横光利一「上海」(講談社文芸文庫)
文化庁の「現代日本文学の翻訳・普及事業 第4回対象作品」(たぶん2006年)の一つに横光利一の「上海」は入っている。紹介がわかりやすいので、この文化庁のウェブサイトから引用する。
作品タイトル 『上海』
作家名 横光利一(よこみち りいち)
翻訳者 ロシア語版 / Tatiana Breslavets
初版 1928~1931年 「改造」に発表/1991年 講談社文芸文庫
キーポイント 戦争前夜の国際植民都市、上海。群衆の動きを活写した新感覚派の頂点に立つ長編小説
(あらすじ)「1925年の反日民族運動を背景に、1人の日本人の懊悩と彷徨を描く」
太平洋戦争前夜、極東最大の国際都市として発展し、「魔都」「東洋のパリ」と言われた上海では、列強ブルジョワジーと中国共産党がせめぎ合い、労働運動が盛んになっていた。
1925年、人妻との恋に疲れて上海に来た日本人の参木は、上司と対立して失職、湯女やダンスホールの踊り子から慰めを受けながら、中国共産党の女性闘士、芳秋蘭を愛するようになる。だが、疎開警察がデモ隊に発砲、大騒乱になった反日民族運動「5・30事件」が起き、秋蘭は参木のもとから去り、参木は群衆の中に秋蘭を探し求め、苦悩し、死を思いながら、街を彷徨う−−。
ノーベル文学賞を受けた川端康成とともに、新感覚派の代表作家として活躍した著者が、1928年に約1ヵ月上海に滞在した経験をもとに書いた初の長編小説。太平洋戦争前夜、人生に行き詰まり、愛に懊悩する参木を初めとする作中人物を、視角と心理の両面から追う斬新な文体を用い、戦争前夜の国際都市、上海の深い息づかいを伝える、先駆的都会小説である。大正末期から昭和初期にかけ、芥川龍之介や魯迅ら、多くの文学者が上海を訪れ、歴史の転換点に立つ人々の姿を見つめていた。著者もその1人で、独自の手法で時代と群衆の動きを描き出している。
ジャンル:小説
1928年に雑誌「改造」に発表された第一篇のタイトルは「風呂と銀行」。主人公の参木は日本の銀行の上海支店の行員で、風呂は、中心的な登場人物であるお杉がトルコ風呂で働いているためだと思われる。1920年代に上海で営業していたトルコ風呂は性サービスはしていないらしい。なぜならそのお杉が後半没落するからだ。
冒頭は黄浦江西岸の外灘(バンド)に面したベンチでのワンシーンから始まる。そこにはロシア出身の娼婦が並んで座っていた。ロシア革命から命を賭して逃げてきたロシア貴族の娘たちだ。ヨーロッパ列強、それを真似する日本やアメリカは資本をもって上海を支配しようと、銀行と結託して投資を繰り広げ、中国マーケットを我が物としようと目論んでいる。清王朝をアヘン戦争で崩壊させたイギリスはアヘンと銀貨とシルクの三角貿易で更に富を蓄え、インド支配と同じように武装警察を常駐させている。フランスやオランダも天然ゴムなど、アジアの国を植民地として支配権を持ちながら自国の製品や植民地で生産した製品を売り捌いて富を作る。まさに剥き出しの帝国主義・資本主義が横行し、そのすぐ頭の上ではロシア革命が起こり貴族が民衆の前で銃殺され、娘たちは売られ、上海の中国人たちは共産主義に傾倒していく。参木は己のアジア主義を信じつつも、学生たちのデモや大規模なストライキ、暴徒化した市民に殺される外国人、その市民に発砲するイギリス人らを見て日本人としての自身の価値を見失い、遠く母の面影をみはるかす。
参木が心を寄せるのは都市に生きる女たちだ。風呂屋で男性相手のマッサージをしているお杉、その元締めのお柳、ダンスホールの踊り子たち、娼婦たち。女には、工場の工員になる以外、体を売らなければ金銭を得る方途はない。祖国日本の女たちも、家父長制から抜け出ようとすれば状況は同じだ。資本主義の闊歩する都市には、近代産業都市特有の性産業が生まれる。性行為に値段がつく。きっと横光利一が娼婦や湯女や踊り子を描いたのは、参木の中に燃える肉欲を描くためだったと思う。例えば彼が女との交わりを夢想するシーンはこれだ。
お杉は大きな眼で参木の支えになりながら笑っていた。銃を逆に担いだ印度人の巡査がお杉の顔を眺めていた。車座に蹲んだ裸体の車夫の群れが、天然痘の跡のあるうっとりした顔を並べて、銅貨の面を見詰めていた。水の滴りそうな水慈姑(くわい)が、真赤なまま、道路で油煙を立てているランプのホヤを取り巻いて積っていた。一人の支那人がふらりと参木の方へ近寄って来ると、写真を出した。
