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no.24/『タネもシカケもありマス』(#日向荘の人々 / YouTube連動 / 連作短編集①)

--小説版--

※目安:約1.9万文字

パタン。
本を閉じたら音が聞こえて、意識が現実に戻ってきた。

「あ、読み終わったのか」

 古いアパートの一室、淡い夕陽色のがらんとした部屋の中。古い畳の上に腹這い肘をついて漫画雑誌を読んでいた幼馴染ーー新谷亮輔しんやりょうすけが、少し離れたところで同じように腹這ったまま本を読み終えた俺に声をかけた。

 夏休みなんだから大量にある宿題を少しでも片づければいいのに、結局今日も一日ここで本を読んでいた。中学生になって量が増えた宿題群を入れた生成りのトートバッグは、ふたつとも朝と同じ状態で転がっている。うっかり物を無くしやすい俺のために、シンヤのお母さんが用意してくれた物だ。
 中学生以下のこどもがいるひとり親家庭のためのコミュニティアパート。その2階の端っこの部屋が俺の家だ。8月の太陽は、夕方になってもなかなか光を衰えさせず降り注ぐから、すっかり電気をつけるのも忘れて読みふけっていた。狭い一室は小さなエアコンでもすぐに冷えて快適すぎる空間に早変わりする。だからそれを言い訳に、外へなんて一歩も出たくなくなる。

 くっきり肘下で主張する畳の痕は、いったいいつからここについていたのだろう。痛みすら感じるそこを撫でながら起き上がり胡座をかくと、目の前で同じように肘下をさする幼馴染の近くで、週刊漫画雑誌がパタパタと閉じた。一応ある座布団を押し入れから出せば良いのにと、いつも思うけどいつも忘れる。

「文学少年よ、また分からなかったのか?」

 幼馴染にそう聞かれると俺は小さく頷いて本を本棚へ丁寧に戻す。そしてまたうつ伏せに転がった。読後のルーティンワークのような一連のやり取りは、もう何年も続いている。

「文学というより哲学少年だよな。かわいそうに、いつも騒いでるか泣いてる。うるせーナキムシめ」

 無意識に涙を流していたみたいで、これもルーティンのようにケラケラとした笑い声と共に、機械的に茶化される。別に俺は泣き虫じゃない。勝手に涙が出てくるだけ。

「うるせー。これは本屋大賞を受賞したやつだったんだぞ。いろんな書店員たちが支持してて、絶対にいい本のはずなんだ」

 本を売る立場から厳選された最高の一冊。そんないい本になら、俺の知りたいことが書いてあるはず。それでも、やっぱり分からなかった。

「拓人はさ、なにもそんなにムキにならなくて良いんじゃないか? たまにはマンガでも読んでみろよ」

 幼馴染のシンヤは俺より二歳年上の中学三年生だ。いつもは学年の違いなんて感じないくらい子供っぽいのに、こういう時に限って偉そうにするからウザい。中三ならそれらしく受験勉強でもしてろよ。

「うるせーな。マンガは読みにくいんだよ」

 俺、鳥海拓人とりうみたくとはいわゆる『本の虫』だと大人たちからは言われているけど、決して本が大好きで読み漁っているわけではない。ずっと分かりたくて、いつか分かるかもしれないと思って読み続けている。
 俺が分かりたいものは、他人の気持ち。そして、社会での正しい振る舞い方。
 誤解のないように言うと、他人の気持ちを完全に理解できるとは思っていないし、俺自身の感情がないわけでもない。今みたいに、畳の痕が腕につけば痛ぇなと感じるし、シンヤに揶揄われればウゼェなと感じる。空腹になれば腹減ったなって思うし、日曜日の夜になれば、明日からまた学校嫌だなって思う。もちろん、シンヤが本心から俺を揶揄っていないのも……たぶん揶揄っているわけじないはずなのも、わかる、と思う。確かめたことはないけど。つまり、自分の喜怒哀楽くらいならわかる。シンヤからは、それさえ自覚できてないし、コントロールしろよと注意されるけど。

 俺が分からない気持ちというのは、表向きの言葉や行動の裏に隠された感情の部分。それを人は「察する」とか「空気を読む」とかで処理する。「暗黙のルール」とも言うあれ。そういうところまで含めて常識とも呼ぶのかもしれないけど。
 生活の中で分からなくても本の中のやりとりなら、きっと文章の中でそれらの答え合わせができるだろうから、たぶん、理解できる。
 ……そう思って読み始めたけどさっぱり分からなかった。特に主人公以外が取る言動の行間を読み取る表現は理解に苦しむ。本には主人公の感情の答え合わせがメインに書かれているためだと、その後納得したわけだけど。

 同時に、多くの人が感動するポイントもよくわからなくて、ヒット作に熱狂することもあまりない。良いと言われている物を俺も良いと言いたいだけなのに、それができないのはもどかしい。もしかしたら俺は、多くの人とは違う設計図で作られた人間じゃないのかと、寂しい気持ちになる。

「もう、シンヤみたいなのがちゃんと作家になってくれたら読書が楽しくなるのに」
「無茶言うなよ」
「あれ、面白かったのに」
 一度だけ、去年の夏休みの宿題で書いたお話を読ませてもらった事がある。シンヤは「ただの説明文の羅列だって酷評だった」と言うけど、俺にとってはとてもわかりやすかった。

「それはどうも」

 俺はイライラ膨れっ面をなんとかおさめながらも泣き顔を隠すために、うつ伏せに組んだ両腕へ頭を突っ込み、誤魔化すように膝下をパタパタ動かした。
「チビのくせに長い足どけろ、邪魔なんだよ。またむくれやがって」

 ……こういう状態を「むくれる」と言うのか。それよりも、チビと言われてもっとイラついた。今は百五十センチない身長だって、あと二年したらきっとシンヤよりデカくなるんだからな。

「お前の感情の起伏が激しいのには、俺は慣れっこだけど、慣れないやつは絶対びっくりするから。中学生になったんだから、せめて突然叫ぶのは治せよ」
「……叫ぶ?」
「……読書に没頭してるのかただの無自覚か知らないけど、奇声の制御くらいできるようにならないと、社会に適合できねーぞ」

