雀組ホエールズ 第18回講演「横浜ヶ国」
たまに戯曲を読むことならあったが、観劇の経験はほぼない。
大竹しのぶがサリバン先生を演じた「奇跡の人」とか。いつの話だ。
市村正親が栄二を演じた「さぶ」(前進座)、それも子ども時代。成人してからは強く誘われて宝塚の歌劇を一度観ている。
これが全てであり、それはとても少ない方だと思う。嫌いなんじゃない。ある事情から(後述)ライブが苦手なのだ。
でも今回は note でご縁ができた佐藤雀さん渾身の「作・演出」。約4年の休止期間を経ての上演。どうしても観ておきたいなと思っていた。事前にご連絡はせず(準備でお忙しいに決まってるので邪魔したくなかった)、こっそり行った。実は佐藤雀さんが主宰する劇団「雀組ホエールズ」の演目なら「ありふれた愛、ありふれた世界」を観たかった。先に脚本を読ませていただいていたし、おれにとって初「佐藤雀」作品だから、そちらを先に観るべきだという思いがあった。内容的に佐藤雀さんご自身にとって大切なテーマであるはずだからだし、「どう書いても」心残りがあるはずだと想像したからだ。作者にとってあまりにも個人的な経験であることを作品に落とし込む営為の、作家のその覚悟に打たれたし、その作品から佐藤雀さんと「出会いたかった」わけだ。
しかし今回の「横浜ヶ国」。先に「渾身の」と書いたけれど、今回の作品もどれだけ消耗しながら書いたのだろう、と考えずにいられなかった。
太平洋戦争で無条件降伏を受入れた日本は独立国とは名ばかりの米国の傀儡国である。また「戦後100年目の2045年に日本が米国に吸収される」ことも決定事項として密約されている。
これまでも日本の国政を動かしてきたのは永田町ではなくホワイトハウスだったが、戦後80年を機に米国が俄かに動き始めた。
そうとは知らず永田町の腐敗に憤った横浜市長・二俣川たか子は、
横浜市を日本から独立、横浜国建国の狼煙を上げる。
時の総理大臣がそれを許せば日本が米国に反逆したと思われかねない……。
国とは何か、独立とは何か、そしてひとの幸せとは何か。
これは市長の信念をきっかけに日本が本当の独立国になるまでの物語である。
佐藤雀さんは国政について鋭敏なアンテナを持つ方であるし、憂う人である。劇中の亡国シナリオこそ大胆に想像された筋書きであっても、国民が政治的主体であることを自ら諦めまた奪われもしている現実あってのものだ。
小劇場集団としては異例ともいえる期間を僕が休んでしまいました。次々に起こる実際のできごとがウソみたいなことばかりで、笑い飛ばす力が出なくなってしまったからです。日本全体が自分の国の未来を諦めているようにすら感じていました。
テレビ番組でも政治を皮肉るような発言をすること自体がタブーになっているように見えます。さらにSNSの台頭で、知らない誰かが足を引っ張る社会。知らない誰かに監視されながら日々を過ごす社会。そんな世の中を社会は『自由』と呼んでいる。そんな世の中は楽しいのでしょうか。
閉塞感は誰でも感じているし、焦燥を言葉にもする。しかしその言葉の後で、何をするか。何をしているのか、それは見えて来ない。その苦しさは私も感じている。叫びたくなる。SNSで発信することでは「何かしたような」気になれるけれど、不満を書いても選挙には行かないのでは何も変わらない。結局かつての学生運動の後、半世紀も日本人は毛穴さえ塞がれたような分厚い諦念を生きているのではないか。佐藤雀さんも私も世代的にそんな時代さえよく知らないけれど、これが「自由」ではないことは知っている。
こんなの「自由」じゃない。
世界は今、「戦前」とも言われているようです。ひたひたと戦争が始まる予感がそう言わせているのでしょう。そのことを誰も食い止めようとせず傍観している。なんとクールな、そしてクレイジーな時代なんだろう。平和はそこに当たり前にあるものじゃない。常に創り上げなくてはいけないものだと常々感じる今日この頃です。
その上で佐藤雀さんは続けて言う。「今回はそんな世の中を笑い倒してやろうじゃないかと」書き、上演するのだと。再起だ。その、間違いなく「渾身」であろうところを目撃できるはずだと感じて、上演の発表から行くと決めていた。待っていた。それで赤坂の劇場を訪れたのだ。「笑い飛ばすことができなくなった」人が、まさにそのテーマで再始動しようというのだ。どう笑い飛ばしてくれるのか、見届けないわけには行かなかった。
私が座った席はE列で、前の方。その辺りは開場するといかにも業界的な方々がちらほらとして、「うわコイツのスーツ余裕で50万以上するだろ」とか思いながら眺めていたのだが、「おれだって佐藤さんの知り合いだし」という余裕で気後れはゼロ。いや会ったことないけどさ、会いに来たんだよ!