「どうです、十枚三円。」
写真は二人の胸の間に隠されたまま、怪しい姿を跳ね始めた。お杉は参木の肩越しに写真を見た。と、彼女は急に顔をそ向けて歩き出した。暫くすると、参木は黙って彼女の後からついて来た。彼は年来の潔白が、一時に泥のように崩れ出すのを感じた。
「お杉さん。」と参木は云った。
お杉は赤くなったまま振り返った。が、またすぐ彼女は歩き出した。参木は前を行く彼女の身体に手が延びそうな危険を感じた。今夜は危い、今夜は、と彼は思った。
「お杉さん。今夜は一寸用事があるから、あんた一人、さきへ帰っていてくれないか。」そういうと、彼は逆にくるりと廻って、悲しげに歩いていった。ふと彼は通りすがりの、女が女に見えぬ茶館へ上っていった。
広い堂内は交換局のように騒いでいた。その蒸しつく空気の中に、色づいた笑婦の群れが、割られた石榴の実のように詰まっていた。彼はテーブルの間を黙々として歩いてみた。押し寄せてきた女が、房のように彼の肩からぶら下った。彼は群がる女の胴と耳輪を、ぶら下がった女の肩で推し割りながら、進んでいった。彼の首の上で、腕時計が絡み合った。擦り行(あ)う胴と胴の間で、南瓜の皿が動いていた。
(中略)
参木は茶館を出ると水を探した。もうぐったりと疲れていた。彼は再び、自分を待ち受けているお杉の身体を思い出した。
「危い、危い。」と彼はうめくように呟いた。
彼は競子の良人が死んで了って、競子の顔を見るまでは、お杉の身体に触れてはならぬと思っていた。もし彼がお杉に触れたら、彼はお杉を妻にして了うに定まっていると思うのだった。だが、それまで、いかなる整理法で身を清めていくべきか。彼は何よりも古めかしい道徳を愛して来た。此の支那で、性に対して古い道徳を愛することは、太陽のように新鮮な思想だと彼には思うことができるのだ。――
すると、参木は不意に肩を叩かれた。振り向くと、さっきの支那人がまた写真を持って彼の後ろに立っていた。
「どうです、十枚二円。」
参木は此の風のような支那人に恐怖を感じて睨んでいた。が、また彼はそのまま、黙って歩き出した。いま一度写真を見たらもう駄目だ。――彼はショウインドウの飾りつけを、首を突き込むように見て歩いた。真赤な蝋燭の群れが、天井から逆さに生えた歯のように下っていた。鏡に取り包まれた桃色の寝台。牢獄のような質屋の門。饂飩屋の饂飩の中に、牛の足が蹄を上向けて刺さっていた。と、また彼は肩を叩かれた。
「どうです、十枚一円。」
瞬間、参木は閃いた一つの思想に捉われて興奮した。
――人間は、真に人間として客観的になるためには、世人の繁殖運動を眼前に見詰めなければ駄目である。――と。彼は暫くして、追い込まれるように露路の中へ這入っていった。露路の奥には、阿片に慄えた女の群れが、宮守(やもり)のように壁にひっついて並んでいた。
卑猥な写真を売る男は大江健三郎の初期短編作品にも出てきたが、トルコ風呂同様、それが上海でもあったことだったと知ると当時の日本社会の拡張がなんとなく我が身にも想像できてくる。だが、参木が迷いこむ露路は日本ではない。魔都上海の露路には資本主義に性を弄ばれた女たちがいる。都市の資本が大きければ大きいほど女は金で買われる。女が欲しくて金を出すのではなく、金があるから女を買うのだ。三貨制のもと貨幣経済が発達した近世の三都に大規模な遊郭ができたのと同じ理由だ。参木の「性に対して古い道徳を愛すること」は、資本主義によって、彼のアジア主義もろとも、簡単に瓦解されてしまうのだ。日本人の国民性も正義も善悪も文化も、帝国主義の資本の前では無力だということだ。参木はそれを背負ってこの物語の主人公を演じ、芳秋蘭に恋をし、芳秋蘭は日本人と懇意になったために銃殺される。横光利一は参木の、日本人の敗北を描くことは書く前から決めていたはずだ。日本人が戦争に負けるのは執筆の後だ。「改造」への寄稿の時点で日本人が海外の資本に、世界の資本のやり方に負けることを知っていた。
戦後の日本は経済成長に夢中になっていたために、この1920〜30年代の自覚をすっかり忘れていた。日中戦争、大東亜戦争、太平洋戦争の暴力の経験が過酷で、「戦争のない社会」を求めすぎて、他に山ほどあったしなければならなかったことをすっかり忘れていたのかもしれない。
…なんてことを思ったりした読書だった。
