『メンダードック』#2
「マスター、ウイスキーロックで。」
オレンジ色の照明に照らされた薄暗い店内。
カウンター席が6つと、
テーブル席が2つある小さなバー。
優雅なクラシックと、
大人な雰囲気が流れる。
ちょび髭を生やしたナッパのマスター。
とても静かで、物腰も柔らかな人だ。
後ろ首からチラッと見えるタトゥーが、
マスターの過去を少しだけ見せてくれているような気がした。
そんなここは、俺の行きつけの隠れ家だ。
仕事の疲れを癒してくれる唯一の場所。
「お待たせしました。ウイスキーロックです。そしてこちら、新作のおつまみです。試作品ですので、お代は結構です。よろしかったらぜひ。」
グラスの隣に、
クラッカーにチーズと生ハムを挟み、
オリーブオイルと黒胡椒をかけた新作のおつまみが並べられた。
「いいんですか?ありがとうございます。とても美味しそうですね。」
さっそく一口つまんだ。
サクッという音と、
グラスの中の氷が溶け、
カランと崩れる音が響く。
至福のひとときだ。
グラスに手を伸ばしたとき、カウンターに置かれた小さな小瓶のネックレスが目に入った。
なんだこれ?
誰かの忘れ物かな?
ネックレスの紐を持ち、
小瓶をユラユラと顔の前で揺らし眺めた。
小瓶の中の赤い液体が小さく波打つ。
綺麗だな。
カランコロン
お店の扉が開き、
ドアに飾られた小さな鐘が店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。おや、あなたは先程の。」
現れたのは高身長の若い男だった。
真っ黒なコートに身を包み、
黒い手袋に、黒いブーツを履いていた。
「すみませんマスター。ネックレスを忘れてしまいまして。」
「...あ、もしかして、これですか?」
俺は席から立ち上がり、
男にネックレスを差し出した。
「ええ、これです。見つかってよかった。ありがとうございます。」
「いえいえ。カウンターに置いてありました。とても綺麗なネックレスですね。」
「ふふ。そうでしょう?とても大切なものなのです。」
不気味に笑う男。
なんだか、少し気味が悪いな。
全身黒いし、
背が高いせいか、少し圧を感じた。
「本当にありがとうございました。それでは。」
男はネックレスを首にかけ、
店を後にした。
「...あの人、よく来られるんですか?」
「いいえ。今日が初めてです。」
マスターはグラスを拭きながら答えた。
不気味なやつだったな。
できればここにはもう来ないでもらいたい。
俺の行きつけに変なやつがいると気分が悪い。
「マスター、お会計を。」
「かしこまりました。」
夜の23時頃。
高層マンションの20階。
俺の家だ。
仕事は広告代理店。
稼ぎも同じ年代のやつよりはだいぶある方だ。
ガチャ
ドアを開けた。
「チッ」
まだ電気がついてる。
起きてるのかよ。早く寝ろよ。
鍵を閉め、リビングに向かった。
ドアを開けると、
パジャマ姿の妻がソファーに座っていた。
「おかえりなさい。随分遅かったわね。」
「いつものバーに寄るってちゃんと連絡しただろ。俺明日も早いんだから、お前も早く寝ろよ。ちゃんと朝飯作ってもらわないと困るんだよ。」
