異世界ダイニング りょりょ亭 第四話
#第四話 羽柴犬、空を駆ける

朝の柔らかな陽光が『りょりょ亭』のホールを黄金色に染め上げる頃。
木漏れ日は床に踊る模様を描き、店内には森の深い香りが漂っていた。静けさの中に流れる小鳥のさえずりが、この特別な宿の魔法のような雰囲気をさらに引き立てる。
そんな穏やかな朝のホールで、一際目を引く存在があった。
「わんっ! わんっ!」
黄金色の毛並みを輝かせ、背中の小さな羽根をぱたぱたと動かしながら、ホールを所狭しと飛び回る小さな柴犬。それが『りょりょ亭』の看板犬、フロリアだ。
テーブルの上を軽やかに駆け抜け、天井近くまで舞い上がり、また床へと舞い降りる——フロリアの一挙一動には、心を和ませる不思議な魔法があった。彼女の姿を見るだけで、宿の客たちは旅の疲れを忘れ、思わず微笑みを浮かべてしまうほどだ。
店の入口付近で、そんなフロリアの姿を腕を組んで見つめている人物がいた。
「やれやれ、フロリアは朝から相変わらず元気だな」
声をかけたのは、りょりょ亭のセキュリティを担当するハーフリングのオリンだ。小柄で少年のような外見ながら、その目は鋭く、いつも厳しい表情で店内の安全を見守っている。しかし、フロリアが近くにいると、その厳しい表情も自然と柔らかくなる。

「朝の巡回も完了。今日も問題なしだ」
オリンがぶつぶつと自分に言い聞かせるように呟いていると、奥から明るい声が響いた。
「フロリア、そろそろ開店の準備をするよ?」
りょりょ亭のオーナー、リョコが微笑みながらホールへ顔を出した。彼女の編み込まれた長い髪は朝の光に照らされて柔らかく揺れ、優しさを感じさせる瞳が周囲を見渡す。
リョコの呼びかけに、フロリアは嬉しそうに「わんっ!」と一声鳴いて宙で一回転。まるで「任せて!」と返事をしているようだった。その愛らしい仕草に、オリンまでもが思わず口元を緩めた。
「よし、じゃあテーブルを拭いてくれる?」リョコが言うと、フロリアは尻尾を大きく振り、テーブルへと向かっていった。小さな前足で布を器用に操り、テーブルを丁寧に磨いていく姿は見ていて微笑ましい。
こんな風に、りょりょ亭の朝はいつも穏やかで、ゆったりとした空気が流れている。
「今日はどんなお客さんが来るかな」リョコが窓の外を見ながら呟いた。
しかし、その静かな朝の空気を、突然切り裂くような声が外から聞こえてきた。
「誰か……誰か、助けてください!」
泣き出しそうな、切羽詰まった女性の声。
リョコとオリンは顔を見合わせ、すぐに扉の方へ駆け寄った。フロリアも不安げに耳をピンと立て、二人の後に続いた。
扉を開けると、一人の若い女性が半泣きで空を指差しながら叫んでいる姿があった。

「お願い、降りてきて……レオ! レオ!」
彼女が必死に呼び続けるその先——空高くには、小さな男の子が宙に浮かび、どんどん上昇していく姿があった。男の子の体からは青白い光が漏れ出し、風に吹かれるように、しかし制御を失ったかのように揺れている。

「魔力制御が外れたか!」オリンが険しい表情でつぶやいた。
この世界、リョリーディアでは、時折子供の未熟な魔力が暴走し、こんな騒動が起こることもある。特に魔法の素質がある子どもたちは、感情が高ぶると制御できなくなることが多い。だが今回の暴走はかなり激しく、すでに子供は手の届かない高さまで上昇していた。
「レオ、怖がらないで!ママがすぐに助けてあげるから!」
母親の叫びは虚しく空に消え、男の子はさらに高く、高く上がっていく。
「これはまずいぞ…」オリンが唇を噛んだ。「近くに空を飛べる者はいないのか?」
リョコも急いで周囲を見回すが、この早朝、通りにはまだ人の姿もまばらだ。
そのとき、一同の隙をつくように小さな影が風のように駆け抜けた。
「わんっ!」
「フロリア!?」
フロリアは庭から一気に飛び出し、背中の小さな羽を大きく広げ、ぐんぐんと宙を舞い上がっていった。羽は普段は愛らしいアクセサリーのようなものだったが、今や光を帯びて大きく広がり、本物の翼となって彼女を持ち上げている。
「フロリア、危ない!」オリンが思わず声を上げた。

