春の惑い|せりふ三題噺
親方の家に住み込みで働いていた僕は、一人暮らしがしてみたくて、引越しをした。自分の荷物はダンボール二箱と布団だけなので、誰かに頼ることもなく簡単に終わり、あとは軽く掃除するだけだった。
畳の目に沿って、ゆっくりと掃除機をかけていると、「ごめんくださあい」と微かに声がした。慌てて玄関へ行くと、引き戸を開けて顔だけ出した、親方のひとり娘の実桜さんがいた。
「なんだ実桜さんか」
ふと口にした僕を見て、
「なんだは無いでしょ。お手伝いに来てあげたのに」
実桜さんは口を尖らせた。
「あ、ありがと。広い家だけど、部屋の隅に少し埃があるくらいだから、すぐに終わりそうだよ」
「そう。お父さんが、悠人ひとりじゃ大変だろうから行ってやれ、て言われて来たんだけど。私、必要無かったね」
「いや、そんなことないよ。誰かと話したいな、と思ってたところだったから」
「嘘つけ」
実桜さんは目を細めた。
半年前、自然と関わる林業の仕事がしたくて、大学を卒業して五年勤めた会社を辞め、この山村に来た。地元の人しかいないここは、賃貸のアパートが無い。
親方の家での生活は、同い年だが、しっかり者のお姉さんのような存在の実桜さんと、仕事以外は優しい親方との三人暮らしで、とても居心地の良いものだった。実桜さんは、経理など事務をしながら掃除や洗濯をしてくれた。食事の支度は、朝と夜だけじゃなく、お昼のお弁当まで用意してくれた。僕は実桜さんが作るいもなますが大好きだった。でも、ずっと実家暮らしだった僕は、このままじゃ自立出来ないんじゃないかと不安になっていた。
そんな矢先、近所に住む一人暮らしのおばあさんが、娘の家族の元へ行くことになり、空き家になったこの家を貸してもらえることになった。
「差し入れを持ってきてくれたの?」
実桜さんの手にぶら下がった紙袋に目が行った。
「あ、うん。お父さんが隣町で桜餅を買ってきたの。今から食べる?」
「うん。とりあえず上がって。コーヒー、じゃなくてお茶がいいね」
座布団に座り、ちゃぶ台を囲んで、熱い緑茶を飲みながら桜餅を食べた。古家の松や杉、欅で出来た柱と土壁の雰囲気のせいか、二人で長くここに住んでるような気分になった。親方の家に居る時とはまた違った、心が穏やかになる空気が流れ、実桜さんの話が上の空だった。
「ねえ、聞いてる?」
実桜さんは僕の目をじっと見た。
「聞いてるよ」
僕は目を逸らし、お茶を口にした。
「悠人さあ、ずっとこの村に住むつもり?」
「それは分からないけど、この仕事を続けたいと今は思ってる」
「お父さんは継いでもらいたいと思ってるよ、多分ね」
「それは無いんじゃない? まだ何も出来ないし」
「将来的な話よ。お父さん、悠人のこと、お気に入りだし」
「仕事中はいつも怒られてるけどね」
「私ね、実家に戻ってきたのは、お母さんが倒れたからなの。一昨年に亡くなって、去年くらいから、これからどうしようかな? とずっと考えてる」
「なんか他にやりたいことでもあるの?」
「あるけど迷ってる。ここで暮らすのも悪くないな、なんて最近は思ったりしてるし」
「取り敢えずやってみたら? 自分もそうだったし」
「いいの? 私、いなくなっちゃうよ」
僕は言葉に詰まった。いなくなることは寂しいが、好きな人生を歩んで欲しい、と思った。
「人はずっとすれ違うものなのかな」
実桜さんは呟いた。
「え?」
「じゃあ、そろそろ帰るね。ご飯の支度しないといけないし」
僕は玄関の外に出て、実桜さんを見送った。
夕暮れが彼女の後ろ姿をくっきりと映し出し、その背中を見ていると、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。
姿が見えなくなった時、ひとひらの桜が肩に落ちた。僕はその花びらを掌にのせ、ただぼんやりと眺めた。
了
五か月ぶりの参加になります。
はらとけいさま、何卒宜しくお願いします。
