強化型人類(おっさんタイプ)
強化型人類と共感型人類。
私は共感型人類だという印象を与えがちなのだが、「逆立ちしても共感できない人も完全に(その人権を)尊重する」強化型人類であって、他者から共感を示されればガッツポーズもするしアイス食ったり踊ったりもするが、人間関係のベースに共感をおかないし、「共感を主たる養分とせず生きられる体質」であり「共感を動機にせず他者を公正に扱うことができる」。それで私は正しいことができる。私は強化型人類(おっさんタイプ)として作られたのだ。人間は共感を軸にしては尊重し合えなかったから、私が生まれたのだ。共感を軸におかないところにこそ共生社会の道があったのである。
創造主はプログラムを書き換えた――「このおれちゃんは自他の守られるべき尊厳だけを見、それを片時も忘れないようにデザインしてみよう」。ふと思ったのだ、「社会における人の扱い問題が全てだといずれ気づくように条件づけてみるか」と――それが今からさかのぼること約50年前のことであった。
「それだけじゃあ、つまるまいよ」
創造主は考えた。この子には困難を与えよう。基礎的なこととして、人となる7歳までにこの世の悲しみを全て見せよう。人が尊厳を奪われるところを。この泣き虫な甘ったれは心を引きちぎられ14歳になるまで夜尿症が治らないだろう。14歳くらいが限界だろう。歪ませてしまって失敗した事例があったからな。しかしその頃に敬愛してやまない父親との別れを経験させよう。まだ追い詰められた母親を助けられない年齢だ。何年も母親がひたすら死に追いやられて行くところを見せよう。この子は自分で動かなければ大切なものを目の前で失うと骨の髄まで知ることになる。大人になるまでの時間の長さを恨むだろう。この子には無力感に耐えられるだろうか。両親どちらの死もこの子を引き裂く。この子は失意から人目もはばからず泣くだろう。ただ本当に絶望させると失敗する。だからほどほどに自己効力感を与える。希望を与えては奪うを繰り返せば、このおれちゃんはやがて自力で希望を作り始めるだろうか? ――素地だけ与えておくか。ほどほどの理知と勇気を。人生の岐路には一人か二人、このおれちゃんを認める人物を配置しよう。高潔で心から尊敬できる人物に認められる経験をさせよう。しかし与えるだけではつまらんな。もう少し苦労させよう。ゲイにしよう。見た目も決して知的に見えない感じにしよう。何の権威もなく、人に話を聞かせるには最大限の努力をしなければならない人物にする。見た目は女から警戒され、ゲイという属性は男を警戒させる。他人に思想を語り聞かせるだけのことでさえ、さぞ苦労するだろう。果たして自分の言葉で他人の心を動かせるかな。――1500グラム。小さいな。まあいいだろう。せいぜい頑張れ。行ってらっしゃい。
創造主に言いたいこと
おれで遊ぶな。――いや、不承不承ながらあなたには礼を言わなければならない。
これは戯れに書いたメモだ。下書きのままフォルダに残されていた。なんだろ。書きつけたとき、「共感ってそんなに崇めるほどのモンか?」と反発してたのかもしれない。共感共感うるせえよ、マジで。社会における人間の取扱い問題が全てであって、共感なんて曖昧なモンで社会を動かされてたまるかなのよ。人は共感を行動の理由にするが、その不在を無行動の理由にもする。
事実、私は自分を共感型人類だとは思っていない。ごく親しい人もそうである。近づいた人はそうである。
だのにどうして共感型人類と誤解されやすいかについて考えてみれば、私が感情を表現するからだ。単に求道的な挑戦なのだが、それとて誰もがすることではないから、「感情表現に慣れていない人には」私はとんでもなくバカか、非常に優しい人物に見える(そしてそれもバカと同義なんだろ?)。
だが、私は根本的にロジカルな人間である。ロジカルに感情を扱うのだ。感情はことごとく表現されなければならない/その重みに相応しいだけの量と熱で表現されなければならないと考えているだけなのである。人は感情で道理さえ捻じ曲げるから、私は感情を見つめることにしたのだ。
感情。別にそんなに好きじゃないよ。愛するだけだ。ここの「感情」を「人間」と置き換えても同じことだ。中2までおねしょが治らなかったのも本当だ。人間も社会もとても残酷なものだと知るところから人生は始まっていたのだ。生まれてみれば、地獄みてえだったよ人間は。なぜ人は共感をチラつかせればおれがそれに縋りつくはずだと考えたの。あんた地獄じゃん。
