中受とアノミー:斎藤幸平のクソツイートから考えたこと
昨日、X見てたんです。Twitter。
そしたらなんか斎藤幸平が「みなさんはどうしてリベラル左派が嫌いですか?教えてください🙇」とか言ってるの。
で、よく見たらなんかぶら下がりで「みんなのふわっとするイメージが聞きたかったのでー」とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前な、ふわっとしたイメージ如きで普段背負ってもいないリベラル左派の看板を急に持ち出してくるんじゃねーよ、ボケが。
ふわっと、だよ。ふわっと。
よーしパパ、資本主義キャンセルしちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、エンゲルス全集やるからそのタイムライン空けろと。
Twitterってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
リプ欄の向かいに座ったやつといつレスバが始まってもおかしくない、
ブロックするかされるか、通報するかされるか、そういう雰囲気がいいんじゃねーか。小ブルジョワは、すっこんでろ。
で、やっと流れが見えてきたかと思ったら、「私はリベラルではありません」って言うんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、リベラルじゃないなら最初からリベラル左派の代表ヅラすんなよ。ボケが。
得意げな顔して何が、「私はリベラルではありません」だ。
お前は本当にマルクスをやりたいのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。
お前、「マルクス主義」って言いたいだけちゃうんかと。
半可通の俺から言わせてもらえば、今、リベラル左派の間での最新流行はやっぱり、中受、これだね。
SAPIX中受タワマン。これがリベラル左派の生き方。
■ どうしてあいつらが嫌いですか
実際、斎藤幸平のツイートは、クソどうしようもないものだったと思う。
問題は、あれがバズったとか、リプ欄が地獄になったとか、そういうSNS一般論ではない。もっと単純で、もっと根本的な話だ。あの問いは、最初から問いとして壊れていた。
「みなさんはどうしてリベラル左派が嫌いですか?教えてください🙇」
みなさんはどうしてリベラル左派が嫌いですか?教えてください🙇
— 斎藤幸平 (@koheisaito0131) February 11, 2026
もしこれが、「どうして僕たちのことが嫌いなんですか」だったなら、まだ話は分かる。自己批判の入口として、あるいは自分もまた嫌われる側に属しているという自覚の表明として、ぎりぎり成立しえた。しかし、斎藤幸平はその後、「私はリベラルではありません」と言っている。
私はリベラルではありません。
— 斎藤幸平 (@koheisaito0131) February 14, 2026
ならば、あのツイートの構造は、要するにこういうことになる。「みなさんはどうしてあいつらが嫌いですか?」。それを、絵文字つきで聞く。クソどうしようもない、とはそういう意味である。
もちろん、本人にはそこまでの悪意はなかったのかもしれない。本人としては、自分もひとまとめに「左派」だの「リベラル」だのと雑に括られ、そこに投げつけられる嫌悪の言葉を観察したかった、ということなのだろう。だが、政治的な発話というのは、本人の真意ではなく、実際にどう機能するかで評価されるべきだ。そういう意味で言えば、あのツイートは、自己点検の呼びかけではなかった。リベラル左派という、輪郭の曖昧な誰かを「さあ、思う存分叩いてください」と前に突き出したに等しい。
こういう問いに対して返ってくるのは、議論ではない。異論も、違和感も、単なる悪口も、ルサンチマンも、全部いっしょくたになった感情の堆積物である。案の定、そこに集まったのは、分析というより放言だった。建設的な議論にならなかったのは偶然ではない。そうなるような問いを立てたのである。
だが、ここで「もっと丁寧に聞けばよかった」と言って済ませるのも違う。たとえば、「なぜ僕たちは支持されないのか」と聞き換えれば、少しはましだったかもしれない。しかし、それでもなお、本質は変わらない。
それは、理念や聞き方への拒否というより、それを語る人間への不信だからだ。平等だの多様性だの再分配だの、個別に見せれば賛成する人も少なくない。にもかかわらず、その言葉が一つの政治勢力としては支持されない。なぜか。簡単である。中身がどうこうの前に、「お前らの言うことは聞きたくない」と思われているからだ。
あのツイートのどうしようもなさは、まさにその点に無自覚だったところにある。自分はリベラルではないと言いながら、リベラル左派がなぜ嫌われるのかを、まるで外側から観察できる対象であるかのように扱う。その身振り自体が、すでに多くの人にとっては鼻持ちならないものに映るだろう。ここにあるのは、言い回しのミスというような些末な問題ではない。
■ 中受が象徴するもの
