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バイキュリアス、「ふたつの好奇心」

加筆修正(2025/06/29)(2025/06/30)(2025/07/01)

本稿は私が出会い交流した「たった3人」という少ないサンプル数のバイキュリアスから得た証言をもとに書かれてます。(夏休みの自由研究レベル)

「研究ではない」「研究がまたれる」という意味です

性行動における「多様性」

 性的少数者と経験を共有しながら、そこに自認上の境界をもつ人がいる。例えば「同性との性行為に関心をもつ異性愛者」、バイキュリアス。ここでの「関心をもつ」とは「同性間ではどんなエッチをするんだろ?」とつい考えてしまうというレベルではない。実際に、彼らは同性と性的関係をもつ。しかしバイキュリアスたちにとって恋愛や性愛の対象は異性なのだ。彼らは同性との性的関係を実践するが、その行動ゆえ性的関係をもった同性から同性愛者あるいは両性愛者とみられながらも、あくまでも異性愛者としての自己があるのだ。彼らには自分が性的少数者であるという意識がない。傍目にどう映ろうとも、彼らの「性行動における多様性」は「たしなみ」であり、性的自己実現のパターン、プレイ、性的冒険、個人的な「趣味」として自覚されていた。

 バイキュリアスは性行動の面において同性と親密な関係を構築できる(あるいは同性との性行為に抵抗がない)。彼らは主体的かつ積極的に同性との性行為を選択し、楽しむことができる。個人差で「キスはしない」など禁止事項はあるが、同性との短期的な関係において、それらの制約は必ずしもマッチングの阻害要因にならないと思われる。彼らが相手に選ぶのはゲイであることが多く、もともとゲイ同士においても性行為の内容は多様であるためだ。以下のような「要望」は私がバイキュリアスからヒアリングしたものだが、これがゲイ同士の会話で聞かれたとして、ごく日常的なことである。

ケース1:キスはしないが、ほかのことはしたい
ケース2:身体的接触を求めないが、性器や自慰行為を見せてほしい
ケース3:あらゆる行為を試したいが、デートや交際はできない

事例:バイキュリアスたちの要望

バイキュリアスが抱える「困難」

 「同性との性的関係を実践する異性愛者ヘテロセクシュアル」というバイキュリアスの在り方は、ちょうど異性装者トランスヴェスタイトがジェンダーにおける自己同一性アイデンティティの困難をもたず出生時の身体的性別特徴と完全に一致する性自認をもちながら、服装やメイクで異性化した自己を体験し解放されていくさまになぞらえることができるのかもしれない。個人の実感において「ほぼ恒久的に自己を決定づけている」性的指向セクシュアル・オリエンテーションのくびきから脱した(脱したのではないとしても脱したように感じている)彼らは、一般に屈託なく(見えて)、人生を謳歌しているように映る。

 しかしまさにそのことが、周囲の者をしてバイキュリアスを誤解させる最大の要因であるかもしれない点には、ことさら注意深くありたい。彼ら自身にとっても恋愛を介在させない同性との性的関係は「まるで自己解放の手段であるかのように」感じられているかもしれないし、彼らは実際に「解放されているように見える」が、他の性的指向がいずれもそうであるように「自分で選択したわけではない」「望むように変わることができない」要素を否定できないからである。彼らの性行動自体には不明な点はないが、「性的冒険」や「趣味」であるかという点については、研究がまたれるのである。

 また彼ら自身がアイデンティティ上の混乱を抱えることがないとは言えない。「自分はゲイなのではないか」あるいは「ジェンダー上の揺らぎがあるのではないか」といった困惑がないとは言い切れない。個人差があることを前提にしていなければならない。しかし私が感じた、最も彼らにとって困りごとであろうと思われる点は、継続的な人間関係を構築しにくい点である。同性から愛情を求められたときに応えられず、自身を異性愛者だと語る彼らは、関係した相手から人格攻撃をされる可能性がある。現状において「実際にはゲイで、ただのモラトリアムなのではないか」「ゲイフォビアなのではないか」「ポリアモリーなのではないか」「タイプじゃないから体よく断りたいのではないか」などの疑念をもたれることと、彼らの「性的自己実現」は分けがたくある。それが原因で人間関係が破綻することもある。しかし脆弱な人間関係を基盤にしては、情報やケアは受け取りにくくなるのである。
 ほぼ間違いなく彼ら自身のことでありながら、私が出会ってきた彼らは「バイキュリアス」という用語さえ知らなかった。自らを呼びならわす呼称さえ知らずにいることは、社会との隔絶を意味してしまう。そのワードを足掛かりに同じ立場にある人と結びつくことが難しくなるためである。