 もはや無自覚のうちに、息をするように叫んでるなら仕方ないんじゃないかと、少しだけ思う。一方的な善悪の基準で縛ろうとしないで、それこそ察してほしい。

「適合? なんのために?」
「社会で嫌われず生きてくために決まってんだろ。そのへんちょうどよく上手くやれよな。拓人は自分の気持ちに、無意識のまま素直に従い過ぎるんだよ。そういうの、そのうち社会不適合って言われるぜ」
「社会不適合……?」
「なんかバタバタするのも、身体がデカくなってきたら迷惑だろうし。感情を上手く扱えないで、どストレートにダダ漏れさせてると、いつか拓人もいろいろ困るだろうし」
「何に困るって言うんだよ」
「今はまだガキが騒いでる程度で済むけど、大人の声と体格になったら通報されるかもだろ」
「大人になったら通報されるの?」

 何も悪いことしてなくても?

「それから、友達がいなくなったり?」
「感情を出すだけで? ……シンヤもいなくなる?」
「感情を出すなとか、そういう話じゃなくて、コントロールしろってことだし。それに俺と友達でいたかったら、その妙な名字呼びなんとかしろよ。前は違っただろ」

『シンヤ』は名字だ。新谷亮輔。

「三年生の人たちもそう呼んでるじゃん。新谷くんって。だからみんなと一緒の方がいいと思って直した。一応先輩だし」

 みんなと一緒。それが「シャカイニテキゴウスル」という、安全の策ではないのだろうか?前にもシンヤが教えてくれたはずだけど。

「あれはただのクラスメイトだし、友達はまた別だろ? 仲良いやつには亮輔って呼ばれてるしさ。ついでに、もし一年らしくしたいなら新谷先輩って呼べよ」
「……?」
「それに、シンヤっていうのが俺の下の名前で、名字が別にあると誤解したまま呼び続けてる奴もいるくらいだぜ」
「ふぇーーーっ! なんだそれっヒーーーーッゲヒャヒャ!」
「だからそんな適当なものに全くもって合わせる必要はないと思うんだけど、まずそのキッショい奇声を止めろよな」
「へ?」
「ちゃんと自覚してコントロールしろよ。ってか、呼び方なんて自分の呼びたいように呼べよ。俺の事だけじゃなくても」
「……そうなの? いいの?」
「いいんだよ」

 俺が住んでいるコミュニティハウスは、一応公的な機関が運営しているけど、入居者が互いに助け合いながら暮らしている。俺とシンヤは小学校低学年の頃ここで知り合った、いわゆる古株だ。シンヤの家は母子家庭で、俺と同い年の妹優実がいる。だから優実が中学を卒業するまではここに住めるらしい。部屋は2階のC号室で、俺は2階のD号室。1階のD号室は空室であることが多い。

 俺は、なぜか一人だ。入居したときは確かに母親と兄貴がいた。だけどいつのまにか俺だけ置いて再婚したそうだ。どこへ行ったのかは知らないけど、住人の噂話によるとここの利用料も、助けてくれている大人たちにも、それなりの金額を支払って俺をここへ置いているらしい。今思えば、シンヤがいう『感情のコントロールができない』のが、新しい家庭に合わなかったのかな、などと思う。金銭面での支援も十分にあるみたいだし、事情はよくわからないけど、ちゃんと大人に面倒を見てもらっていて問題ないから俺は困っていない。特になんとも思っていない。子どもがとやかく言う問題ではないのだ。
 ただ俺がここに居られるのも中三までで、だからシンヤはその後を心配して、社会に適合するためのアドバイスを口煩くよこしてくる。でも、分からないものは分からない。指摘を受ければ受けるほど、人の社会の中に馴染んでいく自信などなくなっていく。無意識を自覚して無くしていけなんて、人格否定もいいところだと思う。思うけど、それが社会不適合と言われる理由なんだろう。だから一刻も早く分かりたくて本を読むけど、やっぱりわからなくて無意識に泣いてシンヤに嘆かれる。この繰り返しなのだ。残念ながら。

 ピコン!
 シンヤの携帯が鳴った。チャットアプリのメッセージのようだ。

「母さんから。晩ごはんだってよ、拓人行こうぜ。……は? いつまで泣いてるんだよ」
「シンヤ、先行っててよ」

 別に泣いているつもりなんてなかったが、たまたまの涙目でむすっと答える。

「もう、本読み終わって泣くのなんてみんな知ってるんだから、今更恥ずかしがらなくてよろしい。一緒に行くぞ。ほら」

 シンヤはそう言うと、顔を隠してうつ伏せに寝転んでいる俺の足首を掴んで畳を引き摺った。

「ったく、何だよ! いってぇんだよ!」
「おわっ! やめろ!」

 上半身を翻して足をバタバタさせながら、シンヤの手を振り払う。

「いてっ! じゃあてめーで起きろよ!」

 俺は観念して立ち上がり、目を擦りながら部屋を出た。



「拓人、二次創作って知ってるか?」

 亮輔が高校生になって少しした頃、初めての単語を耳にした。

「二次創作?」

 ……二次、とは。そもそも一次とは何を指すのか。中学生にもわかるように話してほしい。

「学校でちらっと聞こえてきたから、気になって少し調べてみたんだけど。既に世に発表されてる作品、これが一次創作品な。これを利用して、独自の漫画とか小説とかを二次的に創作すること。これが二次創作なんだって」
「なんでそれを俺に?」
「拓人、いろんな本読んでるだろ? その中でも特に好きな本とか、ないわけ?」
「好きな本? まあ、なくはないけど」
「そういうのを分解してさ、登場人物の気持ちになって拓人なりの別の物語を作ってみるんだよ」
「分解? いや、ダメだろ。本は大切にしないと」
「分解って、そういうことじゃねーよ……」

