謀りごとにはうってつけの殺人 [3/3]
5
「寒すぎる」
早朝のカフェ、店の奥側のテーブル席で待っていた西條に磯山は不機嫌に告げる。勤務時間前とのことでひとりでやってきた。
「善良な学生を脅してまで捜査協力させてるんです。寒いくらい我慢してください」
西條の住む賃貸マンションにほど近い個人経営のカフェで、駅前や大学近くにもカフェがあるせいか常連客以外にほとんど客の姿はない。その常連客もだいたい午後にやってくる。秘密の話をするには都合がよいだろう。
「午前中はあまり客が来ないせいで、店主がケチって営業開始と同時にエアコンを入れるんです。もう少ししたら暖かくなってきます。ホットコーヒーでよいですか?」
店主こだわりのネルドリップコーヒーは抽出に時間がかかるが、そのぶん上等で気に入っている。落ち着いて論文を読みたいときなどはこのカフェを利用している。
「どうだった?」
「先に結論を伝えますと、残念ながら決定的な証拠は得られていません。昨日聞けた範囲にはなりますが、順を追って話します」
田端が大学院入学を餌に見返りを強要していたこと、その動画が田端のスマートフォン内に保存されていることを離す。磯山は明らかに不快感を顔に浮かべていたが口を挟まず最後まで話を聞いた。
「ただし田端が犯人かというと、その限りではありません。これは後から説明します。その前に刑事さんに確認したいんですが、田端はこれだけで罪に問われてしまいますか?」
「強制性交等罪にあたるかどうかってことなら詳しく調べなきゃ分からない。芹崎が動画の外で誘惑したかもしれない。正直、罪に問われない可能性も十分にある。もちろん、殺人を犯していたなら意味合いは変わってくるが」
西條は口を結び、視線をカウンターにやる。カウンター奥では店主が布フィルターにお湯を注いでいる。もう少しでコーヒーを持ってこちらへ来るだろう。声量を抑える。
「警察では捜査に進展はありましたか? 自殺や別の人物に殺害機会があった可能性は?」
磯山は首を横に振る。
「詳細な進捗はこれから署に行かないと分からないが最低限は確認した。君には悪いが、それらの可能性は低い」
「……そう、ですか」
西條は肩を落とす。無言の時間が続いたところに店主がコーヒーを持ってきた。西條と磯山は口に含む。香ばしさと温かさが強張った身体をほぐすようだった。店内もちょうど暖かくなってきた。西條はふたたび説明を始める。
「マリーも芹崎玲に会っていたんです。田端のあとに」
面会の目的がテム社への入社斡旋であったことを告げると磯山は大きな溜め息をついた。
「芹崎もよっぽどだ。決してお淑やかな学生って枠組みには入らない。それはそうとして田端よりあとに会っていたとなると、雨宮が犯人の可能性がぐっと高くなる」
西條は首肯する。田端が戻ってくるリスクが高いという考えに磯山は同意した。
「ただし智が館内に戻れないかというとそうでもないんです。扉を開けるとブザーが鳴りますが、窓口で退館記録を記入してすぐのブザーは事務員も去っていく姿までは確かめないんです。だから扉を開けて外に出なければいい。芹崎と同じようにカウンター下を通れば館内に戻れます」
「しかし扉の開閉でブザーが鳴るんだ。次の開閉、つまり帰る際に鳴る。入退館の処理をしていないのにブザーが響けば事務員は気がつく。不審なブザーに関する報告など受けていない」
「入退館時の記帳がよくないんです。髙山会館に侵入者が現われたことなんてこれまでに一度たりともない。入ったところで人も物も金もない古いだけの建物ですから。事務員も暇だからなるべく早く帰りたいと思っている。記帳した最後の人物が退館していたら午後九時の閉館よりも十五分は早く出入口のセンサーを落とします。センサーが落ちて施錠される十五分間の間に外に出れば問題ないんです」
磯山は頭を抱える。
「最悪だな。そのことを知っていたのは?」
「何度か閉館まで使ったことがある人物ならほとんどが知っているかと。森瀬研の学生や職員なら間違いなく」
「じゃあ雨宮も知っていたことになる。田端の場合、戻ってきても雨宮と鉢合わせをする可能性があるが、雨宮の場合は芹崎玲が館内に残っていた場合はノーリスクで戻ることが出来る」
