがたい。
ということで、[場所P1]は、[場所P2](現在ある場所、[有済橋]の近く)よりも上流のどこか、であろうと、私は考える。
[場所P1]が、[有済橋]の近くであった
とは、考えにくい。
もしも、橋の近くにあったのであれば、
「えらいこっちゃ! あのお地蔵さん、どっかへ行ってしまわはった!」
ということで、人々は、すぐに捜索を開始し、地蔵を探し当てたであろうから。
[石像S]の重量と、その時の[白川]の水量、流れるスピード等を推定して計算してみたら、上流のどこのあたりからやってきたのか、ということを割り出すことも、可能なのかもしれないが、これを行うには、その方面の知識と経験を豊富に有する人が、高速コンピューターを駆使してでないと、できないだろう。
[石像S]が元あった場所は、[白川]の川辺なのか、それとも、相当、川岸から離れた所だったのか? それも、問題になるのだが、そこまでは、割り出しようがないと思われる。
ただし、この調査の手掛かりとなるかもしれない石像群が、[白川]流域に2か所、あることが分かったので、以下にこれを述べておこう。
[琵琶湖疎水記念館]の南方
[琵琶湖疎水記念館]の南の方、[琵琶湖疎水]の上にかかる橋の付近に、石像群がある。そこにお参りしておられる方に、その石像について聞いてみたら、「琵琶湖疎水の掘削工事の際に、地中からでてきたらしいのだが、詳しいことは知らないので、琵琶湖疎水記念館事務所に聞いてみたら」と、教えてくださった。そのうち、事務所に行って聞いてみようと、思っているうちに、京都から離れることになってしまい、未だに、残念ながら聞けていない。
(桜の開花シーズンに、この橋から眺めるインクラインは、絶景である。)
[京都天王町郵便局]の北西
ここにも、石像群があるが、由来等については、調べれていない。現在の[白川]の河道から少し隔たった場所にあるが、もしかしたら、この場所の近くに河道があった時期も、あるのかもしれない。
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6 慰霊と地蔵
この章では、下記のコンテンツをもとに、説明する。
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[コンテンツ 6-1] [吉野川の語り部地蔵 高地蔵探訪 ガイドブック]
これは、[国土交通省 四国地方整備局 徳島河川国道事務所]のサイトの中にある。 [吉野川の語り部地蔵 高地蔵探訪 INDEX 徳島河川国道事務所]等のキーワードを使用してネット検索することにより、上記のコンテンツにアクセスすることが、可能であるかもしれない。
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[石像S]、すなわち、[なすあり地蔵]が建てられた、その目的は、何だったのだろう?
もしも、[なすあり地蔵]が元あった場所が、[白川]の川べりであったとするならば、地蔵を建立した目的をうかがい知ることが、できると思う。
徳島県の[吉野川]の流域には、[高地蔵]と呼ばれる地蔵像が、多数存在するという。
[コンテンツ 6-1]によれば、それらの[高地蔵]のうちの、下記の地蔵は、その建立の目的が、水死した人々への慰霊であるという。
高川原の地蔵、乙瀬中田の地蔵、川島の浜の地蔵、東覚円の南の地蔵
[吉野川]では、洪水被害が多くあったという、なので、ここでの「水死」とは、洪水、あるいは、降雨による土砂災害による死、と考えてよいだろう。
上記とは別の形の水死の犠牲者に対する供養の為に、地蔵を建立した、という事例は、[地蔵 水難]のキーワードでネット検索してみたら、様々に見つかった。下記にその例をあげる。
地蔵庵 宮崎県 宮崎市 青島
青部村川地蔵(延命地蔵尊) 静岡県 榛原郡 川根本町
浜のお地蔵さん 愛媛県 今治市 喜田村
上記の3例の全てに、地蔵を建立した理由だけではなく、地蔵を建立したその後、どうなったか、ということが述べられている。いわく、「その後、水難事故が起こらなくなった」と。
[地蔵菩薩]がもたらす利益(りやく)には、二十八種があり、その中に、
離水火災(水難や火災を免れる)
というのが、あるのだそうだ。
水難者に関係のある場所に地蔵を建立する目的は、下記の2つがあるのだろう。
(1)水難者への供養のため
(2)近隣の人々の水難防止のため
水難者への供養のために、いったいなぜ、地蔵像を建立するのだろう? 薬師如来や観音菩薩の像ではなく。
それは、[地蔵菩薩(Kṣitigarbha)]が、[六道界](地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の全てにおもむいて、死後、そこに行ってしまった人々を救出する、との信仰があるからだろう。
水死した後に、[六道]ではない世界、(菩薩界、仏界等)に行けた人は、幸せ、でも、そうでない人々は、何とかしてあげなければ、その為に、
「お地蔵様の像を建て、お地蔵様に[六道]へ行っていただき、それらの人々を救い上げていただこう、同時に、我々からの供養を、お地蔵様に託し、それらの人々のもとへ届けていただこう」
という心であろう。
仏教界には、[七分獲一] という言葉がある。
A(生きている人)から
B(亡くなった人)へ、
供養を施したならば、
Bは、
その供養のうちの1/7だけを受け取り、
残りの6/7は、
Aに、リターンされてくるのだ
と、いう。
上記の場合においては、
A 建立された地蔵の付近に住み、その地蔵に祈り・供養(Bへの)をささげる人々
B 水死した人々
という構図となる。
AからBへささげられた祈りと供養のうちの6/7が、Aにリターンされてくる。その結果、Aは水難の危険から救われる。
と、いう構図なのであろう。
もしかしたら、[なすあり地蔵]も、上記と同様に、[白川]の水害で亡くなった人々への祈りと供養をたむけるために、[白川]の川辺に建立されたので、あったのかもしれない。
それが、[白川]の洪水によって流され、[なすあり橋]のあたりまでやってきたのではないだろうか。
そして、水道工事によってふたたび、この世に現れ、[なすあり橋]周辺の人々が祈りささげる存在と、なったのではないだろうか。
[なすあり地蔵]と、[なすあり橋]付近の住民の方々は、このような不可思議な因縁の糸によって、結ばれているのであろう。