 はぁっと大きくため息をついて、亮輔は諦めたような顔をしてから、スッと姿勢を直して俺を見た。

「登場人物とか設定とかを分析して、この人ならどうするかなぁって考えながら新しい話を書いてみる。そうしたらおまえが知りたいっていう感情についても何か分かるんじゃないかな、と思って」
「感情……」
「読む人でダメだったんなら、書く人になってみたらいいじゃん。いいアイデアだろ?」
「面白そうだとは思うけど、書けるかな」
「どうか分かんないけど、やってみなきゃもっと分かんねー」
「確かにそうだけど」

 俺はきっと、選び抜かれた言葉の間に隠された意味とか、文学的な表現の中から何かを察して読み取ることが、極度に苦手だったのだろう。好きな本だって、時間がたてばなんとなく薄れていく。つまり引っ掛かりを作ってくれたであろう作者の思惑通りにそこへ執着できない。そのせいか、好きな登場人物など聞かれてもあまり良く分からなかった。
 それは普段の生活の中でもおなじで、察しろよと、文句を言われることだってそれなりだ。

「恋愛小説とか推理小説とかって、登場人物達の感情表現レイヤーが急激に増えて、余計複雑になるじゃん。あれ、最っ悪にわっかんねー」
「は?」
「でも何気にこのジャンルはドラマでも映画でも多いじゃん? 俺エンタメの楽しみ、絶対8割方損してると思う。別に楽しむわけに読んでるんじゃねーから良いけど。亮輔はこういうのわかるの?」

 手足を放り出して仰向けに脱力した俺は、独り言のように文句を言った。

「そんなお前が一番感情に正直なのにねー。ギャーギャーバタバタプンプン。よく疲れないなぁ」

 亮輔は相槌でも打つようなテンションでいうけどそれもよくわからない。第一俺の質問に答えてない。仰向けのまま視線だけで亮輔を睨みつけた。

「拓人。お前気づいてないかもだけど、意思疎通にレイヤーを作って考えてる時点で、人の気持ちを理解しようなんて、多分無理だぜ」
「みんなこんな取引みたいに頭使って生活してんだとしたら、俺生きていけない気しかしない」
「取引? 駆け引きじゃなくてか?」
「どっちだって俺にはできない芸当だから一緒だ」

 そうやってむくれていると、亮太はまた偉そうに忠告を始めた。

「ならなおさら、言葉は正確に使ったほうがいいんじゃないか? こちらが思わないところで誤解を与えかねないし。相手が誤解してるかもなんて、お前に察することもできないだろうし」

 人との関わりの中で、自分の知らないレイヤーが作動し始めるとうまく立ち回れない。それが嫌でますます一人の世界に閉じて本を読んでは、やっぱりわからないと言って泣く。この繰り返し。無限ループだ。
 でも、手始めに最初は亮輔も一緒に手伝ってくれるというから、ひとまず、先日シリーズ第三弾を購入したばかりの小説を分解することになった。
「この『帰宅部シリーズ』の主人公はさ、少し不思議キャラでおっちょこちょいだろ」
「うん」
「だから、よく考えないままのセリフとか意味不明な行動もあって、本来冷静な相棒キャラを翻弄させてる変なやつだ」
「……そうかも」
「これは拓人と俺に少し似てるとおもわね? もちろん、不思議くんが拓人だ」
「……そうなのか。あ、亮輔が俺に翻弄されてるってこと? ごめん」

 もしそうなら申し訳ないなと思って、軽く頭を下げた。

「だからそういう事じゃなくて! 身近な感覚と結びつけると、感情も理解できるんじゃないかと、そういう話だよ!」

 わかんねーかな、とため息をつく。ごめん、よくわからない。

 一人ひとりの登場人物を分析して、性格や行動パターン、口癖などを書き出した。なるほど、亮太が言っていた分解というのはこういうことか。本をバラバラにする事じゃなかった。ノートに一通りまとめると、買ってもらったばかりの携帯電話で試作を始めた。亮輔のお母さんが施設経由で俺の母親と連絡をとり、説得して契約書を書いてもらった携帯電話だった。
 最初にできた話は自分でもよくわからないものだった。でも更に分析をして、この主人公だったらこんな出来事に遭遇しそうだとか、もしそうなったらこんなことを言うだろうななどと考えながら、次に組み立てた妄想の話は、亮輔には好評だった。

「せっかくだからさ、ネットに公開してみろよ。良い反応があれば、それはきっと他の人も共感できてるって証拠になるだろうし、感情理解の励みにもなるんじゃねーか? 知らんけど」
「亮輔も知らねーんじゃん」

 ボソリとこぼした俺の文句はスルーして、亮輔はそそくさと投稿サイトの検索と比較を始めていた。ものの15分ほどで、初めての小説を公開する場所を決めて、勝手にユーザー登録を始めている。

「ユーザーネームどうする? さすがに本名はなー、こそっとサクッと始めてダメだったらスッと撤退したいよなー」

 ……本名で公開するのは躊躇する事なのか。

「拓人、なんかない? 好きな食いもんとか。そういえばお前ちょうど帰宅部じゃん! せっかく帰宅部シリーズの二次創作出すんだし、帰宅部あるあるなネーミングとかさ。本名モジッた感じとか。センスの見せ所だぞー」
「食いもん……俺、漬物好き」
「確かに。放っておくといつまでもポリポリ食い続けてるもんな、米も食えよって」
「そっか……亮輔、俺たくあんにする! ゲッヒャっいつも食べてるしッ大好きーっキェヒャヒャヒャったくあん! いいじゃーん!」
「うるせーなー、マジで? まあいいや、いつまでこんなことするか分かんねーし、すぐ飽きるかもだし、いつでも変えられるし、とりあえずいいか。たくとのたくあんね、た、く、あ、んっと。オッケー」
 ネットとか俺はよくわからなかったけど、亮輔がいろいろ調べて教えてくれて、その通りにウェブ小説のサイトにアップした。俺の他にも大勢の人が同じような創作をしているんだなぁと驚いた。

