異世界ダイニング りょりょ亭 第二十二話
#第二十二話 白幻谷の伝説
昼でも薄暗く、湿り気を帯びた霧が絶え間なく漂う、リョリーディア西の果て。
幾重にも折り重なる雲海を抜け、辿り着くことのできた者だけが目にするという、伝説の谷——白幻谷。

その最奥で、幻獣白乳を滴らせる存在が眠るとされていた。
名は《ルナヴェール》。
月の光を糧に生き、夢と現を往く幻獣。
その姿を目にした者は、夢と現の境を彷徨い、やがて魂すら囚われるという。
「……本当に帰れるのか怪しくなってきたな」

オリンが濃霧に包まれた細い山道を進みながら、低くぼやいた。小柄なハーフリングの体には肩にかかる湿気がじっとりと重く、まるで見えない何かが背後に張りついているかのようだった。鋭い眼光で周囲を警戒しながら、本能が危険を感じ取っていた。
「あたしは、この霧より本当に白乳が存在するのかが心配だよ」
パーティーの後方から、どっしりとした足音と共に声が響いた。サイの角を持つ大柄な女性、ティロンだ。彼女は厚い皮膚に滴る霧の雫を払いながら、肩に担いでいた巨大な鉄鍋を地面に下ろした。
「この薄気味悪い場所で幻獣白乳が手に入らなかったら、巡環の饗宴が作れないってんだから」
彼女は拳を握りしめ、炎の魔力を宿した指先から小さな火花を散らせた。グリルシェフとしての情熱が、その瞳にも燃えていた。
「幻獣白乳がなければ宴は開けないんでしょ。だったら、進むしかないよ」
ミラベルがいつも通りの柔らかな笑みを浮かべ、長いウサギの耳をピンと立てる。料理長としての責任感が、その声の奥に確かな覚悟として宿っていた。あくまで冗談めかして笑っているようでいて、その目はまっすぐ目的を見据えていた。
「……寒いわね。これ、ただの冷気じゃない」
ソルヴィーヌが身をすくめ、震えながら呟く。丸みを帯びた羊の角と柔らかな毛並みが霧に濡れ、彼女はショールを引き寄せた。チーズ職人としての繊細な感覚が、この霧の異常さを敏感に捉えていた。
「魔力が吸われていくみたい……この霧、どこかおかしい」
「緊張してるの? それとも、ちょっとはワクワクしてる?」
ロッサが軽やかに笑って振り返る。レッサーパンダの特徴的な赤褐色の髪と縞模様の尻尾が、霧の中でも鮮やかに目立っていた。自称グルメハンターの彼女は、新たな食材を求める冒険に慣れているようで、その足取りは好奇心に満ちていたが、それでも慎重さを忘れてはいなかった。
彼女はいつもどおり明るく振る舞っていたが、霧の奥に潜む得体の知れない気配に気づかぬはずもない。
「魔力を吸われるなら、こいつで少しは暖まるさ」

ティロンが両手を広げると、掌から炎が燃え上がった。周囲の霧が一瞬だけ退き、暖かな光が仲間たちを包み込む。日頃グリルで培った彼女の炎は、霧の冷気に対抗するには十分な熱量を持っていた。しかし、その光は長くは続かず、すぐに霧に飲み込まれていった。
「あら? 妙ね……普段なら、もっと強い炎が……」
彼女の眉間に深い皺が刻まれた。修行で培った彼女の炎は、どんな雨でも消えないほど強いはずだった。
谷の奥へ進むごとに、世界はひっそりと音を失っていった。
風の音も、鳥の声も、足音さえも霧に吸い込まれていく。
「待て」オリンが突然、手のひらを上げた。「何か来る」
一同が足を止める。霧の向こうから、かすかな気配が迫っていた。
「誰?」ミラベルが警戒し、獣人としての鋭い耳を震わせる。
突如として霧が渦を巻き、五人を取り囲むように変形していく。次の瞬間、白い霧の塊が人型へと凝縮し、半透明の姿となった。

「霧の幻影……!」ソルヴィーヌが声を上げる。「この谷に許可なく足を踏み入れた者を襲うって、出発前にエルヴィナーから忠告ががあったわ」
「来るぞ!」
オリンの警告と同時に、霧の幻影が一斉に襲いかかってきた。その手は爪のように鋭く、触れたものの魔力さえ奪うという。
「ハッ!」