「ええ。芹崎はマリーと一緒に出ることはせず、電話があるからとその場に残ったそうです。一方で、たとえリスクがあっても田端にも合流が可能です。マリーと別れたら連絡をするように伝えていたかもしれない。それは通話記録が残る電話じゃない方法でもいい。田端であれ、マリーであれひとりになった芹崎の背後から不意をついて絞め殺すことは可能です」
続けて土曜日の夜にマリーが西條のマンションを訪れたことを伝えるか躊躇する。仮にマリーが犯人であって、犯行後に西條のマンションを訪れたとなっては共犯として疑われ面倒なことになる。一瞬そのような考えに陥ったがすぐに改め、磯山に伝えた。マリー相手に事情聴取をするのであればどうせ知られるのだ。
「その時の雨宮の様子は?」
「明らかにおかしかったです。しかし事件との関係性については何とも言及しようがありません。というのもマリー、雨宮さんは夫の修平さんとの関係が悪化して金曜日からふさぎ込んでいました。悲しみの感情に支配されていた」
磯山は眉間に皺を寄せた。変に共犯を勘繰られるよりは早々に対処した方がよいと、西條は磯山に問いかける。
「ちなみに僕についてはいいんですか? もしマリーが犯人なら芹崎玲を殺害後に僕の元へやってきたことになる」
「ん? 君、土曜日は何もしていないだろう? 朝から夜中まで、ずっと研究室に居たんだから。芹崎との関係性も洗ったけどまったくかすりもしなかった。雨宮が犯人だった場合は改めて話を聞かせてもらうけど」
飄々と言い放つ。抜け目のない刑事だ。磯山はコーヒーカップを大きく傾けると、そっとソーサーに戻した。
「ここ、閑散としている割には美味しいコーヒーを出すな。ふう温まった」
西條は笑みを浮かべると、同じようにコーヒーを飲み干した。
「状況を整理しましょうか」
ノートPCを取り出し、磯山の言葉を打ち込んでいく。
一、防犯カメラを止めたのは? ――田端
二、芹崎玲を会館に忍び込ませたのは? ――田端
三、芹崎玲と会ったのは? ――田端、雨宮
四、閉館直前、殺害の機会があったのは? ――田端、雨宮
五、絞殺に使われた凶器は何か? ――不明
六、凶器はどこへいったのか? ――不明
七、面会の目的は? ――田端(進学斡旋と性行為強要)、雨宮(就職斡旋)
「さっぱり絞れない。まあミステリ小説のようにはいかないか。一、二については田端が手引きしたけれど、単純に芹崎に性的な見返りを求めることを目的にしていたのかもしれない。殺害機会はふたりともにある。面会目的が殺害動機になるか? 雨宮も例えば金銭を見返りに受け取っていたとすれば、それをバラすと脅されたとか?」
磯山はぶつぶつと呟きながら、様々な可能性を浮かばせては潰している。
「そもそもあのふたりはどうやって芹崎と連絡を取っていたんですか?」
「芹崎からSNS経由でダイレクトメッセージを送っていたようだ。履歴が残っている」
マリーの証言と一致している。田端はマッチングアプリ経由の可能性もあることを伝えようと思ったが既に調べられていた。
「芹崎と同じゼミの学生に話を聞いたところ、どうやら芹崎は十一月の学会の懇親会で森瀬教授に話しかけていたらしい。その時に他大学から入った田端のことやテムからきた雨宮のことを聞き出したのだろう。よし――」
磯山は背筋を伸ばして唸った。
「一晩にしては上出来だ。あとは俺たちがやる。不倫のことは黙っててあげるから心配しなくていい。まあ学友か恋人、どちらかを失うことになるが、恨まないでくれ」
「何も力になれていないでしょう」
「どちらかに絞ることができない、そのことが分かったんだ。十分だよ。じじい連中に頭を下げるのは癪だが、今回は正攻法をとるさ」
立ち上がった磯山は伝票を拾い上げ、颯爽と去っていった。打ち込んだノートPCのメモに視線を落とす。いまだ明らかになっていない凶器の特性と在り処が重要になってくる。そうであるならば、警察が期待するのはふたりの近辺から凶器が出てくることだろう。ふたりから話を聞くだけでなく家宅捜索に踏み込む可能性が高い。
計画的な犯行であるならば賢いふたりのことだ。凶器は既に処分されているだろう。一方で衝動的な犯行であればどうか? 凶器の処分には慎重になるはず。いったんは手元に置いておき、いまなお処分の方法を考えているかもしれない。
どちらかを失う。あとは磯山ら警察の捜査に委ねるしかないのだろうか?