「拓人、なんか知らねーけど、良さげな反応増えてるぜ」

 妄想を公開してから一週間ほどして、亮輔がスマホ画面を俺に向けて喜んでいた。

「ふーん」
「もっと喜べよ! ったく、哲学少年め。つまんねーな」

 本当に嬉しかったらもっと喜んでいたと思うけど、俺の目的は感情を知る事。たくさんの人に喜ばれる二次創作をする事ではないから、運よく評価を得たとしても、そこに喜ぶ意味がよくわからないだけだ。

 それからしばらく経って秋になった。
「亮輔、おすすめの恋愛小説ってある?」
「ドラマとか映画なら少し思いつくけど、小説はなぁ……。ん? 恋愛小説? どうした、珍しいな。心境の変化か」
「フラれたんだよなー、意味わかんなくて。ほんよんだらんかるかなって」

 何ともない話をするように初めて言う単語を発すると、亮太は予想以上にでかい声を出した。

「はぁぁぁあっ!? おまえ、なに!」
「なんだよ、うるせーな」
「フラれたってことは、だれかにコクったってことか? 拓人そんな子がいるなんて言ってなかったじゃんか!」
「え、コクってねーよ。彼女? に、別れようって言われた」
「なんだそれはーーーーっ!」
「だからうるせーよ」

 俺にはいつもうるさいって怒るくせに。

「おまえの気味悪い奇声よりはマシだわ。っていうか拓人彼女いたの? は? 聞いてねぇんだけど! 中二のくせに俺の先を越すなよ!」

 ……俺も、あれが彼女だとは聞いてなかった。

「実は先月、二学期始まってすぐ。クラスの子に好きだから付き合ってって言われて」
「お? おーおー、それで?」
「俺別に嫌いじゃなかったから、いいよって言って」
「ほうほう、それが先月? それから?」
「今日学校で、別れようって言われた」
「ん? ……え?」
 亮輔は目をまん丸にして「ちょっと待て理解できねぇ」と続けた。
「私鳥海くんの彼女だよね、一回もデートに誘ってくれないし、学校でも今までと変わらないし、なんなの? って怒られてさ。俺から言わせれば、付き合ってって言ったのは向こうなのに。何に付き合えって事だったんだか」
「えー……おまえ、なに」

 呆れたようにというか、憐れむような変な顔で俺を見て、しばらく亮輔は静かにそうして、再び口を開いた。

「……でも彼女の言う事が正しければ、まぁ怒るんだろうなぁ」
「そうなの?」
「だって恋人だったんだろ?」
「でも俺、恋人になってとか彼女にしてとか、一度も言われなかったよ」
「……は?」

 亮輔は完全に言葉を失って、俺の目を見たまま息をするのも忘れていた。俺はそんな亮輔に何て言ったらいいのかわからずに、じっと観察しながら次を待った。
 少し経ってから、亮輔はすうっと音を立てて息を吸った。

「……拓人」
「ん?」
「おまえ、もう、誰に告白されても「いいよ」って言うな。拓人も周囲の奴もそれが一番平和な気がする」
「そうなの?」
「人受けのいい外見と、人間社会への適合が困難な中身。このギャップが好きなんて言ってくれるやつはなかなかいるもんじゃない」

 亮太が小さく俯いて何か言っているけど、ちょっと意味がよくわからない。

「拓人が好きになった人に、自分から好きって言う以外、人からのそういうのは、何か良い感じの言い訳考えて、それ言って全部断った方が良い気がする。で、間違っても馬鹿正直に『これは言い訳なんだけどー』とか言うなよ」

 こくりと頷きながらぼんやり聞いていたけど、もしかしたらこれはシャカイニテキゴウする方法かもと思い、途中から少し真剣に聞いた。

「言い訳か。恋愛小説読めば何かわかるかな」
「恋愛小説はどうせ上手くいく話しかねーよ。参考になるような良い断り方なんて書いてあるもんか」
「そうなんだ」

 感心していると、亮太は大きなため息をついた。

「はぁっ、そういえばお前は、初めて会った頃から女子にまとわりつかれてたよな。クラスのやつとか家までついてきたりさ。無駄に見た目が良いから寄ってくるんだろうけど、身長もあっという間に俺に追いついちまったし。悔しいけど、変な奴なのに結局モテるんだよお前は。少しは自覚くらいしとけ、多分これから大変だから」

 去年まであんなにチビだった俺は、気づけば亮輔の身長を追い抜いていた。そういえば、景色も少し広く、でも小さくなったような気がする。

 亮輔は預言者か何かなんだろうか。
 学年が上がるごとに『好きです』と言われる回数は増えて、もういちいち数えるのも面倒くさくなって、その度に「忙しいから恋人を作る余裕はない」と、亮輔の助言通り良い感じの言い訳で全て断っている。そのおかげで、意味もわからず恨みを買うことはなかった。
 亮輔が設定してくれたウェブ小説サイトには、たくさんの高評価が押されてコメントをもらったりランキング入りしたりするようになっていった。相変わらず俺の目的は感情を知る事だったけど、良い反応をたくさんもらえるって事は、世の中の正解に近いものを書けているのかなと感じていたから、そこは確かに嬉しかった。

 高校は、学校提携された民間の学生寮で、高校生専用だけど学校はそれぞれだった。希望者には食事の手配などがされたりしてある程度の管理がされつつも、一人一部屋で比較的自由が守られた寮。中学の先生と一緒に探して、最終的にここを選んだのは完全な一人暮らしに自信がなかったのと、母親と兄貴と知らない父親、それから会ったこともないきょうだいが住む実家に同居を申し出る自信がなかったからだ。
 コミュニティハウスを退去した後は学校の寮に入りたいと連絡したら、親は喜んで学費と寮費と生活費を振り込んでくれた。そして同じ時期に亮輔の家族も退去して、俺たちは別々の地域で暮らすようになった。

そんなある日。

『はじめまして。一緒に同人誌を制作してくれる仲間を探しています。帰宅部シリーズメインの二次創作同人誌です。たくあんさんの作品大好きです。もしよろしかったら一緒に作りませんか?』