ロッサが素早く身をひるがえし、手にした短剣で霧の幻影を薙ぎ払う。彼女の動きは探検家として鍛えられた敏捷性を示していた。刃が通り抜けるかに見えたが、幻影は悲鳴のような音を立てて一瞬ひるんだ。
「物理攻撃が効くみたいね!でも、完全には倒せない!」
彼女の言葉通り、切り裂かれた霧の体はすぐに元に戻っていく。
「それなら——」
ソルヴィーヌが杖を振りかざし、青白い光を放った。チーズ作りで培った彼女の熟成魔法は、魔法の詠唱にも活かされていた。光が幻影を貫くと、霧の一部が崩れ、動きが鈍くなる。
「魔法なら効くわ!でも、この霧の中じゃ力が弱まってる!」
ミラベルは料理用の大きなナイフを取り出し、霧の幻影に立ち向かう。普段は食材を扱う手さばきが、今は霧の幻影を切り裂いていく。
「囲まれたわ!四体もいるわ!」
「くそっ、このままじゃ全員の魔力が尽きる前に倒されちまう!」
オリンが魔力を込めた短剣を振るい、小柄な体を活かした素早い動きで、幻影の攻撃をかわしながら反撃を試みる。しかし、彼の剣は幻影を切り裂くが、すぐに霧が再生していく。
「みんな、下がって!」
突如、ティロンの声が響いた。彼女は両足を踏ん張り、深く息を吸い込む。
「サイの本気を見せてやる!」

彼女の全身が赤く発光し、角からは炎が燃え上がった。次の瞬間、ティロンは大地を踏みしめ、轟音と共に周囲に炎の波動を放った。
「炎獄の鼓動!」
灼熱の衝撃波が霧の幻影を貫き、一瞬にして周囲の霧を押し返す。幻影たちは悲鳴を上げ、形を崩し始めた。
「今よ!」

ミラベルが叫び、的確な指示を出す。「ソルヴィーヌ、右側!ロッサ、左から回り込んで!」
彼女自身も躊躇なく幻影に斬りかかる。同時に、ソルヴィーヌが複雑な術式を唱えながら、杖を高く掲げた。
「霧より生まれし者よ、還れ——コバルト・エイジング!」
青い魔法陣が足元に広がり、強力な風が霧の幻影を切り裂いていく。

「隙あり!」
ロッサが幻影の背後に回り込み、短剣で突きを放つ。オリンもまた、小さな体を活かして幻影の足元に潜り込み、急所を突く。
苦しげな叫び声を上げ、霧の幻影たちは次々と形を失っていった。
「…終わったか?」
オリンが警戒しながら周囲を見回す。霧はまだ晴れないが、幻影たちの姿はもうない。
「大丈夫、みんな無事?」ミラベルが仲間たちを見渡し、ウサギの耳を動かして危険を察知しようとする。
「こんな所で力を使い果たしちゃ、本命に辿り着けないわよ」
ロッサが冗談めかして言うが、確かにみんな魔力を消耗していた。
「大丈夫、まだ余力はあるさ」
ティロンが笑い、皆に活力を分け与えるように明るく言った。その姉御肌的な態度が、仲間たちの緊張を和らげる。
「さあ、行きましょう。目的地はもう近いはず」
ミラベルが前を指さす。戦いの余波で霧が少し晴れ、奥への道が見えていた。
五人は互いを確認し合い、さらに谷の奥へと足を進めた。
やがて——。
突如、霧が静かに晴れる。
まるで夜の帳が下りたような、幽玄な空間が広がっていた。
そこに、静かに佇んでいた。
《ルナヴェール》
巨大な鹿のような姿。
その銀色の毛並みは霧そのものが形を成したかのように透き通り、頭頂には三日月のように輝く角が二本、静かに空を裂くように伸びている。

深く澄んだ双眸は、まるで夢の奥底を覗くかのように静謐で、けれど底知れぬ深淵を抱えていた。
そして、胸元。
心臓のあたりから、淡く白い雫がぽたり、ぽたりと滴り落ちている。
それこそが、求めていた幻獣白乳だった。
「……あれが」
ロッサが思わず息を呑む。グルメハンターとして数々の珍しい食材を求めて旅してきた彼女でさえ、この光景には言葉を失っていた。
「何という……気高さ」
ティロンが呟いた。普段の豪快さは影を潜め、その声は畏敬に満ちていた。厨房で炎と格闘してきた彼女でさえ、この幻獣の前では言葉を失うほどだった。
「動くな」
オリンが静かに手を挙げ、仲間たちを制した。小柄なハーフリングの警戒心は常に研ぎ澄まされていた。
「こっちを見てる。少しでも不用意に動けば、ただじゃ済まないぞ」
《ルナヴェール》は何もせず、ただ静かに五人を見つめている。
その目はどこか優しいようでいて、ふと気を抜けば夢の底へと引きずり込まれそうな、そんな不穏さを含んでいた。
「襲う気は……なさそうね」
ミラベルが囁く。ウェアラビットとしての鋭い直感が、彼女にそう告げていた。
「でも、近づけるかどうかは別問題よ」
ソルヴィーヌが固唾を呑む。繊細な手が緊張で震えていた。
静寂の中、ティロンがゆっくりと前に出た。彼女の動きは、その体格からは想像できないほど優雅だった。
「待って、危険よ」
ソルヴィーヌが腕を掴もうとしたが、ティロンは微笑んで首を振った。
「大丈夫。料理人として、最高の食材の前では礼を尽くすのが筋ってもんよ」
彼女は《ルナヴェール》の前に進み出ると、膝をつき、深々と頭を垂れた。
静かに、ミラベルもその横に立ち、一歩、踏み出す。
《ルナヴェール》は、わずかに首を傾けた。
三日月の角が揺れ、空間がゆらりと歪む。
——谷全体が、夢の中へと引き込まれていくようだった。
「これ……幻術? いや……夢を見せられてる……!」
オリンが奥歯を噛み締め、霧の奥へ目を凝らす。
周囲の景色が溶け、五人はいつの間にか星空の下に立っていた。足元には草原ではなく、鏡のような水面。踏みしめても沈まず、歩けば星の光が波紋となって広がっていく。

