歌えるなら、文章なんて書いてない
踊るのが苦手で歌うのも苦手。そんなことさせないでくれ。
断言するけど、歌えるなら文章なんて書いてない。文章は書けば書くほど存在としてセクシーじゃなくなる。ミステリアスから遠ざかる。文章ともセンシュアルな関わりでいたいけれど、今そんな仕事でもない。セクシュアル・マイノリティの話は書くがセクシュアルな要素など全くない。
歌える人はいいな、と思っている。
だってそうだろ。カッコいいとこだけ見せちゃって。
こっちカッコ悪いとこしか見せてねえよ。なんだよこの差は。
MV映像の分割された左側は三重県伊勢市のベーカリー「サイとパン」でのロケらしい(撮影用にマスクを外しています)。伊勢市じゃこんな歌声の兄ちゃん(店主さん)が焼いたパン食ってんのか。ドラマか。
この曲がお気に召しましたらご購入を。→例えばこちらから。パンもな。
でもこれ、かなり高度なことやってねえかしら。なんかずっと観ちゃう。
歌うの苦手だから、そんなことさせられたくない。
若い頃によくカラオケを強要されて、断ると必ず(必ずだ)、「下手でもいいんだよ」と言われたものだ。誰が下手だって言ったよふざけんな。許可してくんな。そもそも私は別にヘタではない。シタデに出ることもない。声域が低いから曲を選ぶだけで、たぶん下手ではない。歌うのが嫌いなわけでもない。事実パートナーの前ではよく歌う。ただしパートナーは「キーがちがう」と水を差すタイプであり手ごわい。私にとっての躓きの石である。
「傷ついた。もう歌えない。おれは歌を忘れたカナリアになるんだね」
「ちがうちがう。キーがちがうねって言っただけ」
「おれが歌わなくなったら絶対、ぜっ・た・い、さびしくなりますよ」
「歌って。いいから歌って。ただキーがひとつ下だったなって」
「宇多田もキーが高すぎるなら下げてもいいよって言ってました!」
「うんメロディは合ってるよ」
おれ最後は勝つんだよね。シモテにも座んねえぞ。
パートナーと出会って驚いたのは、キーがちがうことを気にする人がいる、ということである(歴代の交際相手の前で歌うこともなかったのだが。見損ねたね、ざまあ)。そもそもキーなんて気にしたことがない私であったから、平気で気軽に歌と遊ぶ。歌えない曲はあるが、歌える曲を歌うことには臆さずにいられる。アカペラだから? それでもキーを無視する行為はたぶん音楽的には冒涜なのだろうが自分が幸福ならかまやしない。それでいいじゃないかと思っている。金を取るわけじゃないんだ――大丈夫、お金は取らないよ。何せキーもちがうらしいからねえ(←根にもってる)。
ただ難点がある。私は歌うと「泣く」のだ。文字通りに。
これがカラオケが苦手な最大の理由。油断すると歌詞で泣く。それがヤバくてマズくて厄介なのだ。歌うのは基本的に「好きな歌」だし、私が歌を好きになるのは「歌詞」の要素が全てだから、前提としてその歌には私を共振させてやまない「言葉」がある。歌詞を書いた誰かの感情が私というフィルターを通り抜ける時に涙を押し出していく。ダメだって。ヤバいって。ほんとにダメだって。
何でプロは泣かずに歌えるのだろうと思っていたら、プロは泣いてはいけないのだという。マジか。歌唱という伝達/表現手段において、それは決して褒められたパフォーマンスではないのだ。泣くのは客だ。まあ、書く時だってそうだもんな。自己陶酔すんなっつんだろどうせ。それは分からなくはない。
いやおれは歌詞で泣くよ。曲によってはボロボロ泣くよ、これからも。なぜならプロじゃないからな。でも人前では歌わない。車の中でひとりとか、そんなシチュエーションで歌うのが一番好きだから。遠吠えの練習とか、するじゃないですか運転中。ね。あんな感じで。