 SNSはやってないしメアドも公開してないから、小説のコメント欄でコンタクトをとったらしい。
 でも、こういう時の正解の対応がわからない。どうしたら良いかわからない。ソワソワしながら次第に手が冷たくなってくるのがわかる。
 コメントのことを相談できるのは亮太しかいないと考えて、俺は退去後初めて亮太に電話をかけた。

「おお拓人、久しぶり。どうした?」

「実は小説投稿サイトのコメント欄で、一緒に同人誌作りませんかって書き込みがあって」
「なに? スカウト的な? 女子? 男子? 大人?」
「知らない。「ねむ」ってユーザーネームで、歳もわかんない。どう返信したら良いと思う?」
 俺が言うと、亮太はうげぇっと変な声を出した。
「そうだなー、仮に拓人がやってみたいと思っていても、お前の場合即答は危険だよなぁ……あ、条件出してみたら?」
「条件?」
「たとえば、データのやり取りだけで実際には会えないとか、なんかそういうやつだよ」
「おお、なるほど」
「それが都合悪ければ断られるだろうし、それでも拓人の作品を載せて一緒にやりたいって言ってくれるなら、一回くらいはいいんじゃないか?」
「……一回?」
「拓人は簡単に社会に適合できなそうだから、チーム戦は不安要素しかないんだよ。そういうの、やりたいなら一人で作れるようになった方がいいんじゃないのか? だから、今回も下手にリアルで合わない方がいい気がする。自分の事も、あんまりペラペラコメントするなよ」
 そうなのか。
「それより、そんなに人気出てきたのか? あの投稿サイトで」
「そうみたいだなー」
「なに他人事なんだよ。まぁ、いいや。たまには拓人のアカウント覗いてみるわ。ユーザーネーム変えた?」
「変えてない」
「オッケー。スカウトコメントとやらも見てやろう。じゃあな、頑張れよー」
 電話を切ると、部屋の中は異様なほど静かになった。



『コメントありがとうございます。実際に会ったり手売りしたりはできませんが、それでもよければ一度参加させていただいても良いですか』

 亮輔のアドバイスを参考に、俺はコメントに無難な返信を入れた。果たしてこれは正解の答えなのだろうか。相手を怒らせないと良いけど。怒らせていないなら、この返事が『それなら一緒にできません』でもいい。

『うわぁ! ありがとうございます、嬉しいです! データをお貸しいただけるだけでもオッケーですー! たくあんさんとコラボできるなんて夢みたいです! ではまた詳細が決まったら連絡しますね。DM解放しておいていただけると嬉しいです!』

 良かった。答えは正解だった。しかも参加させてもらえるらしい。どんなことをするのか、興味本意ではあるんだけど知ってみたい。

「ん? DM解放?」

 返信コメントが謎すぎて、よくよく調べてみたら、このサイトには直接やり取りができるダイレクトメッセージ機能があって、俺のアカウントでは無効になっていた。だからそれを有効にしておいてくれと言うことだ、たぶん。最初に設定してくれたのは亮輔だから、有効に設定しそびれたか、わざと無効に設定しておいたかのどちらかだな。これはいつでも設定し直せるみたいだから有効に変更しておいた。

 三日ほどして、学校から寮に帰る途中で携帯の通知音が鳴ったから、制服のポケットから急いで取り出すと、投稿サイトからのDM到着通知がポップアップされていた。ねむさんだろうか、早いな。

「ん? シン? だれだこいつ」

『いつの間にかDM送れるようになってたのかー。拓人のクセによく設定できたな。なんか凄いことになってるじゃん? ご褒美に俺からもDMを送っといてやろう』

 亮輔だった。俺にDMを送るために本来不要な投稿サイトのアカウントまで作って。しかもユーザーネームがシンヤでもリョウスケでもなくてシンだったから、一瞬誰だかわからなかった。これがセンスの見せ所というやつなのだろうか? どの辺りがセンスというやつなのかわからないけど、高三とは思えないほど暇なやつだ。

『俺をナメんな、暇人め!』

 短く返信して、携帯を制服のポケットにしまうと、足早に寮へ帰った。
 その後なんとか同人誌の企画は進み、俺は一つだけ、帰宅部シリーズの二次創作小説データを提出した。

夏休みに入ってまもなくのこと。

『たくあんさんが男子高校生だなんて意外でした! 寮で創作続けてたら身バレ怖いですよね。手売りなどはできなくても仕方ないので、もしたくあんさんがよろしければまた時々参加してくださいね。この度は貴重な原稿をお寄せいただきありがとうございました!』

 そんな手紙が同封された冊子が届いた。寮とはいえ本名と住所を伝えたのは正解だったか間違いだったか、いまだによくわからない。

『ユーザーネームどうする? さすがに本名はなー』

 投稿サイトに登録する際に言った亮輔の言葉が耳の奥によみがえる。なんだかんだ言って亮輔は凄い。預言者のように未来を察する能力がある。その能力のおかげで俺自身はすべてユーザーネームに守られていた。『意外』という曖昧な印象に、俺は何となくDM機能を再びオフにしてから、夏休み中に同人誌を販売する予定というイベント出店の告知記事をサイト内で投稿した。
 そうしてスケジュールの決まった忙しい日々がパタンと終わり、この一連の活動が、俺には思いの外楽しかったんだなと気づいた。

「すげぇ……」
 完成した同人誌を見て思わず声が出る。『帰宅部シリーズ』にまつわるさまざまな二次創作を読んだのも、これが初めてだった。やっぱり人の数だけレイヤーがあって、更に無限に広がったパラレルワールドが絶妙な距離で共存している。それが面白くて、夕飯を食べるのも忘れて読み耽っていた。
 夏休み中で帰省していた生徒もいたのに、久しぶりに『叫ぶな』『うるさい』という苦情が入り、寮の管理人さんには『小学生じゃないんだから』と怒られたのも、高校生になってからこの日が初めてだった。確かに、コミュニティアパートを退去してから初めて、気を張らずに過ごしてしまった一日だった。



