旅人はシュワシュワが恋しい|東京散歩帖
湿度が高くなる六月の
シュワシュワが恋しい季節のお話
外国人観光客のガイドの仕事をしている。
二年前の六月、この仕事を始めてまだ間もない頃だ。カナダ人の夫婦を、半日ガイドすることになった。宿泊先は汐留の高層ホテル。待ち合わせのホテルロビーで最初に私を見つけたのは、奥さんの方だった。
ベリーショートの髪型に、スレンダーな体格。パキッとしたメイクをキメた、ワイルドで人目をひくタイプの女性。ご主人の方は、少しポチャっとして、温厚で大人しい癒し系、という雰囲気だ。
二人と握手して自己紹介を終えた瞬間、私は気がついた。
ご主人は、呑兵衛だ。
それも、筋金入りの。
というのも、早い話、朝なのにアルコールが抜け切っていない。その人は「おっと…ちょっと待って…」とうろたえながら、ポケットを探り始めた。「サングラス、忘れちゃった…」
「取ってきなさい。」奥さんが、ホテルのカードキーを手渡す。ご主人は少し慌てながら、再びホテルの部屋へ戻っていった。
「ごめんなさいね。」私の方を振り返ると、奥さんは今回の旅程について話し始めた。私と過ごす日以外の東京の予定は、まだ決まっていないようだ。
旅行者が観光ガイドを予約するのは、「来日翌日」が圧倒的に多い。日本に到着して、まずガイドと一緒に街を歩く。その目的は単に「観光」だけじゃない。公共交通機関の使い方とか買い物の仕方、その土地のルールみたいなものをガイドと一緒に経験するのだ。
その日も、彼らは前日に日本へ到着したばかりだった。
聞けば、すでに二人とも仕事をリタイアしているのだという。長年きちんと自分の人生をハンドリングしてきたような、静かな貫禄がある女性だった。
ご主人がサングラスをかけ、さらにキャップまで装備して戻ってきた。急に、場の空気が和らいでいく。バランスの良い、いい感じの夫婦だなと、思った。
「じゃあ、行きましょうか。」
私たちの、「東京一日目」が始まった。
◇
行き先は、明治神宮、原宿、渋谷。いわゆる王道コースを予定していた。
一緒に歩き始めてすぐに気づいたことがある。この夫婦、写真をいっさい撮らないのだ。気になって、「写真は撮らないんですか?」とズバリ聞いてみた。すると奥さんが、待ってました、という感じで答える。
「私たち、旅の写真は撮らない主義なのよ。」
その代わり、自分たちの目でちゃんと見る。それが大事なのだそうだ。さらに、スーツケースすら持たないと教えてくれた。バックパック一つで、旅をする。着替えはどうするのかと聞くと、「ホテルで洗えるでしょう?」という返事だった。荷物を増やさないために、お土産だって買わない。
旅のミニマリスト。その場で自ら感じることにのみ、価値を見つける人たちなのだった。
◇
明治神宮の参拝を終えた頃、「コンビニに寄ってみましょうか?」と誘ってみた。
駅でSuicaにお金をチャージする方法を見せて、それを使って買い物する。そういう何気ないことを一つ一つクリアしていくと、異国の街歩きにずっと自信を持てるようになる。
ミネラルウォーターのペットボトルを、2本買うことになった。ドリンク売り場のビールに、目が留まる。ご主人に、「日本のビールは、お好きですか?」と尋ねてみた。
ご主人は「オヤ…?」という顔で、私の質問の真意と視線の先にあるものをすぐ理解した。ちなみに、日本ほど気軽に酒が買える国は、旅行者目線だと意外と珍しい。海外では、路上飲酒そのものを禁止している地域も多いのだ。
ご主人は、「そういうことなら…」といった雰囲気で、ビールの缶を一本手に取り、奥さんの元にイソイソと向かっていった。「ナニトゾナニトゾ」とうやうやしくビール缶を手渡す声が聞こえてきた、気がした。奥さんが、「ノミスギヨ」と言った、気がした。
でも結局買って、日本の泡をグビビと喉に送り込んだ。
どのメーカーのビールだったか思い出せないけれど、その泡は、実に美味しそうだった。
◇
原宿を散策しながら、少しだけ裏道へ入ってみることにした。昔近くで働いていたことがあり、ちょっと土地勘がある。ガイドのくせに「土地勘」なんて言うのも変か。でも、通っぽさを演出してみようと、思いついたのだ。
「この辺、ずっと昔よく来てたんです。」
そう言って、表通りから少し外れた道を歩く。裏原宿あたりは、「観光」に心を許さないローカルな生活感というか、一見さんを簡単に馴染ませない空気がある。私自身も、実は「お邪魔します…」の気持ちなのだ。
この、ほんの少しの遠回りの時間を、ゲスト二人もとても喜んでくれた。結局、彼らが一番楽しそうだったのは、明治神宮でも竹下通りでもなく、そういう何気ない寄り道だった。
こんな小さなことの積み重ねではあったけれど、「今日は成功」のフラグが立ったと感じた。あぁ、良かった…と気を抜いたその時だった。奥さんが急に立ち止まり、その日一番明瞭な声で言ったのだ。
「Ryoko、シャンパンが飲みたいわ!」
あまりにもハッキリと聞こえたせいか、一瞬、日本語で言われたのかと思った。漢字で言われたのかと思った。「漢字で言われる」とはナニゴトだろう。でも、そんな気がしたのだ。「我恋焦金泡泡!」みたいな言葉の形のイメージが、ダイレクトに脳内に届いた。
シャンパン…!