「なにそれ。まるで私がいつも寝坊してるみたいな言い方じゃない。それにご飯作ったってあなたいつもギリギリに起きて食べないくせに。」
「おいおい、逆ギレしてくんなよ。こんな良い生活ができてるのは誰のおかげだと思ってんだ?少し帰りが遅くなったくらいで怒れるような立場にお前はいるのか?わかったらさっさと寝ろ。お前を見てるとイライラする。」
俺がそう言うと
妻は黙って寝室へ向かった。
ここ1年、あまり妻とうまくいっていない。
もうちゃんと愛しているかどうかもわからなくなってきている。
1年前から俺は会社の若い女性を口説いたり取引先の人達と一緒に行くキャバクラなんかで豪遊している。
そんなことをしても、
妻に対してなんの罪悪感も生まれない。
もうきっと終わりなんだろう。
翌日。
仕事終わり。
いつものバーでウイスキーを飲み、
仕事の疲れを癒す。
カランコロン
鐘が店内に鳴り響く。
「いらっしゃいませ。お好きなカウンター席へどうぞ。」
マスターがそう言うと、
入ってきた客は俺の隣の席に腰を下ろした。
なんだよ。
席なんて他にいっぱいあるのに、
なんでわざわざ俺の隣なんだ。
少しイラッとして、
隣を見ないように顔を逸らした。
「お一人ですか?」
隣から女性の声が聞こえた。
顔を向けると、
俺は目を見開いた。
長い綺麗な黒髪に、
左目の下には色っぽい泣きボクロが。
透けてしまいそうなくらい白い肌。
整った顔立ちに、
俺は目を逸らせないでいた。
「え、ええ。一人です。」
「私もなんです。日々の疲れを癒したくて。あなたも?」
「はい。俺もそれでよく来るんです。1人になりたいときとか、心を落ち着かせたいときに。」
「あら、そうなんですね。もしよかったらあなたのお話もっと聞かせてほしいので、場所変えませんか?近くにとってもいいホテルがあるの。」
「ホ、ホテルですか。」
「あら、もしかしてあなた既婚者さん?よく見たら薬指に指輪が。私ったらごめんなさい。気づかなくて。」
「ああ、いいんです。最近妻とはうまくいっていなくて。もう愛していないんだと思います。俺も、きっとあいつも。だから構いませんよ。俺もあなたのお話、ぜひお聞きしたいので。行きましょうか。」
俺は指輪を外し、ポケットの中に入れた。
女性の腰に手を回し、
バーを後にした。
翌日。
朝の9時30分。
ホテルのベッドの上。
カーテンの隙間から太陽の光が射し込む。
隣には、昨日の女性の姿があった。
昨日の夜はとても良い時間を過ごせた。
こんな綺麗な女性と寝れて、俺は幸せ者だな。
「...あら、おはようございます。」
寝顔を眺めていると、
彼女が目を覚ました。
「おはよう。よく寝れたかい?」
「ええ。とても。昨日は本当に楽しかったわ。」
「俺もだよ。あと一時間後にはチェックアウトだから、そろそろ支度をしようか。」
「...ねえ、今日お仕事は?」
「いや、今日は休みだよ。」
「そしたら今日も私と一緒に過ごしてくれないかしら?私も今日はちょうどオフなの。」
「いや、でも...」
さすがにこのまま家に帰らないのはまずいか?
