食卓は、誰かのそばにある
朝の五時に家を出た。外はまだ暗く、空気が冷たかった。
その日、私はいくつかの場所で食品を受け取り、届けた。子ども家庭センターで「こんなにたくさん、ありがとうございます」と言ってもらった。その言葉を胸に吉備中央町へ戻り、カフェの厨房に立った。コンロに火を入れて、食材と向き合って、皿に盛る。ランチが終わるとまた岡山へ走り、気づけば夜の十九時、総社市にいた。
その一日の中で、ずっと考えていたことがある。
食品を受け取るたびに、私はその先を想像する。
この食材が、誰かの冷蔵庫に入る。夕方、その人が扉を開ける。そして手を伸ばす。
口に何かを入れることだけで精一杯な人もいる。それでいいと思う。食べることは、まず命だから。命を続けることは、それだけで十分すごいことだから。
でも、もしほんの少し余裕があるなら。
白いご飯に納豆をかける。インスタントの味噌汁に、白菜を一枚だけちぎって入れる。ネギを刻んで浮かべる。その小さな一手間が、食事を食卓に変えることがある。
食事と食卓は、似ているけれど違う。食事は体のためにあって、食卓は心のためにある、と私は思っている。一人でも、誰かと一緒でも、自分の手で少し整えて食べるとき、人はちゃんと自分のそばにいられる気がする。
だから私は冷蔵の食品を届けたい。手を動かせる素材を渡したい。その一手間を、その人に返したい。食事が必要な人に、食事を。できる人には、食卓を。その両方を、大切にしたい。
これは二十年以上、料理人として食と向き合ってきた私の、たぶん一番正直な気持ちだ。
この活動は、小さい。
ただ毎日食品を受け取って、届けて、料理して、また走る。それだけだ。でもその小ささが、私はあまり気にならない。小さいものが集まって、やがて大きなものになることを、なんとなく信じているから。
小さな歯車が回る。またどこかで歯車が回る。その連なりがいつかこの国を、少しだけ違う場所へ連れていく。そう思っている。根拠はないけれど、でも確かにそう思っている。
食を作ることと、食を届けること。私の中では、ずっと同じことだ。切り離せない。切り離す必要もない。
二〇二六年。その歯車が、静かに連なり始めていると実感している。