小学校というのは本来、地域の子どもが、たいした理由もなく一緒に過ごす場所である。気の合うやつも合わないやつもいる。勉強ができるやつもできないやつもいる。家が裕福なやつもそうでないやつもいる。だが、少なくとも同じ時間を生きている、という感覚はある。放課後に遊ぶ、土日に会う、親同士もなんとなく顔を知っている。そういう雑で、ゆるくて、しかし確かな共同体が、小学校にはある。
中受(中学受験)はそれを壊す。
「放課後遊ぼうぜ」
「ごめん、今日は塾があるから」
この会話は、たったそれだけのことのように見えて、じつは決定的である。ここで起きているのは、単なる予定の不一致ではない。同じ教室で、同じ給食を食べ、同じ校庭で遊んでいるはずの子どもたちが、すでに別の時間を生き始めている、という宣告である。片方はまだ小学生の時間の中にいる。もう片方は、その時点で将来のための競争に接続されている。生活のテンポが違う。親の期待が違う。将来像が違う。教室の中にいながら、もう共同体の外へ出る準備が始まっている。
しかも、受験勉強というのは、家庭の側から見ればきわめて合理的である。少しでも良い学校に入れたい。少しでも良い進路を歩ませたい。そのために早めに投資する。何ひとつ不思議ではない。むしろ親としては自然な判断だろう。だが、共同体の側から見れば、それはまったく別の姿を取る。先に自分の子だけを安全圏へ逃がそうとする行動に見えるのである。もちろん、小学生に罪はない。だが階層というのは、本人の意図ではなく、周囲からどう見えるかによって感情を生む。受験する側にとっては努力でも、受験しない側から見れば「抜け駆けするための準備」に見えてしまう。その感情は、正しいかどうかとは別に、強く残る。
だから中受は、ある種の「裏切りの原風景」になる。昨日まで同じ場所にいたはずの者が、ある日から別のレールに乗る。そのレールは、やがて進学校、難関大学、大企業、専門職、都市生活、情報環境の差へとつながっていく。そして何年か後、そのレールに乗った者が、社会正義だの多様性だの平等だのを語り始める。すると、聞く側に最初に立ち上がるのは、内容への賛否ではない。「お前が言うのか」である。どれほど正しいことを言っていても、その正しさを運ぶ回路そのものが、もう壊れている。
そして厄介なのは、この断絶が露骨な悪意ではなく、善意によって進むことだ。「子どものため」「将来のため」「より良い教育のため」。全部その通りである。だから誰も、自分が共同体を壊しているとは思わない。だが、壊される側にとっては、理由が善意であろうとなかろうと関係がない。残るのは、「あいつらは裏切った」という感覚だけである。
もっとも、中受は、分かりやすい一例に過ぎない。田舎には田舎の分断がある。中受がなくても、塾には通い、高校進学、大学進学、上京、就職。そして、Uターンしない(帰ってこない)という流れの中で、同じ断絶は起きる。地元に残る者と、外に出る者。家業を継ぐ者と、都会でホワイトカラーになる者。そこでまた、言葉も感覚もずれていく。だから問題の本質は、共同体からの離脱に他ならない。中受そのものは象徴でしかない。
ただ、その象徴として中受ほどわかりやすいものはない。小学校という、もっとも雑に平等であるはずの場で、子どもたちが早々に別の世界線へ乗り換えていく。そこで生まれた裂け目は、理論上はあとから埋め合わせが可能でも、現実にはほとんど修復されない。
中受が象徴しているのは、教育熱心な親の過剰でも、受験産業の拡大でもない。もっと根本的な、同じ共同体に属していたはずの者どうしが、もう互いの言葉を素直に信じられなくなる、その始まりである。
■ アノミー
共同体が壊れると、人は国家へ帰る。
これはべつに、大げさな比喩ではない。家族、地元、同級生――そういう中間的なつながりの中で人はふつう、自分が誰なのかを知り、誰の言葉なら信じてよいかを学ぶ。意見が違っても、「あいつが言うなら、まあ聞いてみるか」と思える回路がそこにはある。
「最近話題の○○党ってどう?」
「あれはヤバいから止めた方が良いね」
「そうか。お前が言うなら止めとくよ」
人は理念を、理念そのものとして受け取るわけではない。たいていは、信頼できる誰かが言うからそれを受け入れるのである。
ところが、その回路が壊れる。地元は過疎化し、学校のつながりは受験や進学で切れ、職場は流動化し、近所づきあいは消える。昔ながらの共同体には息苦しさも抑圧もあったが、異なる種類の人間が最低限つながっているという機能はあった。その機能が失われると、人はむき出しの個人として社会に放り出される。デュルケームの言うアノミーとは、まさにそういう状態だろう。何を信じていいのか分からない。誰の言葉が自分の側から発せられているのかも分からない。
そうなると、最後に残る「われわれ」は国家だけなのだ。
家族は壊れる。地元は消える。会社は守ってくれない。友達は散り散りになる。だが国家は、少なくとも観念の上では、まだ自分を包んでくれる。「日本人」「国民」「この国」という言葉は、バラバラになった個人に、大きな帰属を与えてくれる。アノミーの時代に国家が強く求められるのは、そのためである。
すると政治もまた、帰属の確認になる。誰が敵で、誰が味方か。
税率が何%か、再分配をどう設計するか、エネルギー政策をどうするかといった話は、もちろん重要ではある。だが、アノミーの下では、その前にもっと原始的な問いが立つ。「この人は、私たちの味方か」。リベラル左派が嫌われるのは、しばしばこの問いの時点で脱落するからだ。
