上機嫌な旅人の、完璧な一日|東京散歩帖
外国人観光客のガイドの仕事で、フランス人の一人旅の男性と東京を歩いた。8月にしては珍しいくらい、涼しい風が吹いていた。
70代後半という年齢を聞いて、「お仕事で来られたんですか?」なんて聞いてしまった。余程の事情があって東京に来たのかと、勘繰ってしまったのだ。
「この歳で、まだ仕事させないでくれよ。」
彼はからかうように、笑った。70代後半で一人旅、何が悪いんだ。そうだ、そうだ。
足元はオシャレな黒い革靴だった。その革は、しかし、柔らかそうに見えた。
「今日、結構歩きますよ。」と予告すると、
「結構結構!」と笑いながら、とタバコをふかす仕草をする。私がまず案内したのは、喫煙所だった。
その日の朝、東京に到着したばかりだという。機内では一睡もせず(タバコもやらず)、ずっとドラマを観ていたらしい。私を待つ間ホテルの喫茶店で飲んだエスプレッソが、二千円もしたそうだ。しかし、たいして美味しくもなかった。
「日本は、高いな。」
「その値段はちょっと、異常だと思いますよ。」
今度は私が笑って、正直なところを伝えておいた。
最初から、上機嫌な方だった。子ども、孫、ひ孫まで合わせると二十人近くいるのだという。その家族から、ひっきりなしに電話がかかってくる。
「あ、娘だ。」
「息子から電話。ちょっと待って。」
「おや、今度は孫だ。」
そのうち、男性の友人二人からもビデオコールがかかってきた。
「ボンジュール!今どこだと思う?!」
渋谷の交差点を画面に映しながら、大ハシャギしている。友人たちは、この光景がうまく見えているんだろうかと、私は横で様子を窺う。
時差がある向こうの国では、まだ朝の9時くらい。こんな時間から、友人二人は(おそらくカフェでタバコとエスプレッソでもやりながら)、遠い国に旅だった友を想っているのだろう。
「見てくれこのエネルギー!どうしてこんなに人がいるんだ!日本人は働かないのか!でも、ゴミなんてどこにも落ちてない! タバコを吸いながら歩く人もいない! 実に、完璧だよ!」
彼はことあるごとに、Impeccable!(アンぺカーブル:完璧だ、大変結構だ)と、笑った。
映画で観てきた「日本」のイメージどおりだと興奮する声を聞きながら、彼はいったいどんな映画を観てきたのだろうと想像していた。多分、ちょっとノスタルジックなものじゃないか。タイトルを聞いておけば良かったと、今になって少し後悔している。
「今はね、日本人の可愛いお嬢さんと一緒なんだ。完璧だよ!」
電話がかかってくるたびに、私は「お嬢さん」「お嬢さん」と紹介された。
フランス語では、年下の女性を La petite(お嬢さん)と親しみを込めて呼ぶことがある。ごく普通の愛称なのだけれど、なんともむず痒い。しかしここで出しゃばって、「私なんて、若くないんですよ?」などとアピールするのは興醒めである。よって、黙っていた。
「何か甘いものでも、食べなさい。」
喫茶店に入るたびに、食べろ食べろと勧められる。お言葉に甘えて、クイニーアーマンとカフェラテを注文した。ご本人はエスプレッソだけ頼み、ホテルより美味しいと満足そうにクイっと飲み干した。(もっとも、喫茶店に入る一番の目的は喫煙であった。)
「友達や家族と旅してもいいんだけど、自分のペースが一番いいものだよ。」
この日の終わり、そんなことを話していた。と言っても、これだけ皆んなから電話がかかってくれば、寂しさを感じる暇もないだろう。
「よく寝て、元気に旅してくださいね。」
別れ際握手して、大きく手を振った。なんだか、私まで上機嫌な時間だった。
「完璧だ!」とよく笑う人生は、隣を歩いても清々しかった。
帰宅後、(お喋りに夢中で)食べずに残してしまったクイニーアーマンを、長女に「食べる?」と聞いてみた。長女の好物なのだ。
「うん! 食べる食べる。」
長女は嬉しそうに頬張る。そして、ふと思いついたように聞いてきた。
「ママは仕事で、カフェなんて行くの?」
「うん…行くよ。」
思わず顔を逸らしながら、返事をした。あぁここで、「うん、完璧でしょ!」と、真っ直ぐ目を見て答えられたら良かったのに。
そして、今日フランス人に「お嬢さん」と呼ばれていたことは、絶対に黙っていようと思った。
(おわり)
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