善き市民と市民性のデザインを考える2つの視点
中学生になった息子との会話の中で、ひょんなことからソーシャルクレジットの話になった。ソーシャルってなんだったっけ、そういえばソーシャルデザインという言葉もよく聞くようになったね。と、それらしき2つの話題がくっついて思い出されたのでメモ的に。
― ミルトン・グレイザーとソーシャルクレジット ―
ニューヨークの街を救ったデザイナーと、13億人規模で運用が進められている国家制度。一見、何の接点もないように見えるこの二つを並べてみると、意外にも「善き市民とは何か」という同じ問いに向かっていることに気づく。
ただ、その答えの導き方はまったく逆方向だ。
その違いに面白さを感じ、少し俯瞰して整理してメモする。
"自発性"に根ざしたミルトン・グレイザーの市民像
1970年代、財政難と治安悪化で沈みかけたニューヨーク。観光客向けに「Welcome to Fear City(恐怖の街へようこそ)」と書かれたパンフレットまで出回るほど、都市のイメージは崩壊寸前だった。(歩いたら死ぬぞ、という恐るべき内容…)
そんな状況を立て直す観光キャンペーンで、この街を象徴することになる「I ♥ NY」ロゴを生み出したのが、グラフィックデザイナーのミルトン・グレイザーだ。元祖、シビックプライドのデザイン。よっ。
この背景には「デザイナーは善き市民であるべき」という彼の信条があった。契約や市場原理に従った仕事ではなく、自らの判断で社会に価値をもたらす行為。
これは、個人の道徳的選択と創造性を社会の力に変える、ボトムアップ型の好例といえるし、僕は大いに尊敬している。
今でいうソーシャルデザインの先駆け的取り組みだ。
制度化された中国のソーシャルクレジット
一方、"ソーシャル"という言葉に紐づいて対照的なのが、中国で試験的に運用が進められているソーシャルクレジットシステムだ。
市民の行動を数値化し、「社会的信用度」として管理する仕組み。高スコアの市民には優遇措置が与えられ、低スコアには制限が課される。
注目すべきは、その名称である。
「ソーシャルクレジット」
実に字面としては"善い"印象を受ける。金融的な信用らしきものと社会的な信頼感のような響きを結びつけ、制度の目的を市民に分かりやすく提示している。
しかしその本質は、国家が定めた制度基準への適合を促すトップダウン型の管理システムともとれる(およそこのシステムにおける「善き市民」とは、国家の定義に沿う存在であると想像しているが、実際はどうなのか要調査)。
共通点と決定的な相違
両者に共通するのは、『私的利益より社会的価値を優先する』という姿勢である。
ミルトン・グレイザーは商業的成功より社会的貢献を、ソーシャルクレジットは個人の便益より社会秩序を前面に置く。
しかし、実現手段が根本的に異なる。
グレイザーは個人の自由意志と創造性を信頼の綱に、そこから社会的価値を引き出していく、という手法(自律型)。
ソーシャルクレジットは制度と評価によって行動を誘発し、全体的な社会の目標に適合させていく、という手法(制度型)。
軸はとても明確だ。
能動性か受動性か。
創造性か適合性か。
多様性か統一性か。
選択肢を待つか、選択肢をつくるか
勝手に並べた二つの事例は、異なる未来像を描いている。

一つは、自律した個人が自主・創造性を通じて社会と関わろうとする姿。
もう一つは、制度の枠組みの中における評価のもと社会安定を目指す姿。
どんなことにも当てはまるが、当然メリットとデメリットがある。
自律型は多様性と革新を促すが、一方で責任を果たさない個人も当然にいる。制度型は秩序安定性を確保しやすいが、創造性や個人を置いてきぼりになる。
結局のところ、鍵を握るのは「どんな社会を選ぶのか」ということだ。先の選挙でも、相変わらず耳触りのよいスローガンや時代の隙をつくような言葉が多く飛び交った。
しかし、その背後にある思想や制度の構造を見抜く視点こそ、現代における“善き市民”の条件ではないかと改めて振り返っているところ。
こうして並べてみると、「善き市民」という看板にもいろんな入口があるなと。どんな場面でも、自分の足で立って選び取るか、それとも誰かの設計図の上を歩くか、はたまた選択肢を作るか、その繰り返しだ。日々の暮らしや仕事の中にも大小いろんな「選択の瞬間」がある。
そのときに、目の前の選択肢だけでなく、その背景にあるルールや価値観までちょっと覗き込んでみる。そんな習慣が、静かに社会を変えていくのかもしれない。
で、なんの話だっけ。
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