でも昨日の夜から妻からの連絡は一つもない。
いつもなら帰りが遅いと必ずメールが来てるはずなのに。
きっと妻も呆れて何も言わなくなったのかもしれないな。
それはそれで俺にとっては好都合だ。
「いいよ。一緒にデートしようか。」
「やった!すぐに支度するわね。」
彼女は嬉しそうにベッドから起き上がり、
洗面所の方へ向かった。
かわいいな。
初めて会ったはずなのに、
妙な居心地の良さを感じる。
今日もまた素敵な日になりそうだ。
俺と彼女は、
彼女が提案してくれた
横浜の遊園地にやってきた。
「何乗りたい?」
「私ジェットコースター大好きなの!あのピンクのやつに乗りたいわ!」
彼女は目をキラキラさせ
ピンク色の大きいジェットコースターを指さした。
「生憎俺はジェットコースターが苦手でね。ここで見ててあげるから乗ってきていいよ。」
「あらそうなの?そしたらお言葉に甘えて乗ってくるわね!」
「あ、ちょっとまって。そういえば名前、まだ聞いてなかったよな?」
「確かにそうだったわね。私は美穂子。あなたは?」
「俺は幸人。美穂子、行っておいで。」
美穂子は笑顔で手を振り、
ジェットコースターの方へ走って行った。
降りてくる前に飲み物でも買っておいてあげよう。
近くのコーヒースタンドへ向かう。
なんだか、変な感じがする。
同じ光景を見たことがある。
1人がジェットコースターへ乗り、
俺がコーヒースタンドで飲み物を2つ買う。
もしかしたら夢で同じ光景を見たのかもしれない。正夢ってやつか。よくあることだ。
俺はコーヒーを2つ手に持ち、
ジェットコースターの出口の方へ向かう。
ちょうどタイミングよく
ジェットコースターを乗り終えた美穂子がやってきた。
「楽しかった?」
「すごく楽しかったわ!...あら、そのコーヒー」
「ああ、喉乾いたかなと思って。近くにコーヒースタンドがあったから。もしかしてコーヒー飲めなかった?」
「ううん。飲めるわ。ありがとう。」
「次は2人で乗れる観覧車とかにしないか?ゆっくりコーヒーでも飲みながら景色を楽しもう。」
「...そうね。賛成!行きましょうか。」
俺は美穂子の手を取り、
観覧車の方へ向かった。
美穂子も俺の手をギュッと握り返してくれた。
楽しいな。
こんなちゃんとしたデートいつぶりだろう。
思い返せば最後のデートは妻とのだ。
ドライブをしに行ったが、
行きたいところがお互いに違いすぎて喧嘩になり、結果2時間足らずで家に帰ってきた。
最悪の時間だったな。
だけど今は楽しい。すごく。
もう妻のことなんてどうでもいい。
今は美穂子のことだけを考えよう。
時間は過ぎ、あっという間に夜になった。
美穂子と俺は買ったご飯と酒を持ち、
再び近くのホテルにやってきた。
部屋に入ると2人でベッドの上にゴロンと寝転がった。
俺は美穂子に軽く唇にキスをする。
「美穂子、昨日も今日も本当にありがとう。久しぶりに楽しい休日を過ごせたよ。」
「私もよ。本当にありがとう。さあ起きましょう。ご飯が冷めちゃうわ。」
「そうだな。腹も減ったし、さっそく食べよう。」
テーブルに買ったご飯とお酒を並べ、
2人で乾杯をした。
「...そろそろかしら。」
美穂子がボソッと呟いた。
「ん?何が?」
「ねえ幸人さん。私ちょっとしたサプライズを用意してるの。少しだけ目を瞑っててくれるかしら?」
「おー。なんだろう、楽しみだな。いいよ。目を瞑っておく。」
俺は言われた通りに目を瞑る。
何をしてくれるんだろう。
心臓がドキドキと高鳴る。
すると突然、
俺の腹にとんでもない痛みが走った。
「いっ...た」
思わず目を開けると、
俺の腹に包丁が一本、刃が見えなくなるまで奥まで深く刺さっていた。
え?
え?
腹から大量の血が流れる。
服と床がどす黒い赤に染まっていく。
鉄の匂いが漂う。
「み、美穂子、一体どういう...」
美穂子の方を見ると、
そこに美穂子の姿はなかった。
そこには、妻がいた。
妻が鋭い目つきで俺を睨んでいた。
え?
なんで?なんで?
なんで...
「なんでお前が...美穂子は?美穂子はどこに行った?なんでお前がここにいるんだ!!!」
取り乱す俺を見て、
妻は「あはは」と乾いた声で笑った。
「楠美さんの言った通りね。本当に催眠がとけた。あなた、行きつけのバーで背の高い男の人に会わなかった?その人が持っていた小瓶のネックレス。あなたがあれを見た時点で催眠は始まっていたのよ。」
楠美?
一体誰のことだ。
背の高い男には会った。
あの不気味な男。
あいつが楠美ってやつか?