庶民はかなり敏感に、誰が自分たちを見下しているか、誰が自分たちの世界を知らないかを嗅ぎ取っている。だからこそ、「インテリがいちばん嫌がりそうなもの」が強い政治的魅力を帯びる。政策が精緻だからではない。こちら側ではない者を、いら立たせてくれるからだ。
安倍晋三や高市早苗のような政治家が支持されることも、私はそこが核心だと見る。もちろん、支持の理由は一つではない。経済、安全保障、メディア環境、いろいろあるのだろう。だがそれでもなお、彼らが「あいつらが嫌がる人物」として機能してきたことは否定しがたい。アノミーの下では、それ自体が大きな意味を持つ。暮らしは苦しい。共同体は弱い。日常生活の中で主体性を感じる場面は少ない。そんなとき、投票というわずかな手段を通じて、「あいつらが嫌がるもの」を選べることには、独特の快感がある。反体制派が嫌がることをする。それがそのまま、自分がまだ無力ではないという感覚につながる。
だから、リベラル左派の敗北を、政策や広報の敗北として理解しても意味がない。彼らは、内容で負ける前に、所属で負けている。話の筋が通っているかどうかの前に、「お前はどこの誰なんだ」と問われ、その問いに答えられない。あるいは答える気がない。もっと悪ければ、その問い自体を前近代的で野蛮なものとして鼻で笑う。確かに、発言の内容以前に所属を問われることは不合理ではある。だが、アノミーの只中にいる人に向かって、そんな正論を上空から投げても、届くはずがない。まず問われているのは、正しさではなく、「あなたは私の味方なのか」だからなのだ。
■ そしてエンゲルスになれ
茂木健一郎に、私は珍しく全面的に同意する。
つぶれろ、駿台、つぶれろ、代ゼミ、つぶれろ、河合塾、つぶれろ、東進ハイスクール、つぶれろ、ありとあらゆる、偏差値を計算する、くされ外道予備校ども、みんなつぶれろ! 日本の10歳、11歳、12歳、13歳、14歳、15歳、16歳、17歳を、偏差値奴隷から解放せよ!
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) March 8, 2014
「偏差値奴隷から解放せよ」。まったくその通りだと思う。十歳そこそこの子どもを偏差値の秤に乗せ、早々に別のレールへ追い立てる装置は、教育である前に、共同体の破壊装置である。
だが、いまからそれを止めても、たぶん遅い。いや、もちろん止めたほうがいい。止めるべきだ。だが、止めたからといって、明日から共同体が戻るわけではない。すでに選別され、移動し、別の言葉と別の時間感覚を身につけた世代が、社会の中枢にいる。その断絶は、偏差値産業そのものより長生きする。
もちろん、昔の共同体が美しかったなどと言うつもりはない。だがそれでも、「こいつの言うことなら聞こう」という細い信頼の回路はあった。いまはそれがない。だから人は国家にすがり、国家に楯突く者を憎む。残された側にとって、彼らは「抜け駆けした裏切り者」なのだ。そんな者の言葉など、ハナから聞く気はない。
だから、もうリベラル左派は天下国家を語るな、と私は言いたい。いや、語る自由はある。だが、語る資格は別だ。家族や同級生や地元との接続を失い、その痛みに無自覚なまま、「コモン」だの「世界」だの「歴史」だのを上空から投げても、届くはずがない。
「世界平和のために私たちに何ができますか?」
「家に帰って、あなたの家族を愛しなさい。」
マザー・テレサが言ったとされる、この俗っぽいほど正しい言葉以上のものは、たぶんない。世界の前に家族。抽象的な主張の前に、まず自分が具体的に責任を持てる範囲。共同体が壊れている時代に必要なのは、新しい正義のスローガンではなく、この常識の回復だ。
ここまで散々ディスってきた「斎藤幸平」だが、これは彼個人だけを指していない。共同体の痛みより先に普遍を語り、日常の不信より先に歴史の必然を語る、そういう人々の象徴である。それでもあえて、斎藤幸平には言いたい。マルクスはやめてエンゲルスにしろ、と。もう資本主義批判の話はいい。そんなことより、貧しいが優秀な者を一人見つけて、十年支えろ。学費を出せ。本を買え。家賃を払い、通学定期を持たせ、メシを食わせろ。困ったときに電話に出ろ。説教ではなく、尻ぬぐいをしろ。
エンゲルスの偉さは、革命理論を語ったことではない。友達の生活費を出し、原稿の混乱を片づけ、あのとてつもなく面倒くさいマルクスを支え続けたことである。『資本論』の背後には、仕送りと友情と実務があった。コモンを語る前に、自分の金と時間を誰かのために使え。共同体を論じる前に、小さな共同体の一員になれ。天下国家を論じる前に、一人で良いから他人の人生に責任を持て。
共同体の再生ってのは責任が多めに入ってる。その代わり抽象が少なめ。これ。で、それに家族と地元と、不遇の同級生。これ最強。しかしこれをやると、コモンだの歴史の必然だのを気持ちよく語ってる暇がなくなるという危険も伴う、諸刃の剣。出たがりインテリにはお薦め出来ない。まあお前らインテリは、世界を語る前に、まず家に帰って、家族を愛し、同級生のひとりでも支えなさいってこった。