だがフロリアは全く躊躇せず、空の彼方へ舞い上がる男の子のもとへ一直線に向かっていく。ふわり、ふわりと優雅に空気をつかんで舞い上がるフロリアの姿は、まるで伝説の神獣のようだった。
「フロリア…」リョコは祈るように見つめていた。
見上げる人々の視線の先で、フロリアはついに宙に浮かぶ男の子に追いついた。小さな男の子は恐怖で泣きじゃくり、その感情がさらに魔力の暴走を加速させている。
フロリアは静かに男の子に近づき、小さな鼻先で優しく男の子の手に触れた。
「わん…」
その温かな触れ合いと、柔らかな鳴き声が、男の子の恐怖を少しずつ和らげていく。フロリアは男の子の周りをゆっくりと回り、安心感を与えるように寄り添った。
「レオ!大丈夫よ、フロリアがいるわ!」地上から母親が叫ぶ。
男の子の体から漏れていた青白い光が徐々に弱まり、上昇も緩やかになってきた。フロリアはチャンスとばかりに、小さな前足で男の子の服を咥え、慎重に体を支えながら、ゆっくりと地上へと降り始めた。

二人の降下を見守る地上の人々は、息を詰めて見上げていた。フロリアの小さな体で、男の子を支えるのは容易ではない。羽は懸命にはためき、時折不安定になりながらも、少しずつ、確実に地上へと近づいていく。
「あと少し…」
リョコとオリンは腕を広げて二人を待ち受けた。そして、ついにフロリアは地上数メートルのところまで降りてきた。最後の力を振り絞って、フロリアは男の子をそっと地上へと降ろした。
「レオ!」
母親が駆け寄り、男の子を強く抱きしめる。男の子も母親にしがみつき、安堵の涙を流した。

「本当に、ありがとう……!あなたのおかげで助かったわ!」
母親がフロリアを見上げて感謝の言葉を述べると、フロリアは誇らしげに胸を張り、尻尾を大きく振った。その姿は、先ほどまで命がけで救助活動をしていたとは思えないほど、いつもの愛らしいフロリアそのものだった。
「本当にいい子ね、フロリア」
リョコはフロリアの頭を優しく撫で、フロリアはその手に顔を寄せた。急いで集まってきた町の人々も、この小さな犬の勇敢な行動に拍手と称賛の声を送る。
「ハハハ!さすがりょりょ亭の番犬だな!」
「なんて勇敢な!」
「あんな小さな体で、よくやったものだ!」
フロリアは一躍、町の英雄となっていた。
しかし、この騒動を少し離れた場所でじっと見つめていた人物がいた。
「ほぉ……なかなかやるじゃないか」

低く落ち着いた声で呟いたのは、ウェアドッグの女性、シバトだった。彼女は人間と犬の特性を併せ持つ種族で、リョリーディア王国で魔法犯罪捜査官として働いている。今日も仕事の途中、たまたまこの騒ぎを目撃したのだった。
シバトはゆっくりと人混みを掻き分け、フロリアの前まで歩み寄った。その姿に周囲が少し緊張する中、彼女はしゃがみ込み、フロリアと目線を合わせた。
「捜査官でもないのに、見事な働きだったぞ」
シバトは穏やかな笑みを浮かべ、そっとフロリアの頭を撫でた。フロリアは少し照れたように鼻を鳴らすと、体を小さく震わせた。
「なるほど…ただの装飾品ではなかったんだな、その羽は」シバトは低く呟き、フロリアの羽をじっと見つめた。「興味深い…」
彼女の鋭い目は、普段はあまり目立たないフロリアの羽が、今でも微かに光を放っていることを見逃さなかった。
「ふん……まったく、この店には変わったやつらが揃っているな」
シバトは小さく笑い、立ち上がると、再び街の喧騒へと歩き去っていった。しかし彼女の表情には、ただならぬ興味の色が浮かんでいた。
朝の小さな騒動は落ち着き、りょりょ亭には再び穏やかな空気が戻る。フロリアは普段通り、ホールの中を楽しそうに駆け回っている。
「さあ、今日も開店するよ」リョコが明るく言い、オリンも頷いて仕事に戻っていった。
誰もがいつも通りの日常に戻っていったが、この小さな出来事が、これからの『りょりょ亭』に何をもたらすのか。
