「自分らしさ」を哲学対話@西東京市
2026年のバレンタインデーは西東京市で開かれた「第18回パリテまつり」に参加していた。個人的に西東京市に縁があったのではないが、ここの男女共同参画事業には note で知り合った Ryuya 氏が深く関わっているためだ。昨年の「パリテまつり」では連続テレビ小説「寅に翼」の脚本家である吉田恵里香氏のトークが開かれたが、その聞き役を務めたのが彼である。
その Ryuya 氏が今年は「哲学対話『自分らしさって、どこまで本当?』」という分科会を開くというので、じゃあ行くか(チョコレート食えそうだし)と腰を上げたのだった。しかし彼はいつも何かしら進行役をやってる。その合間におれとパフェとか食ってるわけか。ありがたいと思うべきだが思ってやんない。ま、えらいなあとは常々思ってるけど。

「えらい」というのも少し言葉がちがうとは思うんだけど。なんというのかな。ゲイが地域に根差し、根を広げ、養分をもらいながら枝葉を広げ、また自らも資源となり、やがて土地のものとなる、その在り方が眩しいのだ。ゲイが「活動する」と言えば、ひと昔前までは「ゲイのため」という目的があった。彼はそうではなく、まず地域あっての自分ということが前にある。粛々と「自分の街」のために働く。その結果は目に明らかだ。ふらり立ち寄っただけの私に、市民が「Ryuyaさんがね」「Ryuyaさんはね」と彼について口々に教えようとする。「なんだアイツはそっちの仲間かよ」と思うが、彼らの「嘘のない親しみ」は伝わって来る。それは一朝一夕には築けない。堅実で誠実な彼のままで惜しまず寄与して来たからこそ、得た信頼だ。
がむしゃらな日々に、きっと彼にはまだ見えていないのかもしれない。たぶん彼にとっては意図せず始めたことだった。しかし私から見ると、彼の立ち方は正しいだけでなく、既存の性的少数者からのアプローチを柔らかく変えて行くような質のものである。「未来」の、ひとつの像がある。私は被抑圧者層に対して「自らの困難を後回しに寄与せよ」とは決して言わない。しかし言わないだけで、その順路道筋でしか実感できない学びがあるとも知っている。私たちマイノリティは「庇護される者」ではない。私たちはシステムの不備に「先に気づいた者」である。それが自他に平明な事実として見えるようになる「その地点」には、こうした歩みでしか辿り着けないのだ。こうして動いてみないことには、自分でさえ気付けないのだ。それが私には非常によく分かるし——私が滅多に使わない言葉だが——この年若い友人を「尊敬する」理由になっている。ゲイは社会や家庭から排除されてきた——この言い方がお気に召さないなら、「カウントされずに来た」。市民としてまた家族として、数に入らないのが私たちだった。しかし、時代の礎となる。わたしたちが糧である。
これ「全ての」マイノリティに言ってんだけど。(分かるよね)
根切れたわたしたちだった、と思う。しかし綿毛のようにふわりと土地に落ちて、そこで根付いてもよい。花を咲かせるなら、足を止めて愛でる人もいるだろう。わたしたちはただ今日のために生きていたのではなかった。自身が土となった後の社会のためにも、今日を生きているのである。そうした自分であることを見失った日には、彼の背中を見ればいい。かつては彼も風の中の綿毛だったのだ。
チョコももらえぬまま会が終わり、ひとり田無神社を眺め(市民の皆様から行くよう言われたのだ。なんでおれが?)、参拝までしてしまった。おれは願い事をしない。いつも名乗り、挨拶するだけだ。夢は自力で叶えるさ。ただ見守っていてくれればいい。あ、狛犬かわいかった(どっちも)。


白髪ねぎに角切りチャーシューと辛みそを和えた小鉢とラーメンで飯を食う。ひとり物思いにふける時間。哲学対話に行くまでは、ずっとドン・ウィンズロウの警察小説「クライム101」を読んでいた。果てしなく「どの引き出しを開けるか」悩んでしまうからだ。プライオリティとしてゲイの話が最後尾なのは自分が有料の講師だからでもあるが、こうした会で立て板に水としゃべりたくなかったせいだ。それに、あなたは誰かと訊かれて「ゲイです」と答えて足りる奴がいたら、おれなら会いたくもない。おれは日本人かつ和人で、知る限りは他国にも部落にもルーツがない、そこそこ健康な中年男だ。ゲイでもあるが、それら全ての属性を取り去って残るのが「自分らしさ」だろう。だから、その場で胸にあったことをママ話した。
ずっと自分は何者なのかを思い悩み、否定されラベルを貼られ続けた人生で、「自分」に飽き飽きしてた。そこから逃げられたらどんなにいいだろうと思うほど、ウンザリしてる。でも、そういう困難をおしても自分のために自分について語ろうとする人たちがたまらなく好きだ。だからその中にいたくて、来た。その場にいたらおれにも話せるかもしれないんだから
こんな話でよかったのか、分からなかった。他人の自分語りに感想を伝え合う場ではないのだ。ま、100点だろうな、とは思う——ある意味では。「誰が/自分についての何を/どのように」語ってもよい場だという前提からすれば、100点だ。その場では皆が、言葉に詰まるなら何も語らなくても許されていたのであった。ヒトはそんな場を、時々必要としている。
