Long Version/活動家をやめる「目的」
少し前に、Short Version というタイトルで「活動家をやめる」と書いた。この記事ではコメント欄を閉じた理由と再開する「条件」も併せて、心の中で何が起きていたのかを書こうとする。ロングバージョンと言っても、さほど長くはならない。
そもそもなぜ「ゲイアクティビスト」と名乗ったか
私がゲイアクティビストと自称したのは出版した時だが、以来コミュニティ活動から離れて、講師業しかやっていない。どこかの活動団体に所属したこともない。短期間だけ性暴力被害者女性支援の活動に携わったことがあるし、市民向け連続講座の企画などにも関わったが、それだけだ。それでも「活動家」と名乗り続けたのは、ネットで活動家が悪しざまに言われていたからだ。
活動家は背中から撃たれることも多い。note でもゲイが「活動家とかじゃありません」なんて自己紹介をしているような状況があるだろう。「だからこそ」活動家と名乗り続けていたのだ。
「活動家で悪かったな。文句あるなら言えよ。おれをクサシてみな」
そう言うためであった。バカバカしいが、そんなバカバカしい世界におれは生きてる。自分がそんな社会の置き石でありたかった。
ではなぜ「ゲイの活動家と名乗ることをやめる」のか
同性婚法制化が、「ゲイのための施策」だと思い違いされているからだ。
世間はこれが「ゲイ擁護派」と「ゲイ否定派」の対立だと考えている。唾棄すべき愚かしさだが、ゲイすらそう思っている。だがもちろんそうではない。今起こっているのは「人権擁護派」と「人権さえ手放してしまう国民」の分断である。だから私は「ゲイ擁護」ではなく「人権を死守する一国民」としての立ち方を選ぼうとする。そのことで社会に「問い」を置く。
「当事者」とは誰だ? 全国民だ。
これは「人権を特権化させないための」闘いだ。
これが人権問題であればこそ、もう私はゲイのことを考えなくてよい。人権を国民の最後の砦と守るだけでよい。あなたもそうだ。
問われているのは「誰かの感情で、一部の国民の権利が脅かされる日本にしてもいいのか」、そのことなのだ。
note のコメント欄を閉じた理由と、再開の「条件」
先の解散総選挙で、多くの有権者が「同性婚反対」を掲げる高市首相を支持した。私はその時点で「国民」ではないと国民から言われた形である。
オーケー、だったらちゃんと「分断」を生きようぜ。
それがコメント欄を閉じた理由だ。
戦争前夜なら、戦争前夜を生きる。そういうモンだろ。そうすべきだろ。おれを国民から外すなら、せめてちゃんと背負え。おれも背負う。そうじゃなきゃ、経験から学べないだろう? この苦しさをちゃんと経験するんだ。
「友達じゃなかったのか?」と思う? 同じ気持ちだよ。でも分断ってこういうことなんだよ。制度ってこういうものなんだよ。国民を分けちゃいけない局面で、決定的に分けてしまうんだ。
まだ終わりじゃない? 分かってる。最高裁判断がある。
だからこそ「ここでは間違わないでくれ」と、立っている。
「人権のために」動いてくれ、と祈っている。
同性婚の法制化が実現したら、コメント欄は再開する。
国民が人権のために立ってくれたら、今度こそ同じ「国民」として。
「同性婚法制化への後押しを最高裁に求める」署名運動に、ぜひ。
6月7日(締め切り日)まで貼って呼びかけます。よろしくお願い致します。
確か7日は東京のパレードだよ。都合つくなら、ゲイ嫌いな人も歩いてみたらいいさ。一緒に歩くべき理由が、今はある。
おれ……は、引きこもって書いてるんじゃないかな。いつもひとりパレードなので。
記事をご紹介いただきました
たよろよろ図書館DATABASE 様、ありがとうございます。