6
自宅に戻るとまだ寝ているかと思っていたマリーの姿が見当たらなかった。嫌な予感に慌てて部屋中を確認するが、それが杞憂であったことに安堵する。寝間着も歯ブラシもメーク品も変わらずに置いてあった。マリーは今日代休のはずで、今夜もここに戻ってくるつもりだろう。
できればマリーが犯人でなければよい、と思う。しかしながら犯人であればあったで事実を受け入れるであろう自分に嫌悪感を抱く。結局は自分に火の粉が降りかからないのであればそれでよい人間なのだ。
研究報告の資料はできていない。森瀬に小言のひとつでも言われるかもしれないなと頭を掻く。せめてもの悪あがきにノートPCを開き、実験データの解析を進める。
昨夜はあまり寝ていない。ぼんやりとする視界では画面の小さな文字が余計に眠気を誘う。水を一杯飲むと、テレビディスプレイから伸びたHDMIケーブルを手に取る。その瞬間、違和感に襲われる。原因はすぐに分かった。テレビディスプレイにPC画面が投影されない、ケーブルが死んでいる。そしてそのケーブルは西條の私物ではなく森瀬研の備品であった。
負の感情に支配されつつあったとはいえ、マリーが二日連続で西條の元を訪れた理由はここにあったのだ。マリーは芹崎と会った日、西條の元に直接やってきた。寂しかったと震える肩を抱いた。背筋が凍る。眠りにつく西條を横目にマリーは黙々とケーブルの入れ替えを行ったのだろうか? 今日もマリーは戻ってくる。凶器となったケーブルを、安心して処理できる機会を窺って。
『今夜、話がある。理由は言わなくても分かるよね? かならず帰ってきて欲しい』
マリーへメールを投げ、西條はコートを掴み取るとマンションを飛び出す。
磯山には悪いが決して自分は清廉潔白な人間ではない。真実などはどうでもよい、と西條はこころの内に呟く。救える可能性が高いのであれば救うことは厭わない。
今のままではマリーが逮捕され余罪もありそうな田端も強制性交等罪にかけられるかもしれない。息があがる。南門から大学に入り、最短経路をとって北門へ向かう。田端のアパートは北門からそう離れておらず迂回するよりも大学を抜けた方が早い。
アパートの二階、三部屋が並ぶうち最奥の部屋まで一気に駆け抜ける。勢いもそのままチャイムを繰り返し鳴らす。反応はない。扉へ激しく拳を打ちつける。しばらくすると鍵が回される音がした。
「うるせ――なんだ悠じゃん。どうしたんだよ」
戸惑う田端を押しのけて部屋へと入る。掛布団が人の形に浮いている。今まで寝ていたのだろう。言葉を発しようにも息が上がりうまく話すことができない。
視界のすみに田端のスマートフォンを見つけた。拾い上げて田端へ突きつける。
「消せ」
「は?」
「いますぐ芹崎玲の動画を消せと言っているんだ」
「な、なんでそれを」
「もういい」
呆気にとられている田端を無視して、スマートフォンからマイクロSDを取り出す。動画データは本体ではなくこちらに保存されていた。西條は小さな板状のそれをとまどうことなく圧し折った。
「おい、ふざけるな」
「こっちのセリフだ。警察がくる」
詰め寄る田端を制する。
「え、何だよそれ。なんでバレたんだ」
混乱する田端を無視して話を続ける。
「PCにも似たようなデータが入っているんじゃないか?」
両手で頭を抱えていた田端はぴたりと動きを止め、慌てて西條を向く。
「あ、ある。ノートとデスクトップに」
「復元できないように物理的に破壊した方がいい。ドライバーとハンマーはないか? 俺はデスクトップをやるから智はノートの方を」
ドライバーでデスクトップPCの側面を開く。筐体の中には様々な部品が繋がれているわりに隙間が多い。ハードディスクを取り出してふたたび蓋を閉める。
「よし、ハンマーを貸してくれ」
