大きな声を出さないガイド|東京散歩帖
外国人観光客のガイドの仕事をしている。普段担当するのは、カップルや一人旅、多くても4、5人ほどの小さなグループだ。少人数のほうが会話も深まりやすいし、同じ空気を共有できる。
…というのは、半分くらい建前でもある。
本当のところを言えば、人数が増えると、自分の声がちゃんと届いているのか不安になるのだ。しかも、私がもっと苦手なのは、実は「一生懸命聞かれること」である。
こちらが話し始めた瞬間、「聞きますよ」「今から情報を受信しますよ」という姿勢が場に立ち上がる。学校の朝礼前の、「これより校長先生のお話がありますので静かにしてください」みたいな空気。あれが、どうにも落ち着かない。
多少ざわついているくらいが、ちょうどいい。誰かが笑っていて、遠くで皿の音がしていて、その合間に私の言葉がなんとなく耳に入っていくくらいが理想だ。でも、私の声というのは、どうもそういう環境ではあまり存在感を主張しないらしい。
昔、会社の打ち合わせ中に、同僚からこんなことを言われたことがある。
「Ryokoさんって、空気をたくさん含んだ声だよね。」
失礼なやつだな、と思った。
空気をたくさん含む声とは何だ。発声時の二酸化炭素濃度の話か。仕事中に突然そんな分析を始めるとは、なかなか油断ならない。
真っ先に思い浮かんだのは、森進一が『おふくろさん』を歌うときの、あの独特の発声だった。ものまね芸人たちが、頬をすぼめながら誇張して真似していたやつである。つまり「ちょっと癖のある声」という意味で、遠回しに茶化されているのだと判断した。
「どういうことですか、それ。」
軽く睨むと、同僚は慌てた。
「いやいや、バカにしてないって。声にも、輪郭がはっきりして遠くまで飛ぶ声と、空気に溶けていく声があるんだよ。Ryokoさんの声は後者。」
声を「空気との溶解性」で説明されたのは、後にも先にもあれが初めてだった。
世の中には、ときどきこういう独自理論を何の前触れもなく投げ込んでくる人がいる。それ以来私は、妙にその言葉を根に持ち、「声の空気溶解性理論」を頭の片隅で飼い続けてきた。
すると不思議なもので、だんだん「あながち間違っていないのでは」と思えてくる。
たとえば、居酒屋のガヤガヤした空間でも、なぜか遠くまで通る声の人がいる。ああいう声には輪郭がある。水の中に落とした油みたいに、周囲と混ざらず、「ここにあります」と主張し続ける声だ。学校の先生などは、ああいうタイプが多い気がする。半分は生まれつき、半分は訓練なのかもしれない。
一方、私の声は遠くまで届かない。
特別小さいわけではないのだけれど、向こう岸まで渡っていかない。普段通りに話していると、テーブルの端にいる人にはうまく届かないのだ。
水に溶いた水彩絵の具みたいな声だな、と自分では思っている。ふわっと広がるけれど、輪郭が残らない。
先日、10人グループのガイドを担当することになった。
代理店からオファーが来たとき、最初は断るつもりだった。10人に自分の声が届くだろうか。しかも外国語で、明瞭に。考えれば考えるほど、自分には向いていない気がした。
するとそのタイミングで、突然スマホに見知らぬ番号からメッセージが届いた。「あなたに会うのを楽しみにしています!」10人グループのゲストの一人からだ。
なぜ仕事が正式決定する前に、客から直接連絡が来るのか。海外の代理店と仕事をしていると、ときどき因果関係の説明を放棄したくなる出来事が起こる。そういうのにも、慣れてしまったけれど。
でも、直接メッセージをもらってしまうと、こちとら妙な情が湧いてしまう。「袖触れ合うも他生の縁ちゅうやつや…」
結局、アッサリ引き受けてしまった。苦手意識を克服する瞬間というのは、案外これくらい強引なものなのかもしれない。
その10人は、家族や会社の同僚グループではなかった。同じ世界一周クルーズ船に乗って何ヶ月も旅をしている、いわば「船上の隣人たち」だった。
年代もバラバラで、40代くらいのカップルから70代くらいの夫婦もいる。しかも全員が同じ国に住んでいるわけでもない。同じフランス語圏とはいえ、出身国も地域もそれぞれ違う。ただ、「旅が好き」という一点で、数ヶ月も同じ船に揺られているうちに、すっかり打ち解けてしまった人たちなのだった。
私はクルーズ船というものに、憧れがある。だが、本当に乗りたいかと言われると、そこはまた別である。
ずっと船の上にいて、ときには一日中航海だけの日もある。船内のレストランで食事をし、プールサイドで酒を飲み、映画館で映画を見て、図書室で本を読む。なるほど、非常に優雅だ。人生のご褒美感。
でも、自分がずっと同じ空間で、食べたり飲んだりしたいかと言われると、どうもピンと来ない。私は三日目くらいで「そろそろスーパーでサラダを買って、オリーブオイルと塩をかけて食べて、その辺を散歩したい」と言い出す気がする。