一体何が起こっているんだ。
「催眠って...まさか、美穂子は、最初からずっとお前だったのか...?」
「そうよ。催眠であなたには別の女に見えていたんだろうけどその正体は私。あなたがいろんな女と遊んでたことなんてわかっていたけど、決定的な証拠がほしかったの。私の前で違う女の名前を何度も何度も...いつ殺してやろうかずっと考えてた。でも今しかないと思ったわ。あなたは最後まで思い出さなかったわね。」
「思い出す...?さっきからお前は何を言っているんだ...早く救急車を呼べ」
妻はテーブルを勢いよくひっくり返した。
置かれていたご飯と酒が勢いよく床に叩きつけられ、ぐちゃぐちゃになった。
「お前お前うるっっさいのよ!!私の名前は杏奈よ!この一年まともに私の名前を呼んでくれなかった!!今日のデートは私とあなたが付き合って初めてしたデートよ!あの日もあなたはジェットコースターに乗れなくて、近くのコーヒースタンドで飲み物を買って待ってくれてた。次はあれに乗ろうって観覧車を勧めた。今日あなたがやってくれたことがあの日とあまりにも同じで、思い出してくれたのかと思った。でもそうじゃなかった。あなたは例え相手がどんな女だろうと、まったく同じことをするのね。同じプラン、同じ口説き方、同じ触り方...反吐が出る。つまらない男。」
妻は俺の元へ近づくと、
腹に刺さった包丁を勢いよく抜いた。
「ぐあっ!!」
口から血が溢れ出す。
「や、やめろくそ...早く、救急車を...」
「そして今日は、結婚記念日よ。」
妻は俺の服のポケットから外した指輪を取り出し、
俺の腹の裂け目に勢いよく手を突っ込み指輪を入れようとした。
「うわぁぁぁぁぁああああ!!!!やめろやめろやめろやめろ!!!!!!」
こいつ!
イカれてるだろ!!!!
結婚記念日がなんだ!?
初デートがなんだってんだ!!
もう俺はお前のことをこれっぽっちも愛してなんかいない!
「くっ...そ...クソ女、めんどくせぇバカ女、お前が...死ね」
苦しむ俺を見て
妻は笑う。
「よかった。あなたを殺すことを選んで。」
妻は俺の腹から手を抜き包丁を取り、
俺の顔目掛けて勢いよく振り下ろした。
「さようなら。クソ男。」
グチャッ
包丁は俺の顔を貫いた。
数分後。
ホテルのドアが開き、
楠美が部屋に入ってきた。
床は血溜まりになっていて、
幸人は見るも無惨な姿になっていた。
腹は裂け、内臓が見えていた。
顔面には包丁が刺さり、
目と口を大きく開け、息絶えていた。
床に散らかったご飯に血が滲んでいた。
杏奈はベッドに腰を下ろし、
窓の外の夜景を眺めながら酒を飲んでいた。
「どうやら終わったようですね。お約束通り、僕は彼の血をもらい退散するとします。」
「...そんな男の血なんか集めて一体何をするの?」
「それはこの小瓶がいっぱいになったらわかることです。しかし驚きました。まさかあなたが前回僕が催眠をかけた方の元恋人だったとは。」
「私も驚いたわ。あの人があんな死に方するなんて。まあしてもいいくらいにはクソみたいな男だったけどね。幸人と同じくらいに...道路で死んだ彼をたまたま見ていた知り合いがいたのよ。その子が小瓶に血を入れるあなたの姿を見ていたの。それを聞いて、もしかしたらあなたは人の魂を吸い取る悪魔なんじゃないかって思った。必死で探したわ。でもただの催眠術師だった。とびきり腕の良いね。」
「ふふ。そう言っていただけて嬉しいです。では僕はこれで、失礼致します。」
楠美はペコッとお辞儀をし、
部屋を後にした。
静まり返る部屋。
鉄の匂いに包まれる。
「...ほんと、私って見る目ないわ。」