 オリジナルの物語を投稿しても、やがて肯定的なコメントがちらちら増えてきて、俺は『正解』を書けているのかもしれないと安心できるようになった。読むだけではわからなかったもの。人の感情とか、言葉にはしないのに伝わるものとか。自分の頭の中で生まれた架空の世界は、見てくれる人によって認めてもらうことでやっと存在できる。……俺と同じだ。
 文字でならそうやって頭の中に格納したセリフで何とか言葉を紡げても、行き当たりばったり声に乗せた言葉は間違いだらけ。

 結局世の中の全ての出来事はタネやシカケでできている。そしてやっぱりたくさんのレイヤーが層をなしているから、一生重なることのない他人の気持ちなんて答え合わせできないものなのかもしれない。
 それでもみんな何となく答えの見当をつけているのに、俺は見当をつけるどころか、タネやシカケがあることすら知らなかった。俺の知りたかった感情は、きっとこの中にあるのに。
 ここまで探し尽くしても、いつまでたっても、現実社会の中ではうまく掴み取ることができない。
 台本を覚えたところでそれは自分の言葉じゃないから、適合して馴染んでいるように見えても、そこにいるのはいつも俺自身ではなかった。
 結局社会へ馴染んでいこうともがくだけでこんなに疲れるんだから、多分この先答えの片鱗さえ見つけることなどできないんだろうなと残念な気持ちになった。

「はい、時間だ。後ろから集めてー」
 春。高校三年の最初の進路調査では、適当に「大学進学」とだけ書いて提出していた。きっと適当な大学に合格して親に報告すれば、無難に学費やら何やら送ってくれるんだろう。そんなことだけ察しが良くなって、この希薄な関係すら億劫になっていった。母親と最後に顔を合わせたのは、小学校の卒業式だったっけ。

 チャイムが鳴った後の教室はザワザワとうるさい。近くの席の奴らが俺の調査票を盗み見たのか、こういうのは志望校を書けよーだなんて騒いでいる。

「ねぇ鳥海くん、志望校決まってたら書いた方がいいんじゃない?」
「鳥海は本ばっかり読んでるからどうせ、文系のなんか難しいところだろ?」

 周辺の奴らが口を挟んでくる。本ばっかり読んでて悪かったな。現実世界で会話するより楽なんだよ。

「俺、昼、学食行くから」
「質問に答えろよー。ホント、会話が成立しねーよな」

 現実世界で発する言葉は、良くも悪くもリアルタイムで反応が返ってくる。心の中で思った自分の言葉が、正解かどうかわかるのが怖くて、逃げるように一人で学食へ向かう。口数は少ない方がトラブル回避になる。

「適当な大学……」
 進路調査のせいで、学食でいつもの日替わり定食を機械的に口にしながらずっとそのことを考えていた。目の前に広がっているのは学食の風景じゃない。こういう時俺はぼーっとしているらしい。

 大学へ行っても、今みたいに好きなことでバランスを取って、定期的に文章を公開して、コメントや評価をもらって、タネとシカケとレイヤーの組み合わせが間違っていないことを確認して存在を認めてもらえたと満たされることはできるのだろうか。そんな日々が送れる場所。

「場所……」

 きっとこの先、こんな日々を送るのはだんだん困難になっていくんだろう。亮輔もいつか言っていた。大人の声と体格になったら通報される。つまり大人になるってそういうことなのかもしれない。
 それに亮輔に言われた通り、自分をコントロールする困難を意識し続ける日々は一生続く。寮で迷惑をかけないように、社会にテキゴウできるように、奇声が飛び出さないように……どんなに擬態が上手くなっても、意識が休まる瞬間はない。
 俺はどうやって満たされたらいいんだろう。

 あと4ヶ月……
 俺が今、存在を認められているのはここだけ。投稿サイトのコメント欄だけ。俺にはきっとここしかない。それ以外の場所で台本通りの言葉を口にして違う何かになったって、自分が壊れていくだけだ。

 だからこそ、今挑戦するならこれしかない

 オリジナルの世界観を作り込み、文字で動かしてみた。投稿サイトここで自分の世界を書いた先に、生きていても良い場所をつかんでみせる。

 あと4ヶ月。
 卒業するまでに「ネットの中にならいてもいいんだ」と思える俺が満たされる環境を作って、そこだけで生きていく。

『たくあんさん、一次創作も良いですね! 次も楽しみにしてます!』

 最初にコメントをくれたのは同人誌に誘ってくれたねむさんだった。時々こうして関わりのあったアカウントにコメントしているのを見かけることがある。マメな人だな。そこまで気の回らない俺にはなかなか真似ができない作業。

『ねむさん、ありがとうございます』

 なのに俺は、気の利いた返信さえも上手くできない。正しい答えがわからない。

 寮でも学校でも頭の中はそれだらけだ。そのせいで更に変人扱いを受けたけど、もうそんなのはどうでも良くなっていった。

『たくあんさんの世界、優しくて好きです』
『読みやすくて最後まで一気に読んじゃいました。貫徹!』
『どこかで本当に起こっているお話みたいで、すごく応援したくなっちゃいました!』
『次も楽しみにしています!』

 自分のリソースを全振りする世界は決まった。

 二学期の期末テスト最終日。下校がてら、高校の寮から何駅か離れた、穏やかな土地を散歩していた。卒業後の拠点を見つけようだなんて思い立ったからだ。すると、ふと目に入った古いアパートが、昔の懐かしい住処を思い出させた。建物の目立つ所に「日向荘」というプレートが掲げられていて、すぐ近くに取り付けられた『空室あり』の看板が陽に照らされてキラキラと輝いて見えたから、もういてもたってもいられなくなった。

「すみません、この『日向荘』というところに住みたいんですけど、部屋空いてますか」

 看板に書かれていた不動産屋を訪れて最初に目が合ったスタッフに、スマホ画面を見せつけながら開口一番こんな事を言ったものだから、その人は驚いた様子で俺を見た。

「いらっしゃいませ。あの、高校生、ですか?」

 制服姿の俺にちょっとだけ見開いた目を向け、すぐに大人の笑顔で対応する。

「今高校三年で、卒業後すぐに住める場所を探しているので」
「なるほどそう言うことでしたら……あ、保護者の方は?」
「他県で、今は高校の寮で暮らしています」
「ん? その、卒業後のお部屋を今探されていることを、保護者の方は……?」

