聖なる夜に
クリスマス前夜、街はイルミネーションの光に彩られ、恋人たちの笑い声が冷たい風の中に溶けていく。僕は一人、東京駅の丸の内口に立っていた。待ち合わせ場所に向かうでもなく、ただここにいることで君に近づけるような気がして。
最後に君と会ったのは、ちょうど1年前のクリスマスだった。駅前の大きなクリスマスツリーを背景に、君はいつもと違う赤いマフラーを巻いていた。僕は「似合ってるよ」と笑ったけど、その瞬間、君の瞳がどこか遠くを見ているのに気付いていた。
「私たち、もう終わりにしようか」
深呼吸をした後に君はそう言って、静かに微笑んだ。彼女の声は、東京駅の雑踏にかき消されそうなほど小さかった。それでも、確かに僕の胸を切り裂いた。
別れの理由は最後までわからなかった。今もこうして前に進めないのは、まだ結論に達していないためだ。君の心が僕から離れた。ただそれだけの話。小さな事実の欠片が胸の奥に突き刺さって離れずにいる。君の言葉を受けた僕は、何もできずにその場で立ち尽くしていた。いつの間にか君の心が完全に離れ、僕たちの明るいはずだった未来は泡になって消えた。
君と別れてからの一年間、四季に彩りを感じなくなった。春に咲く桜、数年ぶりに再開した花火大会、高野山まで観に行った紅葉、君がいた頃の記憶を上書きするように時だけが過ぎ去っていった。それでも君に振られた最低のクリスマスだけは今も鮮明に思い出せる。イルミネーションで彩られた綺麗な街の中で、君の凍てついた笑顔。それは心を痛めるようでいて、確かな痛みを僕の中に残した。
駅前から、白いウエディングドレスを着た人たちの笑い声が耳に届いた。明るい未来を信じてやまない彼らの姿が眩しい。目を背けたいと思える事実がある。イルミネーションをバックに幸せそうな恋人たちがスマホを片手に撮影する横をすり抜けて、僕は彼女との時間を終わらせたあの場所へと足を運ぶ。均一に並べられたタイルの冷たさが、微かに降る粉雪が、12月の乾燥した冷たい風が、あの日の君の言葉を思い出させる。
目的地に向かう道中で、クリスマスソングを歌っている人がいた。彼女もクリスマスに苦い思い出があるのだろうか。たった一人でクリスマスの夜に歌を歌う姿は、すぐにでも消えてしまいそうなほど儚かった。彼女の前をカップルたちが見向きもせずに通り抜けていく。存在すらもなかったことにされるあの経験ほど苦しいものはない。クリスマスにいい思い出があったならば、どれほどまでに救われただろうか。前を向いて、次の恋に進みたい。すぐに切り替えられる人間だったならば、僕はわざわざ君と過ごした最後の場所に足を運ばない。
イルミネーションのように輝けたならば、そんな思いが胸に膨らんだ時、ひどく虚しくなった。立ち止まって深呼吸をすると、冷たい空気が肺の中を冷やしていることに気づいた。もう君はいないし、この行為にも意味はない。それでもどこかで君の面影を探している自分がいる。
幸せそうな顔をしているカップルたち、イルミネーションを前に大はしゃぎをする子どもたち。色とりどりの光がクリスマスツリーのオーナメントに反射して、自分だけがそこにいないかのような感覚に陥る。居た堪れなくなって、目線を逸らす。ポケットに手を突っ込み、真上に光る月を眺めていた。
ポケットから手を出した瞬間に、何かが地面に落ちる音がした。これは君とお揃いで購入したキーホルダーだ。思い出に浸りたいわけではない。むしろこれはすぐに捨てるべきだったのけれど、君との全てが消えてしまうような気がして、今もキーケースに付けている。今はキーホルダーだけが僕と君を繋ぎ止める唯一のものだ。きっと君は別れてすぐに捨てたに違いない。
たくさんの人で賑わう夜の中、呆然と立ち尽くす自分がいた。思い出に浸ることでしか君と出会えないという事実が苦しかった。もしも僕がきちんと向き合っていたならば、未来は変わっていたのかもしれない。今日も君の隣でイルミネーションを楽しんでいたのだろう。綺麗だねと言う君の横顔に見惚れて、照れくさそうに「そうだね」と返していたに違いない。
冷たく乾いた空っ風と共に甘い香りが鼻を掠めた。それはまるで君が纏っていた香りのようだった。振り返ると、赤いコートを着た見知らぬ女性が急ぎ足でどこかに向かっているだけだった。人生に「もしも」は存在しないのに、微かな希望を抱いてしまった自分の愚かさに嫌気が差す。期待が絶望に変わり、胸が軋んだ。
時刻は21時。未だに街は喧騒を包まれている。呆然と立ち尽くす僕の後ろあたりから名前を呼ばれたような気がした。振り返っても誰もいない。幻聴まで聞こえるようになったのかと肩を落とす。悴んだ指先でキーホルダーの先端に触れる。鉄の冷たさすらもわからなくなるほど感触はなくなっていた。かつての思い出が蘇ったとき、空を見上げると雲一つとしてない快晴になっていた。
その場からぴたりと離れない足を一歩前へと動かす。ただ一歩なのかもしれない。だが、これが自身にとって大きなきっかけになると信じたい。
いつかこの失恋を乗り越えて、笑える日が来ると信じて。
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