田端は西條に背を向けハンマーを振り下ろしている最中だった。激しく打ち下ろされるハンマーから鳴る甲高い音を繰り返し聞いたのち、西條も同じようにハードディスクが変形するまで叩き続けた。
「これでいい」
「いったいどういうことなんだ? なぜ警察が俺のところに来る?」
西條が漏らしたとは口が裂けてもいえない。
「分からない。警察に知り合いがいるんだが、刑事が芹崎玲の事件を調べていたらしい。いいか、逃げたら追われるぞ。怪しい状況ではあるけど証拠は消えたんだ。堂々としてろ」
田端は無言で頷き、崩れ落ちるようにして座り込んだ。目は虚ろとしている。
玄関脇のゴミ箱に圧し折ったマイクロSDを投げ入れる。扉を開けると冷たい風が吹き荒れていた。西條はフードを深々とかぶり、激しい風の中を抜け大学へと向かった。
姿を見せない田端について気にする者はほとんどいなかった。森瀬でさえも研究報告のない西條をたしなめるついでに田端の行方をちらりと聞いてきただけで、知らないと答えるとそれきり気にする様子はなかった。
早々に研究室をあとにする。スマートフォンを取り出すがマリーからの返事はない。彼女の元に磯山はやってきただろうか?
玄関にはていねいに揃えられた馴染みのショートブーツがあった。ブーツの持ち主はカーペットの角で膝を抱え込むようにして座っていた。
「マリー? ただいま」
マリーはそばかすの散ったやわらかい頬を涙で濡らしていた。
「……ごめんなさい。迷惑をかけるつもりじゃなかった。ごめんなさい」
泣きじゃくるマリーと同じ高さに顔を持ってきて両肩に手を添える。震えが伝わる。西條は苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「もう大丈夫だから落ち着いて」
マリーは手を震わせながら、テレビディスプレイを指す。
「ケーブルは? どこにいったの?」
西條のスマートフォンが着信を告げる。画面には磯山という文字が表示されている。
「田端を捕まえた。自宅のデスクトップPCの中に凶器を隠し持っていた。わずかながら芹崎の皮膚片が付着していた」
「そうですか」
「君、教えただろ? ハードディスクがすべて破壊されていた。芹崎以外にも余罪があるかもしれないのに。洗い出しに手間がかかってしょうがない」
知らないの一点張りで通す。
田端の家には何度も足を運んでいる。凶器となったケーブルは研究室の備品だった。西條やマリーの指紋は残っていてもおかしくはない。
「……はい、では後日あらためて」
マリーの涙は止み、呆然と西條を見上げている。
「田端が芹崎玲殺害の容疑で逮捕された。本人は否定しているらしいけど、凶器が見つかったから決定的だろうって。マリーと会う前に芹崎さんを強姦していたことも決め手のひとつだったみたい」
マリーは目を見開き、口元に手を当てると声を懸命に抑えながら涙を流す。
「田端は褒められた人間じゃない。これでよかったんだよ」
嘘を吐く。マリーの中で田端が最悪の人間になるように。
マリーが殺害に及んだ理由に特別な事情はなかった。理由なき殺人は誰もが疑問に思うはずだ。それでも殺人は起こった。
あの日、テム社に入る資格がないことを告げると芹崎は怒り狂った。修平の件で悲しみに暮れていたマリーはかなり厳しめに伝えた。このことがまずかったのだろうとマリーは推察していた。二回の平手打ちを受けたマリーの悲しみは一転し、一気に怒りの感情に支配された。
今となってはおぼろげで自分自身の感情とは到底思えないほどだったらしい。
怒りに湧くマリーは前日の実験で使用したケーブルがバッグに入れっぱなしであったことに気がつき、背を向けた芹崎を後ろから絞めた。死体を踊り場まで運び寝かすと、通常の手続きで髙山会館をあとにした。凶器を自宅に持ち帰ることはどうしても憚られて、期間を置いて処分しようと西條のマンションに向かった。