 そして重要な点として、彼らが異性愛者社会からも排除されやすいことを書いておかなければならない(ここにどんな説明が必要だろうか?)。それゆえ彼らは「異性愛者同士の空間において」カミングアウトしない。ヘテロ社会では「同性と性交渉をもつことで」ゲイ社会でも「ゲイではないことで」排除されるリスクがあった。つまり彼らにはふたつ、身を隠すクローゼットが必要だったことになる。


RYOJI概観 

 行政用語に「MSM」という語がある。Men who have Sex with Men 、日本語では「男性同性間性的接触者」とされるようだ。偶然にもそうした用語を耳にしたとき、「なぜそのように勿体ぶった言い方をするのか。ゲイと言え」と思う方もいるだろう。しかし性的多様性に親しみ、今回でいえばバイキュリアスについてこうして考えてみたとき、「MSM」がゲイのみを指すのではないことが、現実感をともなって納得できはしないだろうか(もっと言えば、ゲイやバイセクシュアル男性の全員がMSMなのでもなく、個々の理由から性行為を行なわない者もいる)。

 本稿で書きたかったのは、「セクシュアル・マジョリティに(も)ある」多様性である。私たちは自他をごく狭い視点で眺め/言い表すことに馴れてしまっているが、時々は冷水を浴びせかけられなければならない。そして自他の人生を規定し生き方を狭めようとする習慣から解放されなければならない。マジョリティについて言えば「制度的に抑圧されていない」立場のみをもって「安全」とされ「語るべきことがない」とされる場面があまりにも多い。しかし個々が心を開き、人々が誠実にその言葉に耳を傾けるのであれば、おそらくセクシュアル・マジョリティも――きっと予測された通りに――多様な生を生きているのだ。私たちが性的多様性を見つめて、最後に見る光景はそのようなものだろう。安全を得て、誰もが自己のありようを受容できた姿だろう。多様性のなかにあなたもいる。シスジェンダー(身体的性別特徴と自認性別が一致する者)であることも、ヘテロセクシュアル(異性愛者)であることも、多様性の「型」であることにちがいはない。

 短い歴史の話をしよう。
 ゲイコミュニティ内外においてバイキュリアスは当人の証言を無視してゲイと同定されてきた。あくまでも異性愛者であるという彼らの語りは「ゲイの自己発見や自己肯定の困難」などの「いかにもそれらしい」物語に回収され、しばしば異性愛者への擬態とみなされ、同性愛者としての自己決定を回避する「未熟」かつ「ずるい」態度として攻撃の標的になった。存在を広く知られる前のトランスジェンダーも同じ経験をした。バイセクシュアルもそうだ。アセクシュアルも「本当に欲求がない」と言い続けていた。胸が痛いのは、彼らが自己を説明する言葉を与えられていない当時でさえ、彼らが「自分はゲイではない」などの「人生で揺るがない実感」を伝えていたことだ。彼らが正しかった――彼らは自分が何者であるか、よく分かっていたのだ。しかし、誰も認めなかったのだ。

 私はそうした時代を体感した世代であるし、それゆえ尚のこと、性的多様性の話が好きである。無知だったとはいえ、なぜナラティブを聴いてやらなかったのかという悔いもある。もう聴き逃したりしたくないのだ。誰かが「実は同性と寝た。それを求めたし楽しんだ。でも今だって異性を求めているし異性を思ってマスターベーションするんだよ」と打ち明けてきたとき、自分が「ゲイだと認めろ」と責め立てている図は、想像したくない。彼らが伝えようとしているのは、いずれも同じような道筋――先行するマイノリティ・グループとの相違点をつぶさに検証する気の遠くなるような作業――を経て獲得されるアイデンティティだ。それは初めて聴く鳥の声のようで、いま歌い始めようとしている。やがて歌えるようになる。

 ただ、大勢なだけのあなたへ。
 たくさんの人のなかで、皆と同じでなければならないと思うんだろ?
 大丈夫。心配ない。きっとみんな不安だ。他人とちがうんじゃないかと。
 プライド月間の終わりにマジョリティの話ができて嬉しい。
 マジョリティがアイデンティティに悩まないなんて、思ってないよ。
 時々はしんどいだろうなって、思ってるよ。

文責:RYOJI

【追記】私が出会ったバイキュリアスの数を「3人」としたのは、私がバイキュリアスの存在を用語としても認識した「後」に出会ったのが3人だからです。実際には認識できなかっただけで彼らはたくさんいたのかもしれないし、彼らのなかには今も「自分が同性を好きになれないこと」に悩んでいる人がいるのかもしれない。それを心に留めていたいと思います。(RYOJI)


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