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未練を洗い流す

朝目が覚めると、夜のうちに何件かメッセージが届いていたことに気づいた。外国人観光客のガイドの仕事で、数日一緒に過ごした人たちだ。「いよいよ日本を出国するよ!」「あぁ、本当に帰るんだな…」「メルシー、Ryoko!」

眠気の残る頭でそれをぼんやり読みながら、今頃機上でくつろぐ彼らの姿を想像した。これでこの仕事も本当にひと区切りついたんだなと…頭の中で反芻していた。

日曜の朝だった。
特別、予定を入れない休日。娘たちは早起きして、映画を見ながら親不在の朝を満喫中だ。私はベッドから這うように出ると、風呂場の前でしばらく立ち止まった。風呂掃除がしたい。しかも「ついでにちょっと」では済まないタイプのやつである。

水回りは、普段からそこそこ綺麗にはしている。でも、シャワーを浴びただけだとわからない汚れが、湯船に浸かっていると気になることがある。視線も下がって、ゆっくり入浴する分、目につきやすい。

顔が浮腫んでいた。まずは朝食のパンを齧って、コーヒーをブラックで胃に流し込む。この雑な感じで、あえてそれでいい朝だった。

娘たちにも、夫にも何も告げずに、風呂場に向かう。私のこの背中を、家族は何度かこれまでも目にしてきたはずだ。誰も、何も言わなかった。あるいは、気付かなかったのかも。

手にはゴム手袋をつけるけれど、今日は裸足で良いかなと思った。浴室全体に、シャワーを浴びせる。

ハイターには、なるべく頼りたくない。浴室用洗剤を使って、スポンジや歯ブラシをひたすら動かす。普通は見えない裏側のほうまで、わざわざ挑みに行く。落ちないとなると、重曹やクエン酸を持ち出して、ややオーガニックにトライする。

以前、「クエン酸に片栗粉を混ぜて鏡に塗って、その上にラップをして何分か置くと、水垢がペロリと落ちる」というライフハックを見かけた。私は本当に、その片栗粉メソッドを実行したことがある。パンに塗るように片栗粉クエン酸ペーストを丁寧に鏡の上に塗って、鱗のような水垢が一緒にスルリと剥がれる瞬間を想像した。

結論から言うと、水垢は微動だにしなかった。その代わり、片栗粉だけが風呂場のどこかに確実に残留したはずだ。鏡の裏側とか、ノズルの接触部分とか。たぶんそういう、人類が軽率に踏み込めない場所に。

私はあの日以来ずっと、「どこかに潜んでいる片栗粉の残党」に少し怯えている。この日も私は、その片栗粉の末裔に向かって歯ブラシをふるった。

「ファースト・ネームがマズイのかな…」

スポンジでシャンプーのボトルをワシワシ洗いながら、考えた。石鹸の入れ物を石鹸で洗うのは、人類の所業の中で最上級の無駄だと常日頃から思っている。

ガイドの仕事では、ゲストと基本的にファーストネームで呼び合う。相手が会社の社長でも、マネージャーでも関係ない。みんな名前で呼び合う。この一種の親しさのようなものに慣れず、いまだ目眩すら覚えることがある。

私の名前「Ryoko」は、フランス語圏の人には慣れない名前だ。一文字めの「R」がまず、日本語の発音とは全く違う。フランス語の「r」は、喉の奥を鳴らすような摩擦音で、日本語では「ハ行」にも近い。だから、スペルを見て想像する名前と、日本語で聞こえてくる名前が別ものなのだ。

それが分かっているので、だから私は、最初から自分で少しフランス語寄りに発音してしまう。自己紹介の場面では「リョウコ」というより、「リ(ヒ)オコ」と発音する。

Bonjour, je suis Ryoko!
(こんにちは!リ(ヒ)オコです)

別人のような自分が、そこにいる。

どうしても落ちない汚れがあって、ここで結局ハイターを取り出した。風呂場の角や排水口に向かって、最後の切り札みたいに噴射する。薬品の匂いが一気に充満して、換気扇を強める。

自分でゴシゴシ磨いた場所と、化学の力でみるみる白くなっていく場所。その両方を眺めながら、「あぁ、これがしたかった」と、納得する。

鏡の水垢は、結局それほど変わらずに残っている。でも、さっきより、一段も二段も向こう側まで見渡せるような気がする。

昨日もらったメッセージには、続きがあった。

「また戻ってくるために、今は帰るよ。」

仕事で日本にきた人たちだった。いったい彼らは、いつ仕事をしたんだろう。謎だ。それにしても、映画のセリフのようなものを、ポトリと落としていかないでくれ。

湯気のたつシャワーで、浴室全体を洗い流した。濡れた足をタオルで簡単に拭き取って、娘と夫がゴロゴロ転がる場所に戻る。

スマホに、新しい通知が増えていた。今度は、新規の仕事のリクエストメールだ。慌てて、スケジュールを確認する。

風呂場から、少しだけハイターの匂いが漂う。
今夜は、風呂を沸かすと決めていた。



(おわり)




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