以上がなんてことはない荒だらけの事件の顛末である。
研究の邪魔になるものを取り除くことができるのであれば労は惜しまない。西條は今回の件が持ち込まれた時、そう決心した。これで森瀬の期待は西條にのみ注がれる。研究の邪魔となる田端を取り除くことができた。謀りごとにはうってつけの殺人だった。
マリーを抱きしめながら、今回の件で副次的な感情が生まれていることに西條は研究者としての喜びを見出した。ウィリアム・ジェームズに捧げたい。
愛するから助けたのではない。助けたから愛している、と。
《西條悠の非開示研究メモ》
被験者1(刑事I、三十六歳、男性)
Iは殺人事件の捜査協力を依頼するため、報告者Sの元へ訪れた。テトロミノ実験およびホットコーヒー実験のふたつの検証結果より、Iが触覚からのフィードバックに影響を受けて情動や判断が変容しやすい人物であることを見出した。そこで捜査協力を受けつつ、Iの判断に対する温度の影響を検証した。
殺人事件の容疑者としてTとAの二名が挙がっていた。Sの調査の結果、ふたりの殺害を決定づける要素はなかった。ただしTは被害者に性行為を強要していたというネガティブな要素があった。そこでIを喫茶店に呼び出し次の二つの条件にて情報を開示した。
(条件A)Tに関する情報提示。外気温五度、室内温度八度。Iの身体は十分に冷えていたと考えられる。喫茶店は店主の意向から開店時に空調設備を稼働させる。I到着時に店内は冷えていた。
(条件B)Aに関する情報提示。室内温度十五度、ホットコーヒーの温度推定六十五度。室内温度の情報やホットコーヒーによりIの身体が十分に温まった頃合いを見計らった。
二条件とも正確な体温は測定できていないが、Sも同条件で温度変化を体感し、十分な温度変化が得られたと認知したあとに実験を行っている。
その後、S宅から凶器のHDMIケーブルが見つかる。Aが持ち込んだもので被害者の殺害に使用されている。SはそれをT宅に持ち込み、Iによる家宅捜索を待った。
結果、Tは逮捕された。今回の実験の影響度は正確には測定できない。しかしながらTが犯行を否定し、凶器の出現についても不可解な点が多いにもかかわらず、IはTの犯行であるという判断を省みようとしなかった。このことからIへの情報提示時の皮膚温度が判断に影響を与え、その効果が持続したことが示唆される。
被験者2(大学教授秘書A、二十九歳、女性。※前出Aと同一人物)
Aには七日間にわたってSが開発したメークシミュレーションミラー(以後、MSMとする)を用いて実際の鏡像とは異なる偽鏡像を提示した。MSMでは顔の各部位の形状や位置、顔色を任意に変化させることができる。試験目的に気づかれることがないようにメーク画像を提示する機器であるとAに説明し、実際には元となるベース画像を変化させて出力提示した。
一日目から五日目までは哀表情を提示した。Aの感情は徐々に負へと変化していった。二日目の夜には夫との感情的な喧嘩を経て、三日目の朝、夫の出張を機にわずかながらに残っていた愛情の一切を失った。四日目には関係性の弱い人物(被害者)からの攻撃に対する反撃として、相手を死に至らしめた。六日目にSはAと対面し、負感情の支配が正常の範囲を超えていると判断し、MSM提示画像を喜表情に差し替えたところ、すぐに正方向に感情が移行した。AはIとは異なり、視覚によるフィードバックにて情動変容が起きやすい性質を有していると考えられる。
以上より、五感刺激により情動を変化させる人間が低い確率ではあるが存在することが明らかになった。希少なサンプルであるI、Aの二名に対して長期的な観察と適宜実験を行う。