 事後報告になるだろうけど、俺が実家に住み着くことを考えたら、保証人くらいには快くなってくれそうだ。

「問題ないです」
「ご存知という事ですね」
「そうじゃなくて、ある程度決めてから報告したいので」
「……そうですか、日向荘ですね。少々お待ちくださいませ」

 制服のように決められているのか、他のスタッフたちとお揃いの紺色のネクタイを揺らしながら椅子に座ると、スマートにパソコンを操作していく。

「空き状況としては、現在ふた部屋ございますが。……周辺でもっと設備の整った築浅のお部屋もありますけど、よろしかったですか?」
「空いているなら、日向荘ここがいいです」

 左手で握り込んだスマホ画面に映るさっき撮影してきた日向荘の外観を、押し付けるように再度見せる。

「……そうですか。内覧は先にされますか? それとも保護者の方にご報告されてからご一緒に……」
「今できますか?」
「い、今ですか?」

 そのスタッフは、奥で静かに座っている別のスタッフの方をチラチラと見た。

「鍵、ご用意できますよ」

 別のスタッフはそう小声で事務的に言って席を立つと、間もなく鍵を二つ持って戻ってきた。

「現在102号室と、203号室が空室でして。築年数が古いですから、大学生にはもう少しセキュリティのしっかりしたところをお勧めしていたりもするんですが……」
「俺、大学生じゃないです」
「あ、高校を卒業されてからのことですよ。やはり若い方が初めて一人暮らしするとなると、ご両親も心配でしょうからね」
「その、卒業しても大学には行かないし、親は心配してないから大丈夫です」
「……左様ですか。……あ、ご就職されるならもっと……」
「(しっ!)」

 奥にいる職員が小さく何かを促していた。
 今だって、寮で多少管理されているというのもあるけど、心配してそうな連絡など一度ももらった事はない。

「二階の部屋、見て良いですか?」
「え? ……あ、勿論でございます」

 二階の端の部屋。昔住んでいた俺の部屋も二階の端っこだった。理由は、角部屋ならば隣接する部屋が少ない分、大きな声を出しても迷惑が最小限に収まるという事だったらしい。親に置いて行かれた子どもに「出ていけ」とは言いにくかったのだろう。適当な時期に、コミュニティハウスの大人達が手伝ってくれて引っ越しをした記憶がある。

「203号室に、来年三月から住みたいので。その、何が必要ですか」

 不動産会社の人達は変な声を出して驚き、「まず保護者の方にご連絡して」と、慌てた様子で俺を説得した。ひとまず日向荘203号室の情報やその他事務手続き上の必要事項を印刷してくれて、この内容をしっかり親に見せて、保護者の同意と身元保証人としての必要書類をもらってくださいと説明された。

 賃貸借契約にまつわる書類を同封した手紙を送ると、母親は何も疑わずに保証人になってくれた。この後本当に大丈夫なのかとか、仕事は何をするんだとか特に聞かれることもなかった。

 そうやって高校卒業と同時に、寮から日向荘の203号室へ引っ越したけど、一・二ヶ月した頃から隣接する部屋が騒がしくなった。202号室と103号室の入退居は頻繁で、いったい一部屋に何人住んでいるんだと驚くくらい、住人らしい顔ぶれも次々変わっていった。
 けど、落ち着いて考えたらわかることで、多分俺が原因。空室ありの看板だけが、あの日と同じようにキラキラ太陽の光を反射して、眩しさで俺を追い出そうとしているみたいだった。

 確かに、子どもの頃から気づかないところで周囲に迷惑をかけていた。空気を読めなかったり感覚が噛み合わなかったりして変な目で見られたり、気づけばこちらを見て笑われたりもしていた。母親が俺だけを置いて兄と別の家族のもとへ行ってしまったのは、たぶんそんな俺が邪魔だったから。こんな自分はもう、最低限の生活を確保する資格さえない。

「もしもし大家さんですか。こんばんは。日向荘203号室の鳥海です」
「鳥海さん。日向荘の……あぁ、203号室の鳥海さん! はいはいこんばんは、どうしました?」

 出ていけと言われても仕方ないという覚悟で不動産会社を挟まず直接大家さんにかけた電話を受信してくれたのは、そんな不安をかき消すような優しい声をした年配の人だった。

「……日向荘に住んでいる人たちが次々入れ替わったり、いなくなったりしているのは……俺のせいですか」
「あらあら突然どうしたの? 何かあったの?」
「俺うるさいですか」
「うー……ん、鳥海さんがと言うのは聞かないけどね、騒音とか、そういうことをたまに聞いたことは、あるわねぇ……」
「……そうですか」
「何か心当たりがあるの?」
「あの、心当たりというか……」

 なにから話したらいいかわからなかった。だから思いつくまま全部。初めて、全部他人に話した。ここに辿り着くまでのいきさつ。ここにも居られないなら、この後どこへ行ったら良いかわからないこと。病院に行ったら治るかもしれないと、今まで思った事がないわけでもない。けど、本質はきっと変わらなくて、俺は生まれた時からこの先もずっと俺なんだ。何をどう変えていけばいいのかもわからないまま、俺の本質を根本から変質させなければ存在できないくらいなら、こんな窮屈な世界なんてもう無理に生きていたくない。

「鳥海さん、若いのに苦労してきたのねえ。そんなに泣かなくても追い出したりなんてしないから、ね」

 ひとしきり話して、大家さんが最初にかけてくれたのはこんな言葉だった。俺は気づいていなかったけど、また勝手に涙が出てきて、ついでに電話越しでもわかるくらい泣きじゃくっていたようだ。慌てて目を擦った。

