ストア派は気持ちいい

去年ぐらいからストア派を読みつづけている。なぜかといえば、気持ちいいからだ。「抜けがいい」という言い方があるが、そんな感じかもしれない。
哲学は研究の上でも読んできたし、若いときは周囲の環境に押されて読まざるをえないところもあった。いわゆる現代思想とかポストモダンとかいうやつだ。もちろん、ああいうものを喉元に引っかからせる経験は必要だったのだろう。気道を広げてくれた、という気がする。感謝である。
ただ、中年の今となっては、もう少し違うものを心身が欲しているらしい。甘くもなければ酒でもない、ストンと腑に落ちる清い水、みたいなものだ。最初は宗教かなと思い、仏教やキリスト教にもいってみた。でも乗りきれず、(パスカルじゃないが)全betできないことに気づく。
それで曲折の末、ストア派に来た。たぶん自分にはちょうどよかったのだろう。西洋で、しかもキリスト教以前。無神論でもないが、一神教の縛りもない。彼らは「神」ではなく、「神々」と言う。個人主義的で、理性的で、妙に風通しがいい。
ゼノン、クリュシッポス、セネカ、エピクテトス、ムソニウス・ルフス、マルクス・アウレリウス……読む前はもっと「男らしさ」や「克己」の硬い哲学を想像していたが、実際はそうでもない。むしろ反対物を受け入れる度量があり、中庸と寛容を大切にする哲学だ。厳しい自己鍛錬を説きながら、ゆっくりでいい、他人に教えを乞うていい、とも言う。キュニコス派みたいに今すぐ全部捨てろとか、エピクロスみたいに0/1で割り切れとも言わない。「妥協」や「猶予」が認められている。
私は賢者ではないし、また、こう言えば君の悪意の火に油を注ぐ結果になろうが、将来も賢者にならないであろう。だから、私に何かを要求するにしても、最善の人間に匹敵する人間であれ、とではなく、悪人よりはましな人間であれ、と要求してもらいたい。私には、日々、自分の過ちを責め、自分の欠点から何かを取り除くことができれば、それで十分なのである。
かと思えば逆もある。意外にやさしいんだなぁと油断していると、急に喉元へナイフが来るような。たとえば、「退出」の自由。彼らは事あるごとに「ドアは開いている」とか「いつでも出ていっていい」とか言う。なんだ、逃げ恥でいいのか、そりゃそうだよね、じゃっ!と出ていきそうになるのだが、実はこれ、自裁のことだったりする。
私もたくさんの人の隊列に並んで、たくさんの人とともに歩くことにしよう。しかし、大事なのは、ドアが開いていることを忘れないことだ。そして、子供たちよりも臆病になってはならない。
一見みんなに合わせて、ついていっているように見えるが、実はまったく違う次元を生きている。死をつねに思い、運命を受け入れ、もし自己の根幹が犯されたときは、こちらから運命を迎えにいく勇気をもつ。
これが「気持ちいい」の代償? 代償の伴わない快楽なんて、とちょっと若ぶって思わないでもない。
