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旅の始まりに、愛を尋ねる|旅行記2026夏#1

イスタンブールに到着したのは、明け方の四時半だった。

フランス人夫の里帰りで、この夏フランスへ行くことになった。行き先は北東部の小さな町。日本から直行便はない。これまではウィーンやフランクフルトで乗り換えることが多かったけれど、今回は初めてイスタンブールを経由する。そこで、せっかくなら空港の外へ出て、この街から旅を始めることにした。

我が家で「イスタンブール」と聞いて、にわかに動揺したのは私だけだった。「イスタンブール」という響きに、必要以上に胸がざわつく自分に驚いた。

だからNetflixでトルコのドラマを見始めたのは、ごく自然な流れだった。トルコでは人々がどんな服を着て、どんな暮らしをしているのか。何を飲んで、食べているのか。基本的なことが、知りたくなった。

言葉も同じだ。
もともと、映画やドラマを観ながら、耳に残った単語を少しずつ拾い集め、意味を推理していくのが好きだ。韓国ドラマでは、どこまで韓国語のパズルを完成させられるか、何年も遊び続けている。同じことを、短い間だけれどトルコ語でもやってみた。

そして、人生で最初にはまったトルコ語の一片は、まるで出来すぎた話のように美しかった。

「愛(アシュク)」

観ていたのがラブストーリーだったのだから、当然と言えば当然かもしれない。でも、「こんにちは」でも「ありがとう」でもなく、最初に覚えた言葉が「愛」だなんて、どうしてくれよう。

Aşk。英語のAskのような綴りにも見える。「愛を尋ねる」と覚えればいい。この単語だけは、ずっと忘れることはないだろう。

しかし、それ以外は苦戦した。カタカナを躊躇なく濫用する。

「こんにちは」は「メルハバ」
「ありがとう」は「チェシェクレール」
「どこ?」は「ネレデ」
トイレは「ラバボ」だ。これはなんとなくわかる。

それにしても言葉の音階がまったく予想できず、脳にスルリと入ってこない。それでも、ブツブツ唱えているだけで楽しかった。その時から、もう旅が始まっていた。

イスタンブール。
コンスタンティノープルとも、呼ばれていた街。

まるで別々の文化を象徴するような二つの名前を持つ街に、まだ訪れる前から夢中になった。私は、ほとんど、その見ぬ街に恋をしていたのだ。


旅が決まってから、日本の多くの旅人と同じように、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読み返した。あの本に登場する街を、自分の足で歩ける幸運。

時代は違う。『深夜特急』の旅から半世紀近くが過ぎ、旅の景色もすっかり変わってしまった。

スマートフォンがあり、Googleマップがあり、翻訳アプリがある。泊まるホテルのタイルの色も、迎えに来るタクシー運転手の顔も、日本にいるうちから知っていた。

それでも今回の旅については、旅人のバイブル(深夜特急)を意識しまくっていることを告白しなければならない。気づく人は気づくだろうから、最初から堂々と宣言する。冒頭の「イスタンブールに到着したのは…」という書き出しも、その一つ。

本当は、沢木さんのように、次の目的地も帰る日も決めずに旅をしてみたい。でも、それは土台できないので、だからせめて本の記憶にそっと重ねるような気持ちで歩いてみたい。


羽田からイスタンブールまで、およそ13時間のフライト。

深夜便だったので、機内食を食べて少し眠った。目を覚ますと、到着までもう三時間を切っていた。「…嘘でしょ?」と時計を二度見したあと、背中に身をよじりたくなる痛みを感じた。寝違えるほど、よく寝たのだった。

席を立って身体を伸ばしていたら、トルコ人の客室乗務員に声をかけられた。「お子さん、かわいいですね。」

初めてトルコへ行くことを話すと、すぐに旅のアドバイスが始まった。

「買い物は、最初の値段で買わないこと。半額くらいまで交渉してください。」「店でチャイを出されても安心してください。飲んでも買わなくて大丈夫ですよ。」

『深夜特急』を読んで以来、気になっていたことが思いがけず解決してしまった。それにしても、この人、日本語が驚くほど流暢なのだ。聞けば昔、東京に住んでいたという。昼はモデル、夜はケバブを売っていたらしい。フライトアテンダントという華やかに見える仕事の向こうにも、長くて濃い人生があることを知った。

到着間際、シートベルトのサインが点滅する直前に、彼が座席にやってきて小さなお守りを手渡された。

「トルコのお守りです。良い旅になりますように。」

邪視から身を守るという、ナザール・ボンジュウと呼ばれる青い目のお守りだ。旅の途中で自分でも買うつもりだったものを、行きの飛行機でもらえるとは思わなかった。旅人の気持ちが、きっとよくわかっているのだ。


そして、イスタンブールに到着したのは、明け方の四時半だった。

旅の現実は、こう。

最初にしたことは、スマートフォンの海外データローミングをオンにすること。スマホに届いていた仕事のメールに、サササと返事すること。

迎えに来た運転手は、写真で見ていたよりずっと愛嬌がある方だった。「大歓迎」を体全身で表現しながら、娘たちにトルコのスナック菓子をプレゼントしてくれた。「半年前に孫が生まれたんだ!」朝日が昇る赤い大地を120キロ超えで飛ばしながら、スマホの写真を見せてくれた。

私は、「あぁ…外国へ来たんだぁ」と妙に感心していた。

しかし…そうだ。私だってウカウカしている場合ではない。覚えたてのトルコ語を使ってみる場面がついに来た。「チェシェクレール!」ありがとうと、大きな声で運転手にお礼を言うと、さっきまで大袈裟に歓迎のジェスチャーをしていた運転手が、一瞬怯んで真顔になった。そして次の瞬間、「チェシェクレール!」と、笑いながらアクセントの場所を修正してくれたのだった。こういうのが、心底嬉しい。

そして私は、シメシメと早速味をしめた。ホテルのフロントで、羞恥心を捨て大きな声でトイレの場所を尋ねてみる。いきなり、応用編。

「ラバボ、メルハバ???」

フロントの男性は、一瞬凍りついたように見えた。

「トイレ、こんにちは!!」

私はトイレに、ご丁寧に挨拶していた。

こうして、私の小さな旅は、イスタンブールから始まったのだった。




・・ということで。
しばらくは旅モードになります。

この旅の記録に、しばらくの間お付き合いいただけたらうれしいです。

トルコと日本の時差は六時間。
意外と、近いのです。



(つづく)


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