そんなことよりも舞台の近さと小ささに驚いた。小劇場はほぼ経験して来なかったから、こんなに間近なのかと、贅沢さに胸が躍った。誰も立っていないステージはもの悲しさを感じる。夢があるからだ。その波動を撮影したかったのだが、できなかった。切なくて大好きなんだよな、誰もいないステージ。まあそれは、いいか、
開演すると、いきなり熱を浴びた。今までの観劇では味わえなかった臨場感。なんならおれの横、何度も役者さんがセリフを言いながら通るし。目が合うんじゃないかとドキドキする。そんなことはないのだが、舞台から客席ってよく見えるものなので(講師業なので知ってはいる)、緊張した。しかしすぐに言葉に呑まれる。飲み込まれる。ネタバレできないのってこんなに不自由なものかと思うけど、「ああこれが佐藤さんの言葉か」と思う。それが役者さんによって命を与えられて飛び交う。絶え間なく笑わされる。「あれ今ハケた上池さんの靴、残ってるのはハプニングだよな」とか、そんなゴチソウ的な瞬間もあるけど、そういうことじゃなくて目が離せない。1時間45分があっという間だった。それで終盤おれ泣き始めちゃって、マスク外して顔を拭いながらで(これだからライブはヤなんだよ!)と思いながらも、「佐藤さんかっけー」と胸いっぱいになってた。
あれ「私」から「おれ」になってるな。割といつもシームレスにそうだけど、全部わざとだけど、今回のは計算外。そんなの恥ずかしいけど「高まった」というだけ。というのは、おれ佐藤雀さんの note を読んでいて問題意識はよく分かるし平和を願ってやまないところは全く一緒でも、プロセスも方法もちがうかもなと感じていた部分はあったわけです。コメント欄にクソ生意気なことを書いたこともあった気がする。でもこの方の熱が大好きで。この人は好きだと思っていて。「この人は信頼してしまう」という、自分のその感覚は信じていて。しかしこれは演劇なのであり、佐藤さんの思いが劇中でどう着地するのか、ステージがどう終幕するのか、運びの難しさを思っていたのですよね。しかしそこが、また見事で。おれ感動したんですよね。「渾身」だった。演劇人としての気概を、見せつけられた。
ネタバレするわけに行かないので難しいけど、例えば戦時中の日本人の描写があって、それは当然「原爆」で終わるわけですよね。これは史実としてそうだからここに書いていいこと。その場面で、おれ思わず目を伏せてしまったんですよね。これは「それほど引き込まれたということ」、その一例なんですが、他でも「平和」への思いに打たれて、泣かされてたわけです。「なんだこれ。演劇すげえ。小劇場いいなあ」と思わされた、まんまと。

そして帰り際、佐藤雀さんにお目にかかれて。「お世話になってます!」とご挨拶させていただけて。こちらは緊張していたのですが、予想外に喜んでいただけて。「来るかなとちょっと思ってた」そうで、なんだバレバレだったか、と……。ハグまでしていただいて、とても光栄でした。
平和への思い、受け取りました。あと、小劇場が大好きになりましたよ、佐藤さん。佐藤さんすげえなって元々思ってはいたけど、プロのプライドに打たれました。言葉の力を信じようと思わせてくださったので、その点でも深く感謝しております。ありがとうございました!
明日も公演はあるので、もし観に行ってくれる人いたらな、なんていう下心から急いで書いてしまいましたが、やっぱいいですね、ドラマ。大好きだ、ドラマ。