「あなたがここを気に入ってくれて、ここに居たいと言ってくれるなら、私たちとしても協力しますよ」
「……え?」
「日向荘だけではなくて、他にもアパートは貸していてね、日向荘は築年数も古いし、空室が多少あっても、正直困らないのよ。203号室に隣接する部屋に人がいない方が鳥海さんの気苦労が減るというなら、今偶然空き部屋になっているふた部屋の募集を取り下げるわよ」
「でもそれは……!」
「鳥海さんは今よりも少し気が抜ける時間を作って、203号室であなたらしく生活してちょうだいね」
「俺らしく……って?」

 ……俺らしくって、なんだ? シャカイニテキゴウするために、ずっと違う何かになろうとし続けてきた俺には、見えないところにあるような言葉だった。

「そんなの簡単。あなた自身を正しく知ること。鳥海さんが、自分や周囲の作る思い込みに縛られずに、自然体で暮らせる範囲でできることをすることなんじゃないかしら?」
「自然体……?」
「ウチヘ電話をくれてありがとう。でもそれはあなたにとって第一歩でもあるから、大丈夫。自分の力で一歩踏み出せたのだから、ちゃんとあなたらしい生き方ができるようになるわよ」
「生き……方」
「今日はゆっくりお風呂にでも浸かって、美味しいものを食べて、よく寝なさいね。何かあったらまたいつでも連絡くれていいのよ」

 あの時、はじめて家族に守られているような感覚になって、部屋の空気が温かくなっていくような気がした。家族なんて暖かいと感じたこともないのに。
 203号室の床が抜けた時も何も責めずに103号室への転居を勧めてくれた。他の住人にも説明して回ってくれたし、そうやって顔見知りになった住人たちは、よくわからないけど俺の部屋に溜まるようになった。それに俺が気を張らずに過ごしていても、みんなは俺を置いて行くことはなかった。それどころか、夕飯も余暇も洗濯機さえシェアするようになっていった。
 気づけばぼんやりと視界に映り込んでいたはずの天井が、現実味を帯びた画像として脳で変換されていく。空中に浮かんでいるような錯覚さえある身体が、ゲーミングチェアに仰向けでもたれかかっていただけなのにも気づく。部屋の中はすっかり暗くなって、カーテンをするりと抜け切れた幸運な夕日が、わずかに俺の持ち物を照らしていた。もう、そんな時間か。楽しい日々は時間が流れるのが速くて困る。

 ふと、ガヤガヤと玄関の外で声がしたかと思うと、鍵をかけることさえしなくなった扉がリズミカルに鳴った。

「たーくあーんさーーん!」

 間もなくガチャリと開いて……イチ、ニ、サン、ヨ人。住人たちが続々と103号室へ入ってきた。今日はまた皆さまお揃いで。……ってか、なんでお揃いで?

「ったく、たくちゃん。電気くらいつけろよ。メガネくんよりメガネの度が強くなったらメガネくんが困るだろ? ん? あれ? うん。困るだろ」
「102氏、上手いことを言うであるな」
「上手い……のか」

こいつらのおかげなのは分かってる。俺自身がたぶん何も変わってないことも。それでも俺は今日もじぶんを生きていられる。最低限の気配りと、お互い様と思える空間。寄ってくる人に対していつか去っていくことにおびえていた過去だってしばらくの間忘れていた。こんな気持ちになるのは初めてだ。

なんだよー、今日はみんな同着かぁ?」
「お昼休みに気づいてみなさんに連絡したんで
多少の思いつき感は否めないんスけど……お祝いッスよ!たくあんさんの!」
「お祝い?」
「反宇宙主義団シリーズ第一巻の読者レビュー1000件突破おめでとうございまッス!」
「そうなの?」

 そういえばレビューの件数ってどこかで見れるんだっけ?

「たこパしながらお祝いしましょうってなって」
「この通りだ」

 メガネが得意気に掲げた大きなレジ袋の中にはたこ焼き器が箱ごと入っている。

「Fマートの秋スイーツもね」
「たこもモリモリっすよ!」
「ノンアルとソフトドリンクも込みで飲み物も充実させてきたである」
「……すげーな」

 みんなの段取りの良さに、思わず唖然としてしまう。

「明日のシフトが午後からでよかったー!」
「俺は休みだがな」
「俺も。土曜日だし」
「くっ、僕は朝から通常シフトである」
「ござるさんはお酒強いからなぁ!」
「だよな」
「急いで支度するから、みんな手伝ってくれ」「はーい!」
「うん」
「もちろんである」

「キツネでかした!インドアパーティーだーーっヒャッフゥーーー! 読者レビュー1000件おめっとー俺ーーーーッフォーーーーッ!」
「「「「うるせー! 唐突に叫ぶな!!」」」」

 思わず視界が緩んで、バランスをとるように出た大声を、テンプレみたいにみんながツッこんで、みんなで笑う。
 結局ここではみんながみんなをそれぞれ受け入れて暮らしている。タネもシカケもそれぞれ違うレイヤーのうえに人の数だけあるから、完全にわかろうとしなくたって、噛み合うやつはきっとどこかにいる。
 さすがの亮輔にも予想ができなかったほどの最高な今だ!


《タネもシカケもありマス・完》


ーーフルボイスアニメ版ーー

【朗報】動いて喋る住人たちを覗き見れるのはこのチャンネルだけ!!

▶︎拓人視点のリアルな時間の流れを感じられるフルボイス動画はこちらからご覧いただけます

【連続アニメ小説「日向荘の人々」旅立ち編】
ep.103「タネもシカケもありマス」

【声の出演】
鳥海拓人/韮山蒼太さん
新谷亮輔/石滝涼さん
  *****
上田中真/焔屋稀丹さん
大井崇/Neguさん
金森友太/成林ジンさん
河上翔/控田まりおさん


▶︎小説版では描ききれていなかった、住人たちの出会い編と、そのシナリオアイズ版(脚本)もよろしくお願います!

▶︎わいわい楽しい【日常編】もついに完結!
全てをそこに置いてきた!!


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梅本龍|つくるひと 最後まで読んでいただきありがとうございます!