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現金至上主義の男

 クレジットカードは便利だけど、なるべく現金で過ごしたいとわりと真剣に思っている。

 もちろんそれは文明批評のような大げさな話ではない。キャッシュレス社会に警鐘を鳴らしたいわけでもないし、経済の専門家として何かを語りたいわけでもない。ただ、自分には少なくとも現金が必要なのだと思う。財布の中にいくら残っているかを、指で数える。その手触りがなければ、ぼくは自分の欲望の輪郭を簡単に見失ってしまう。

 クレジットカードは便利だ。でも、便利なものはたいてい人間を少しずつ駄目にする。雨の日のタクシー。深夜のコンビニ。ベッドの中で見るメルカリ。あと払いやリボ払いという仕組み。それらはみな優しい顔をして近づいてくる。

 新卒で初めてクレジットカードを手にしたとき、ひどく大人になった気がした。薄いプラスチックのカードが一枚、財布に入っているだけで世界の扉が少し広くなったように思えた。欲しい服が買えたし、友人との飲み会で少し高い店にも入れた。終電を逃してもタクシーに乗れた。給料日前でも、まるでお金があるみたいな顔をして生活できた。

 そのお金が溶けていくような感覚がいちばん怖かったのだと思う。当時は収入の半分以上をカードで使っていた。給料日の翌日に買った革靴のことを覚えている。店員に「一足いいものを持っておくと違いますよ」と言われ、何がどう違うのかもわからないまま頷いた。違ったのは、翌月の口座残高だけだった。その革靴を履いて出かけた日は数えるほどしかない。ぼくの足より先に、見栄のほうが靴擦れを起こしていた。

 カードの明細を見るたびにこんなに使ったのか、と毎月思った。そして、来月こそは気をつけよう、と毎月思った。

 人間は愚かだ。同じ反省を何度もするし、反省には味がない。味がないのに、何度も噛んでしまうガムのようなものだ。カードの明細を眺めながら、自分の生活が誰かに採点されているような気分になった。あれは無駄遣い。これは見栄を張った。そうやって出費に名前をつけていくと、自分という人間のだらしなさが妙にきれいに整理されていく。

 あまりにもカードを切りすぎて、何度か身に覚えのある出費を不正利用にする方法を考えたことがある。カード会社に電話をして、「これ、身に覚えがないんですけど」と言い切る自分を想像した。買った革靴も、深夜に乗ったタクシー代も、居酒屋で頼んだハイボールも、全部知らない誰かの仕業にできたらどれだけいいだろうと思った。

 もちろんそれは犯罪だ。

 どうせ罪を犯すならせめて歴史の片隅に名前が残るくらいの罪でなければ割に合わない。こんなくだらないことで捕まるわけにはいかない。二軒目の会計とラーメンと革靴で人生を棒に振るのは、あまりにも情けない。教科書に載らない罪で人生を棒に振るなんて、どう考えても納得がいかない。そうやって馬鹿げたことを考えながら、結局毎月きちんと支払った。

 それからしばらくして、なるべく現金で支払うようになった。財布の中に一万円札を入れておく。コンビニでおにぎりと水を買う。千円札になって返ってくる。喫茶店でコーヒーを飲む。千円札を崩して小銭が増え、財布が少し薄くなる。そういうことを、ひとつずつ体で覚えるようにした。

 カードで買うとあっという間に支払いは済んでしまう。端末に差し込む。暗証番号を押す。あるいは、ぴっとかざす。それだけで終わる。そこには喪失感もお金を失ったという感覚がない。ただ、何かが許可されたような気持ちだけが残る。

 でも現金は違う。千円札を出すとき、手が少し迷う。五千円札を崩すとき、胸の中で小さな抵抗が起きる。一万円札にいたっては、もはや軽い儀式だ。財布の奥から取り出し、店員に渡す。その瞬間、自分の生活から何かが切り離される。紙幣はただの紙なのに、そこには確かに一日分の労働や何時間かの我慢が少し先の安心が貼りついている。

 ぼくはその感覚をできるだけ忘れたくない。現金は不便だ。小銭が増えるたびに財布は膨らむ。自動販売機の前で十円玉を探す時間はあまり美しくない。雨の日に濡れた手で紙幣を出すのも面倒だし、会計の際に小銭を落とすと、自分の人生まで少し散らかったような気分になる。

 それでも不便さには人間を正気に戻す力がある。以前、夜遅くにコンビニへ足を運んだ。仕事が終わらず、頭の奥がぼんやりしていた夜、棚に並ぶものが全部やさしく見えて、それらはぼくを慰めようとしているようだった。疲れているときの人間は、だいたい自分に甘い。今日くらいいいだろうという言葉は、夜のコンビニととても相性がいい。

 けれど財布を開くと、千円札が一枚と小銭が少ししか入っていなかった。

 ぼくはしばらく棚の前で何を買うかを考えた。結局、エクレアをひとつだけ買った。家に帰って、台所の蛍光灯の下でエクレアを食べた。特別おいしいわけではなかったけれど、その夜のエクレアはちゃんと選んだ味がした。

 人生には「ちゃんと選んだ」という感覚が必要なのだと思う。

 何でも手に入るように見える時代に何を手に入れないかを決める。欲しいものの前で財布を開いて、残りのお金を見て、今日はやめておこうと思う。そういう小さな諦めの中に人間の輪郭は残るのかもしれない。

 お金はただの道具だと言う人もいる。たしかにそうだと思う。けれど道具には、使う人間の性格が出る。包丁の扱いに暮らしが出るように、靴の減り方に歩き方が出るように、お金の使い方にはその人の不安や見栄や優しさや寂しさが出る。

 ぼくはカードを持つと未来の自分に甘える。来月の自分なら何とかしてくれるだろうと思ってしまう。来月の自分はいつも少し偉い人のような顔をしている。きっと今月の自分より節制できて、判断力があって、無駄遣いもしない。そんなはずはないのに、平気な顔をして来月の自分に請求書を渡してしまう。

 でも、現金で払うと今の自分が責任を取るしかない。カード払いという選択肢をなくせば、手元の現金だけで生きる必要がある。足りなければ買わないし、欲しくても我慢する。格好悪いけれど、その格好悪さは嫌いではない。人間は自分の限界を知っているときのほうが、少しまともでいられる気がする。

 もちろん、現金だけで生きていけるほど、世の中は単純ではない。ネットでしか買えないものもあるし、カードが必要な場面もある。ポイントだって馬鹿にできない。完全にキャッシュレスを拒んでいるわけではないし、必要があればカードで支払う。それでもなるべく自分の中に現金という現実を残しておきたいのだ。

 財布を開けて残金を確認して、あといくら使えるのかを考える。それは少し面倒で、少し貧乏くさくて、でもどこか落ち着く行為だ。自分で稼いだお金が現金として手元にある安心感は案外大きいものだ。

 夜、駅前の小さなスーパーで豆乳と卵を買った。レジで千円札を出すと、お釣りの硬貨が手のひらに落ちた。それを財布にしまった。外に出ると、風が少しだけ冷たかった。街灯の下で財布を鞄に戻す。財布のポケットがちゃんと閉まっていなかったのか、大量の小銭が地面に散らばった。

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