性的少数者についての講義で語ること
お疲れ様のアイスを食べつつ。書き終わったらゆっくりお風呂に入る。

性的少数者について語る言葉は、「そうあるべくして」変化する。
「差別は思いやりでは解決しない」の著者である神谷悠一は、性的少数者についての講義が「そんなに教えることがない」とイメージされていることを、「思いやりで全てが解決できるような問題だと」簡単に考えているからではないかと推測している。
大学でジェンダーやLGBTQについて教えていると言うと、知人に半笑いで「そんなに教えることあるの?」と言われることがよくあります。企業で施策をアドバイスしていると言うと、「アドバイスするほどの内容ってあるの?」などと疑わしげな視線を投げられることもあります。前述してきたように「思いやり」ですべてが解決できるかのような問題だと思っているから、というのは穿った見方でしょうか。
神谷氏が遮られた壁が「思いやり」であるなら、私が苦労するのは「共感」だ。この note も例外ではないが、「共感して終わりにできると待ち構えている人々」が無行動のまま終わろうとするところを、いかにくぐり抜けて「具体的に行動を起こす」アティチュードに持って行くかが勘所なのである。しかし戦後人権教育は社会の整備ではなく個人の「思いやり」「共感」をゴールにして来たのであるから、壊そうとしても壁は分厚い。近頃じゃ「共感」と聞けば脂汗が出る——そりゃ、おでこもテカるんである。
みんな同じ苦労してるんじゃないかな。間違いなくね。全ての社会的マイノリティ問題で絶対に同じ苦労をしているはずだと、確信をもって言える。
性的少数者だけじゃないはずだ。
「難しい問題だと思いました」
「思いやりをもって接して行きたいと思います」
それで終わるのではなく、その先に行けるように導くための言葉が要る。
「マイノリティとして」話しに行く気分なんて、とうの昔に捨てた。私は共感を求める「弱者」ではいられない。看護学生たちの前では、自分がゲイという属性さえ邪魔になるほどだ——「現場に出る前に少なくとも一度はゲイと90分のラリーをした」と自信をもたせる意味の他には。
帰宅途中、修理が仕上がっているはずのボロ靴を引き取りに行った。
「今お履きになってるの、良い靴ですね」
「通勤用はひどいんですけど、今日は派手派手の日なので」
「そんな日があるんですか。スーツも俳優さんみたいですもんね」
いや俳優みたいなスーツを着て明らかになるのは「その人が俳優じゃないこと」なんですよ。俳優じゃない人が俳優っぽく見せたいなら、こんな服は着ないことです——と言いかけ、「講義は終わっただろ」と思い直した。
これはただの会話だろ? 脳を休めようぜ。
それとも言うのか? 「ミリも退けない日だったんです」、なんて。
「はははは。たまにカッコつけたいじゃないですか」
「そんな日だったんですねえ」
「同性婚法制化への後押しを最高裁に求める」署名運動に、ぜひ。
6月7日(締め切り日)まで貼って呼びかけます。よろしくお願い致します。
