【試し読み】「先生の机には引き出しがない」プロローグ
『夢みたいな人生を描くことなんて、本当に必要なんだろうか』
コミュニケーションが極端に苦手な大学生・柏木一は、「コミュニケーション能力不問」という奇妙な求人に応募する。そこで出会ったのは、自分自身で築き上げた“生きる仕組み”の中で生きている人気小説家だった。
『……生きる仕組み、僕もほしいです』
彼のもとで働くうちに、安心安全を第一にしていた自分の価値観を揺さぶられていく。挑戦と成長を経て、一は踏み出す勇気を手に入れられるのか。
不器用な若者たちが生き方を見つけていく、静かな青春物語。
プロローグ
「コミュニケーション能力不問……」
そんなアルバイトが本当に存在するのかと、思わず声が漏れた。スマホの画面には、さっき見つけた求人記事が表示されている。
・時給千百円から昇給あり
・業務内で知り得た情報について秘密を厳守できる人
・マニュアルに従って静かに作業できる人
・未経験者可、学生歓迎
・コミュニケーション能力不問
「渋谷は、怖いので」
数分前、僕はそう言って友達の誘いを断った。
「新宿に住んでるやつが何言ってるんだよ」
笑いながら去っていく背中を見送って、気づけば実習室には僕だけが残っていた。
一月とはいえいい天気の金曜日だったけれど、その誘いに応えることは今日もできなかった。だって、あのスクランブル交差点を思い出すだけで息が苦しくなる。生まれ育った新宿だけは、まだなんとか息ができる。そういえば、最初のバイトも新宿で見つけた場所だったけど、先月、青山に移転してしまった。
「みどり書籍……?」
もう一度、画面を見る。
「コミュニケーション能力不問……」
やっぱり何度でも目が惹きつけられる。アルバイト募集の文言でほぼ目にしたことのない一文。もはや、みどり書籍という会社が何屋さんであるとか、仕事内容がどうとか、どうでもいい、と思ってしまう。
マニュアル通りに静かに作業できれば良くて、コミュニケーション能力が問われない上に学生歓迎。完全に僕向きのバイトじゃないか。運命的としか言いようがない。
新宿にはいろんな仕事があるとはいえ、堂々とコミュニケーション能力不問なんて書いてある求人はなかなか見かけない。こんな僕でも受け入れてくれるような条件。やっぱりこのチャンスは逃せない。
えいやっ!
勢いに任せてエントリーボタンをタップした。「エントリーが完了しました」の画面を雰囲気だけ確認して、すかさず窓の外に視線を移し、深呼吸をした。
昼の時間が短い季節だから、A館校舎の十階にある実習室から見える空にはもう、夕日が暖かい光を出して輝いている。それが高層ビル群に並ぶ無数の窓に反射するのを見るのは、とても綺麗で落ち着く。
キラキラとした光のレイヤーに囲まれて、ゆっくりと時間が流れている実習室からは、その遥か下で忙しなく繰り広げられる日常が別世界のように見える。できれば一生守られるようにこの街で生きていきたい。
「あ……」
そうだった。改めて募集記事全体を把握する。
面接地は……
「……池袋か……」
いつもなら迷って立ちすくむところだけど――この瞬間の一歩が、僕の未来を少しずつ変えていく。
窓の外には夕日に輝くビル群。光の層が重なり、まだ知らない世界へ導いてくれるようだった。
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