「こんな場所、現実にあるはずがない」
ロッサがつぶやいた。
「でも、あの白乳がなければ宴は開けない」
ティロンが静かに言う。食材への敬意と、饗宴を成功させる責任が、彼女の目に浮かんでいた。
「やるしかないわ」
ミラベルがティロンに続いて静かに膝をつき、頭を垂れた。
敵意はない。
欲望でもない。
ただ、リョリーディアを救う為のみに必要なのだと願いを込め、静かに手を差し出す。
《ルナヴェール》はしばらく見つめていたが、やがて微かに瞬き、ゆっくりと五人に近づいてきた。その蹄が水面に触れるたび、星々が踊るように光を放つ。
幻獣はティロンの前で立ち止まり、その瞳を覗き込むように見つめた。

「私は……あなたの恵みを無駄にはしません。王国の人々に、命の輝きを伝えるための糧とするだけです」
サイの角を持つ料理人は、声を震わせながらも真っすぐに幻獣を見つめ返した。
一瞬の沈黙の後、《ルナヴェール》は静かに頷いた。
淡く、胸元の白乳が花のように咲き、霧へ溶ける寸前——。
ソルヴィーヌがそっと瓶を差し出した。
神秘的な光を放つ雫が、音もなく瓶の中へと流れ込んでいく。

「……取れたわ」
静寂が戻る。
五人は静かに顔を見合わせた。
言葉はなかった。
ただ、その静けさの中に、確かな安堵と達成の色が滲んでいた。
《ルナヴェール》は、再び霧の奥へと溶けていく。
まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
星空と水面の世界も、ゆっくりと薄れていった。
「夢かと思ったけど、確かに瓶の中にあるわ」
ソルヴィーヌが胸に抱いた瓶をそっと撫でる。
「やっぱり最高の素材だね!」
ロッサが明るく笑い、空気を軽くするように声を弾ませた。
「これで宴の料理も完璧だ!」
ティロンが満面の笑みを浮かべ、力強く拳を握った。
「……さっさと帰ろうぜ。こんな夢の中に長居は御免だ」
オリンが苦笑し、谷を背に静かに歩き出す。
その背後、深い霧がふたたび静かに降り、谷を包み込んでいった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
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帰路の道中、五人は白幻谷での体験について語り合った。霧の消えた山道は、行きと比べて明るく、まるで別世界のようだった。
「あれは夢だったのか、現実だったのか……」
ミラベルが空を見上げながら呟く。
「どっちでもいいじゃないか。結果、手に入ったんだから」
ティロンが瓶を抱えるソルヴィーヌの肩を優しく叩いた。その力加減は慎重で、瓶を落とさないよう細心の注意が払われていた。
「私、あの幻獣の目……忘れられないわ」
ロッサが遠くを見つめながら言った。
皆が思い思いに会話を続ける中、先頭を歩いていたオリンが突然足を止めた。彼の目は、道の脇に落ちた何かに釘付けになっていた。
「どうしたの?」
ミラベルが声をかけると、オリンは首を振り、素早く小さな何かを拾い上げて懐に隠した。
「……いや、何でもない。少し先に行って確認したいことがある。お前たちはそのまま王都に戻っていてくれ」
彼の表情には、見慣れぬ緊張が走っていた。
「でも、もうすぐ日が暮れるわ」
ソルヴィーヌが心配そうに空を見上げる。
「大丈夫だ。すぐに追いつく」
そう言ってオリンは、仲間たちに背を向け、山道の分かれ道へと歩み始めた。
「変なヤツだな……」
ティロンが首を傾げる。
「でも、オリンのことだから、きっと何か理由があるのよ」
ミラベルが微笑んだ。
仲間たちが王都への道を進む中、オリンはひとり、霧の立ち込める山の奥へと姿を消していった。彼の懐からは、黒い霧が、かすかに漏れ出ていた。