しかし私のガイド用の引き出しには、まだ用意してない単語だった。
そこは表参道にほど近い場所。どこかには、絶対あるだろう。でも、すぐに思いつかない。今までせっかく順調だったのに…!やむを得ず、スマホに手を伸ばそうとしたその時だった。
目の前のビルに、キャビア専門店の看板が見えたのだ。
よく前は通っていたけれど、その店をちゃんと認識したのは初めてだった。「こんな世界、存在するんだ」という店構えだ。今まで縁のない店だった。でもここなら、シャンパンが確実にある。しかも上等なやつ。
私は「以前から存じ上げております。」という顔で、「こういうお店も、ありますよ。」と指差した。
「いいじゃない!ここにしましょう!」奥さんが即決する。心の中で、この偶然に、巡り合わせに感謝した。仕事も時に、運だ。横を見ると、ご主人がたぶん浮かれている。
なぜか私とご主人は、奥さんの後ろをついていく形で、キャビア専門店に続く階段を上がっていったのだ。
◇
店内は静かで、客は私たちだけだった。空調は完璧に効いていて、ガラスも椅子も、全部がひんやり美しい。店員さんは驚くほど丁寧だった。その空間に入った瞬間、私たち三人ともフィナーレのような気分になっていたと思う。
まず私は、重厚感のある化粧室でしっかり手を洗った。顔の熱を冷まして席へ戻ると、それを待っていたみたいに、小さなおつまみと一緒にシャンパンのボトルが運ばれてきた。
といっても私は、仕事中の身だ。
しかし昼間の泡というのは不思議なもので、「この泡は、文化です。」という顔をして近づいてくるのだ。文化なら仕方ないと、開き直ってはダメだろうか。いや、それよりも、ゲストから勧められてしまうと、喜んでお付き合いしたくなってしまうのだ。これは仕事であり、仕事とも言い切れない。どっちだよ。
ゴニョゴニョ考えているうちに、金色に透けるシャンパンが目の前に注がれていく。もう、気持ちに嘘はつけない。
三人で同時に、グラスを持ち上げた。
東京一日目に、乾杯!
その冷たいシュワシュワは、喉の奥にキュッと沁みた。
ご主人はその後、ウイスキーまで注文した。
そして私は、見てしまったのだ。運ばれてきたウイスキーのグラスを、ご主人がスマホでカシャリと撮影するのを。
「撮るんかい。」とは、もちろん突っ込まない。「シャンパンは撮らんのかい。」の突っ込みも、泣く泣く引っ込めた。奥さんだって気づいたはずなのに、何も言わなかった。ただ、「ああ、いい日ね」と、上機嫌にグラスを傾ける。
やっぱり、いいご夫婦だ。
それにしても、シャンパンを飲みながらなんて、調子が良すぎるのはわかっている。でもこの日、「この仕事、長く続けられるかも…」などと、思ってしまったのだ。この日たまたま運が良くて、上手くいっただけかもしれないし、あるいは。
惜しみつつ飲んでいたシャンパンの泡が、いつまでもグラスの中で、静かに弾けた。
(おわり)
泡の余談:
今日(六月第一土曜日)は、
「世界泡の日」なんだそうです。
みなさん、乾杯!良いシュワシュワを!
いいなと思ったら応援しよう!
頂いたチップは、明日のコーヒー代に... ☺️
大切に使わせていただきます☕️