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ヘイトは女の顔をしていない

映画「ソフト/クワイエット」を鑑賞。90分の地獄だった

 DVDを購入してから一年以上、観ないまま放置していた映画でした。放置していたことには特別な意味はありません。単にまとまった時間を取れることがないし、感受性の面であまり響かない現在なので小説や映画がもったいないのです。筋肉と同じで以前に鍛えていたから戻りやすくはあり、記事を書くときは戻せばよいのですが、作品に没入するところまでは戻らない。集中してない感じが自分で分かるんですよね。で、「もったいない」になる。
 しかしこの映画は、そんな人間にも怖い。「命の危険を感じる」のです。

ワンショットの映像、リアルタイムで進む物語。

 単純に技術面の話にしても、これは大した映画だ。カットはなく、ずっと長回しされるカメラ。カメラマンも俳優も脚本とカメラワークを完全に理解していなければならない。そして役者はそれぞれの役柄の性格と行動を、凄まじい集中力で生きてみせる。「それは舞台演劇も同じことではないか」と言うならばそうなのだが、舞台なら例えば「袖」がある。ライトの切り替えも幕間もある。観客に「見せる領域」と「見せない領域」は自明と言える。だがワンショットの映画ではカメラが切り取る画角が「舞台の袖」と舞台の広さを決めるのだ。学校のトイレを出る、学校の外で少年と話す、山道を歩く、メンバーと合流して教会へ行く、——メンバーたちが乗り合わせバンでスーパーへ移動するならカメラマンも同乗して車内での展開が収められていく。完璧な絵コンテと綿密な打ち合わせがなければできない。

 カット割がないことの手法的限界を指摘するのであれば、清掃員のシーンを挙げることができる。主人公エミリーは清掃員の正面を見ているが、観客は清掃員の背中と黒髪を見るのであり、それが全てだ。清掃員の顔は見えずエミリーが向ける視線で「歓迎されざる人物」であるらしいことがわかるだけだ。しかしそんなところにも観客の緊張感が生まれる。観客の、限られた視点。私たちは自由に見るのではなく「観るべきもの」に視点を固定された不自由を味わう。それは常なる映画体験だっただろうか? そのはずだ。しかしこの映画ではその拘束が身の置きどころない不安をかき立てる。そして90分後、あなたは壊れる。

開始5分で異常性に打ちのめされる。

 主人公エミリーが「善良そのものの」女性たちと結成するのは、白人至上主義のグループである。教会で行なわれるその会合で、観客はエミリーの不安定で攻撃的な性格に気づく。エミリーが自宅で焼いたパイをカメラが捉えるとき、またメンバーが不用意に「会合の反社会的面」について失言した際の怒りに観客は震えあがるだろう。しかしエミリーの異常性は教会のシーンの手前、顔見知りの少年との対話で「優しく/ひそやかに」示されている。開始後5分間で示されているのである。エミリーはその意味が理解できない子どもにパイと絵本(犬のスノウシロの物語だ)を見せているのだ。後のシーンで「それがどんなパイだったのか」知って観客が受ける衝撃は、「この女は小さな子どもにこのパイを見せた」という吐き気をともなう嫌悪感で増幅する。「男の子でしょ」とエミリーが少年を励まし、移民であろう清掃員に「指導」するよう行動を促す、その「支配者(化)教育」を、観客はパイを見せられて思い返すのだ。この少年に対するレイプそのもののシーンは、この全編に渡って悪を煮詰めたような映画においてさえ、極めて醜悪だ。

 メンバーに「夫に従順な女性」であることを説くエミリーは、後のシーンで「妻から腰抜けの男と思われていいのか」と夫を脅し、囲い込んでいく。観客が「社会が男性の暴力を非難してみせつつ奪わない理由」を思い知らされる場面だ(この映画において「も」男性はレイプ要員である)。

 単にレイシズムだけの映画ではない。どちらかというと「レイシズムにハマる思考の癖をもった人がそれだけではなく多くの問題について解決能力がない」点が示されて、「ああ地獄を作りその中で生きる人たちだ」と思う。現代のレイシズムはその本質において/実態において、思想というより思考(の癖)だと感じた。そもそも差別は論理的ではないのだ。「白人だけの社会」を彼女たちは目指すのだが、互いへの侮蔑、支配、攻撃、偏見が果てしない。明日彼女たちの夢が実現したら、今度はその白人だけの土地で分断が始まることはあまりにも自明ではないか。差別は「他者」の発見に始まる。人は排除するために「他者」を探すのだ。これが終われば次の敵を必要として、決して終わることがない。では差別をやめさせるものは何か。私はまたその宿題に戻っていく。

90分間でヒトって破滅できるもんですか。こわ。

 この映画が恐ろしいのは、リアルタイムで物語が進行するだけに、メンバーとの出会いがあり集会がありスーパーへ連れ立ち……という展開を、「あれから90分でこうなるのだ」と実感しながら見せつけられるところである。

 冒頭、失望して泣いていたエミリーは破滅の道を突き進む。そして90分後にはエミリーは全てを失っている。その始まりは孤独だったかもしれない。何が自分の暮らしを脅かしているのかという不安や義憤だったかもしれない。心は優越意識と劣等感で分裂しており、その空虚をたやすく埋めてくれるのは「被害者意識」と「怒り」だった。「他者」は常に怠惰で「私たち」のものを奪っている、という怒りはエミリーの心に馴染んだ。なぜ彼らは「私たち」から奪い楽に手に入れているのかという意識が、「正しく生きて来たはずだった自分」のプライドを傷つける。「自分は評価されていない」という怒りが彼女を突き動かしている。

 少し前であれば、誰かが「あまりにも女性像が歪んでいる。インセルが撮った映画のよう。女性に対して悪意がありすぎる」と評しそうな映画だ。しかし今やヘイトは権威的で封建的な中年男性の顔をしていない。ワンタッチテントのように「女性にも扱いやすい(と書くことがそもそもなのだが)」ヘイトが現代には溢れている。パイに何を混ぜてもいいのだ。もしこの(画面に出て来る男性は基本的に善良な)映画が女性に暴力を表現させていなかったら、「ニンジン」のシーンは意味が変わってしまう。レイプ被害者の証言さえ彼女たちは否定する。そしてレイプそのものさえ行なうし、「それは男がやったことだと皆が思う」と計算もするのだ。足元に口を開けている穴は果てしなく暗い。底なく深い。描かれるのは、「口にするだけなら」安全や平和と言うが、自ら安全や平和を崩していく人々の姿なのだ。

 この転落と破滅は遠い物語だろうか? そんなことはない。
 私たち全員に席がある。安心して。いつでもあなたの席がある。


感想:「エラいもん見ちまったけど好き」

 確かに目を背けたくなる映画だと思う。ただ、「おい志めちゃくちゃ高えな!」と思った。書きたいことはいっぱいあって書ききれないのがもどかしいのだが、反面どれだけでも書いてしまうのでやめておきたいところ。

 でもまあきっと、引き続き同じテーマで書いていくのよ。分かってる。

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