ただ、実際にクルーズ旅行者たちに会うと、皆とても晴れ晴れとした顔をしている。最高に幸せなのだろう。それはそうか。
この仕事を始めて、もうすぐ3年目になる。その中で、どこの国にも一定数存在することを知った人種がいる。
「調子のいいおじさん」である。
なぜか彼らは、世界共通だ。
しかし、こういう人たちのくだらないボケに、何度も緊張を救われてきた。
ガイドというのは、始まる前は毎回かなり緊張しているのだ。初対面の人たちだし、「どんな人たちだろう」「うまくやれるかな」と当然不安いっぱいで待ち合わせ場所に向かう。
一方で、調子のいいおじさんたちは彼らも同様に、「自分が調子よくいられる場所」を探し求めているようなのだ。
今回のグループにも、いた。
電車の切符を、改札ではなく私のポケットに入れようとするおじさん。「ここからの景色が綺麗ですよ」と言えば、「おいくらですか?」と聞いてくるおじさん。街中で妙に渋いステップを踏みながら、ダンスに誘ってくるおじさん。
ほぼすべての会話に、ボケを差し込んでくる。千本ノックである。
最初のうちは、「とは言え、ゲストだし」と、失礼のないよう振る舞いもする。しかし数時間もすれば、だんだん扱いに慣れてくる。
「もう皆さんの次の手、だいたい分かってきました。」
そう伝えたら、それが悪かった。いや、良かったのか。彼らはさらに勢いづき、東京の街を縦横無尽にボケ倒し始めた。彼らのパートナーの女性陣はツッコミ係を私に託し、清々した表情で街歩きをしている。毎日船中でこれだと、疲れるのかもしれない。束の間の解放感だろうか。
しかし、調子のいいおじさんとは言え、彼らはそれなりの社会的立場を築いてきた人たちに違いない。その成熟と途方もないくだらなさが両立するのだと、オカシクて仕方なかった。
そんなふうにしているうちに、私の緊張も、気づけばすっかり溶けていた。
もっとも、この10人、まとまりがあるのかないのか最後までよく分からなかった。
2人はあっちへ行き、4人は向こうで写真を撮り、残りの3人だけが私のそばにいる。気づけば1人いない。でも、なぜか最終的には全員ちゃんと揃っている。
よくこれで成立していたな、と思うくらい自由だった。
そのグループの中に、一人で旅する70代くらいの女性がいた。
彼女は、お調子者のおじさんたちとは対照的に、いつも少し人と距離を置いていた。笑顔も少なく、どこか一歩引いたような雰囲気がある。最初に会ったときから、私はなんとなく気になっていた。
楽しめていないのだろうか。このグループに馴染めていないのだろうか。そんなことを考えた。
その日の昼、リクエストされていた鉄板焼きの店に行ったときも、彼女は「私はこんなにお肉は食べられないわ」と、あまり乗り気ではなさそうだった。
私は少し気になって、でも、だからといって積極的に話しかけるのが正しいのかも分からず、なんとなく様子を見ていた。
ところが、料理が運ばれてきて、ステーキを一口食べた瞬間、彼女の表情が変わった。私は、それを見逃さなかった。
彼女は、きれいに完食した。そして目が合った瞬間、「これは素晴らしいわね」という顔で、うんうんと頷いてくれたのだ。私はそれだけで、肩の荷が降りたような気持ちになった。Wagyu(和牛)、ナイス!
そして、その後の移動中、なんとなく隣を歩いてみた。すると彼女は、ぽつりぽつりと話してくれた。
早くにご主人を亡くしたこと。退職後は、こうして旅をして暮らしていること。自分が留守の間は、仲の良い友人が家の換気をして、水を流しに来てくれていること。クルーズ旅行は何度かしてきたけれど、もしかすると今回が最後になるかもしれないこと。
長い世界一周の旅の途中にしては、とても短い会話だった。
8時間のガイドは、あっという間に終わった。ショッピングに便利なエリアで解散する。これから各自お土産を買って、船に戻っていくようだ。
お調子者のおじさんたちは最後まで絶好調だった。求婚のようなポーズを取りながら、「またね!」と騒いでいる。
私は笑いながら、その場を離れようとした。すると、「ちょっと待って」と声がした。振り返ると、例の一人旅の彼女だ。
「あなたと途中まで一緒に帰ることにしたの。」そう言って、私と同じ方向へ歩き出した。
「今日はたくさん歩きましたね」と言うと、「少し早めに船に戻って休むことにするわ」と静かに笑った。
大通りで、彼女のためにタクシーを止めた。運転手に、目的地をしつこくしつこく念押しするように伝える。彼女の不安を取り除くためだ。このしつこさが伝わったのか、彼女は安心したようにタクシーに乗り込んだ。
そして最後に、私の手を取って言った。
「素晴らしい一日だった。」
苦手だと思っていた、10人グループのガイド。
結局その日、私は一度も大きな声を出さなかった。
(おわり)
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